【断罪】ペルソナ・Ⅵ
部屋は合成ドラッグの甘ったるい残り香と、血の鉄臭さが混ざった空気で満ちていた。
奥の壁際で、衣服を引き裂かれた黄色いジャンパーの少女が床に転がっている。
全身が細かく痙攣し、声にならない呻きが途切れ途切れに漏れている。
その手前のソファの裏に、サヴォイが立っていた。
左頬の傷痕が引きつっている。モニターの映像で全てを見ていたのだろう。
自分の部下たちが、虫けらのように一方的に蹂躙され、沈黙していく過程を。
先ほどまでの下劣な笑みは消え去っていた。
だが、その目には単純な恐怖とは別の色がドロドロと混じり合っていた。
「……お前が、やったのか。一階と二階の全員を」
「五十人弱だな。ゴミ掃除にしては、まあまあ時間がかかった」
ペルソナは私室の中央に悠然と立ち、部屋を見渡した。
棚に並ぶ注射器の列。琥珀色の薬液が入ったバイアル瓶。
壁に掛けられた拷問用のナイフや、悲鳴を上げさせた犠牲者たちの名が書かれたタグのコレクション。
この男の低俗な趣味の全容が、一つの部屋に凝縮されていた。
「ハッ。趣味は悪くないじゃないか。褒めてやる」
サヴォイの体が、わずかに震えていた。だがそれは恐怖だけの震えではなかった。
元クローン。純粋な戦闘用に製造された体。
廃棄と脱走を経てギャングのボスに収まったが、その細胞の根底には戦闘データが深く刻まれている。
目の前の少女が『圧倒的な捕食者』であると脳が警告すると同時に――体の奥底で、戦闘狂としての血が熱く脈打っていた。
「……ガキ一匹に、俺の組織を潰された……か」
サヴォイは上着を乱暴に脱ぎ捨てた。
鍛え上げられた体が、非常灯の赤い光に照らされる。
クローン特有の均整のとれた筋肉。戦闘用に最適化された骨格。無数の傷跡。
「だがな、俺は戦闘用クローンだ。素の戦闘スペックなら、その辺の人間とは次元が違う。……武器なしでやり合おうじゃねえか。どっちが上か、この体で確かめさせろ!」
サヴォイが構えた。正規のクローン警官の近接格闘術。
重心を低く落とし、両拳を顎の高さに上げる。目には血走った覚悟が宿っていた。
部下たちのように無様な命乞いはしない。
戦って、殺して生き残るか、死ぬか。
それが戦闘用クローンとしての矜持なのだろう。
ペルソナはサヴォイの構えを鼻で笑うと、組んでいた腕を解いた。
「素手で。正々堂々と、か。面白い」
「ああ。いくぞ、化け物!」
サヴォイが踏み込んだ。
クローン警官の戦闘データに基づく、最適化された前蹴り。
体重の乗った、ペルソナの腹を正確に穿つ必殺の一撃。
だが、ペルソナは半歩だけ横に避け……赤いジャケットの内側にスッと手を入れた。
――パンッ。
乾いた破裂音が一つ、部屋に響いた。
「がっ……!?」
サヴォイの右膝が砕け散った。
ペルソナがジャケットの内ポケットから抜いた小型拳銃の銃口から、薄い硝煙が立ち上っている。
二階の構成員の一人の腰から、暇つぶしに抜いておいたものだった。
「ごああっ!」
サヴォイが片膝をついた。大量の血が床に広がる。
信じられないという顔で、激痛に歪んだ顔を上げペルソナを睨みつけた。
「てめえ……ッ! 素手でやる、って……!」
「クハハッ、私がいつそんな約束をした?」
ペルソナは拳銃を指先でくるくると回しながら、無様に崩れたサヴォイを見下ろした。
「正々堂々? くだらん。お前の血が騒いだかどうかなど、私には欠片も関係がない。勝手に盛り上がって、実に滑稽だなァ!」
――パンッ。
もう一発。左膝。
「ぎやあああああっ!!」
サヴォイの体が完全に床に崩れ、両脚が使い物にならなくなった。
絶叫が壁に反響する。
ペルソナは拳銃を床にポイと放り捨て、背後の棚に並んだ注射器を一本手に取った。
「お前の自信作だそうだな。痛覚が通常の数十倍になる薬か」
「!?」
サヴォイの顔が、恐怖で醜く歪んだ。
自分が作った悪魔の薬の効果を、誰よりもよく知っているからだ。
