【断罪】ペルソナ・Ⅳ
ブラック・ホーネットのアジト。
一階は旧来の高圧変電設備がそのまま残されており、錆びた鉄骨と絶縁碍子の森が天井まで続いている。
二階がギャングの居住・作業スペースで、壁には蜂の刺青と同じ意匠のグラフィティが描かれていた。
廊下には合成ドラッグの甘ったるい匂いが染みついている。
その二階の最奥、ボスの私室に四人の構成員が戻ってきた。
先頭の男が肩に担いでいた黄色いジャンパーの少女を、コンクリートの床に乱暴に転がした。
「あ、あぐうううっ……!」
床に転がされた瞬間、少女の体がビクンと激しく痙攣し、喉の奥から引きちぎるような無様な悲鳴が漏れた。
コンクリートの冷たい床に肌が触れるだけで、ポニーテールの髪が自分の頬に当たるだけで……部屋の空気が肌を撫でるだけで、全ての感覚がノコギリの刃のように彼女の神経を削り取っていく。
「ひ……あ、あああああぁぁぁッ!! 痛いっ、痛い、痛いぃぃっ!」
ミナの目は、完全に焦点が合っていなかった。
瞳孔が限界まで開ききり、涙と涎が止めどなく顔を濡らしている。
黄色いジャンパーの下で全身の筋肉が硬直し、弛緩し、また激しく痙攣する。
自分の悲鳴の震動すら喉の粘膜を灼き切るようで、叫べば叫ぶほど痛みが増すという無限地獄に彼女は陥っていた。
「ボス、戦利品です。なかなか生きのいいのが引っかかりましたよ」
報告した構成員の声に応じて、部屋の奥の高級なソファから男がゆっくりと身を起こした。
サヴォイ。
元クローンの脱走個体。推定年齢三十前後。