「ま、待て……! それは……ッ!」
「有名だぞ。ブラック・ホーネットが拷問に好んで使うそうだな? 試してやろう」
ブスリ。
ペルソナはサヴォイの首筋に、迷いなく注射器を突き刺した。
プランジャーを最後まで一気に押し込むと、数秒で薬が回り始めた。
サヴォイの瞳孔が限界まで開き、全身の筋肉が激しく痙攣する。
床との接触面が、砕けた両膝が、注射痕の針穴が。
全身の全ての感覚が爆発的に増幅され、脳を文字通り焼き焦がす。
「ギ、ア……アギィィィィィィッ!! ア、アアアァァァァッ!!」
サヴォイの口から出た音は、もはや悲鳴とすら呼べなかった。
人間が出す音の範疇を超えた、壊れた機械のような金切り声。
ペルソナはその不快な音を聞きながら、サヴォイの前にしゃがみ込んだ。
「いい声だ。自分の作品の味はどうだ?」
両手を、サヴォイの首に添えた。指が一本ずつ、気管の両側に配置されていく。
まだ力は入れていない。ただ『触れている』だけ。
だが痛覚増幅剤が回った体にとって、少女の指先の圧力すら『焼け火箸で首の肉を焼き切られる』に等しい激痛だった。サヴォイの背が弓なりに反る。
「ヒイイィィィ……ッ!」
「クックッ……苦しいか? そうだろうな!」
指に力が入った。ゆっくりと。
気管が圧迫され、空気の通り道が狭まっていく。
サヴォイの顔が赤から紫に変わり、目の血管が破裂しそうに浮き上がる。
手足が痙攣し、床を掻きむしる爪がベリベリと剥がれていく。
「そうら。苦しいか? どんどん締まっていくぞ」
「……! ……!!!」
ペルソナは急がなかった。
一定の圧力を保ち、窒息と痛覚増幅の『二重の地獄』をサヴォイの脳に丁寧に刻み込んでいく。
意識が飛びかけるたびに力を僅かに緩め、絶望が戻ってきたところでまた絞める。
「かはっ……ヒュー……! ころ……」
「なんだ、死にたいか? もう少し待て。今楽しんでるところだ!」
三度目に力を緩めたとき、サヴォイの目はもう何も映していなかった。
瞳孔が開ききり、口から血の混じった泡が溢れ、痙攣だけが体を動かしている。
「……もう壊れたか。つまらん」
ペルソナは最後の一絞り、力を込めた。
ゴキャッ、と頸椎が軋み砕ける音。そして、静寂。
手を離すと、サヴォイの体が糸の切れた人形のように床に崩れた。
傷痕のある顔は恐怖と苦痛で歪み切ったまま、二度と動かなかった。
ペルソナは立ち上がり、赤いジャケットの袖で手を忌々しげに拭いた。
■
部屋の隅で、掠れた声がした。
「……あ、りがとう……ございます……」
衣服を引き裂かれたミナだった。床に横たわったまま、焦点の合わない目でペルソナの方を見ている。
痛覚増幅剤の効果がまだ残っているのだろう。
全身が小刻みに震え、声を出すだけで顔が激しい苦痛に歪む。
それでも血の滲む唇を動かし、悪魔のような男を倒してくれた相手に、必死に礼を言おうとしていた。
その言葉を聞いた瞬間――ペルソナの表情が、一変した。
「ありがとう、だと?」
「……?」
残忍な笑みが消えた。それどころか、露骨な嫌悪と不快感が顔に浮かんだ。
眉間に深い皺が寄り、赤い瞳が氷のように冷たく細められる。
「……誰が、いつお前を助けたと?」
「え……?」
声が低かった。先ほどの嘲笑の調子とも違う、身の毛のよだつような底冷えのする拒絶だった。
「悪人を殺したから、私が善人だとでも思ったか? くだらん。半端な小悪党が私の視界に入ったから、私が喰らっただけだ。お前のような弱者には虫唾が走るわ」
ミナの顔が強張った。
薬の苦痛とは全く別の、もっと根源的な『死の恐怖』が瞳に浮かんでいる。
ペルソナはミナの顔をゴミでも見るように一瞥し、冷酷に見下ろした。
「勘違いするなよ小娘。お前を殺すも活かすも、私の気分一つだということを忘れるな。……今この場で、お前の首を刎ねても一向にかまわんのだ」
「ひっ……!」
ペルソナが一歩踏み出し、ミナの喉元に手を伸ばそうとした、その時。
――バタンッ!
「や……やめろ! 姉ちゃんから離れろ……!」
私室のドアに何かがぶつかり、乱暴に開いた。
重い足音ではない。軽く、不規則で、何度も壁にぶつかりながら這うように近づいてきた足音。
「ミナ姉……っ!」
リクだった。
顔は原型をとどめないほど腫れ上がり、制服は泥と血で汚れ、右目が潰れたように腫れて開かない。左手で壁を伝い、右手で折れた肋骨を押さえている。
それでも、息絶え絶えになりながら階段を上り、廊下の死体の山を越え、ここまで辿り着いたのだ。
「リ、ク……っ!」
ミナが痛みに顔を歪ませながら、微かに身を乗り出した。
ペルソナは、血まみれのリクを冷たく一瞥した。
そして、盛大に舌打ちをした。
「チッ……」
完全に興が削がれた、という顔だった。
壊れかけの姉と、ボロボロの弟。互いにしがみつこうとする、弱く哀れな二匹の虫。
ペルソナの赤い瞳には、それがただひたすらに不愉快に映ったのだろう。
ミナの首に向かっていた手を下ろし、サヴォイの死体を跨いで、ドアに向かって歩き出した。
リクの横を通り過ぎるとき、少年と目が合った。
ペルソナは何も言わなかった。
ただ絶対零度の視線でリクを一瞥し、虫を避けるように横を通り過ぎて、廊下の血まみれの闇へと消えていく。
編み上げブーツの足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
■
リクは痛む足を引きずり、ミナの隣に崩れ落ちた。
「姉ちゃん……! 大丈夫……!? 無事なの!?」
「リク……あんた、なんで……こんなとこまで……」
ミナの声は掠れていた。薬の効果で全身が悲鳴を上げている。
リクの手が触れただけで、顔が激痛に歪んだ。だが、その手を振り払うことはなかった。
ミナは震える手でリクの腫れた顔に触れようとして、指先が頬に届く前に痛みに耐えきれず力が抜けた。
「……ひどい、顔」
「姉ちゃんの方がひどいよ……服、ボロボロじゃないか」
「……うるさい」
二人とも動けなかった。ミナは薬が抜けるまで体が言うことを聞かず、リクは肋骨が軋むたびに視界が白く飛ぶ。
サヴォイの無残な死体がすぐ横に転がっている。
廊下には構成員たちの死体が散らばっている。
合成ドラッグの甘い残り香と、むせ返るような血の匂い。この世の最悪を煮詰めたような空間だった。
だが、二人とも生きていた。
「……リク」
「何」
「鉄パイプでギャングに殴り込みとか、ほんと馬鹿……」
「姉ちゃんもコンテナで殴ったって聞いたよ。店の人から」
「……それは、あれは、緊急避難的な……!」
「同じだろ」
沈黙が落ちた。配管の水音と、遠くのシフト交代サイレンだけが聞こえている。
ミナが小さく笑った。
笑うと全身が痛んで顔が歪んだが、それでも、ボロボロになりながら笑っていた。
「……帰ろっか。リク」
「うん。帰ろう」
リクは自分の学ランを脱いでミナの肩にかけ、彼女を支えた。
ミナは痛みに耐えながら、リクの腕にしがみついた。
二人とも立つだけで精一杯で、三歩進んで壁にもたれ、また三歩。血だまりの階段を降りるのに十分以上かかった。
アジトの外に出たとき、テラの人工太陽はまだ起動していなかった。
二人はその薄暗い世界の中を、互いの体温だけを頼りに、支え合いながら歩き始めた。
ヒーロー扱いされるのが嫌いなようです




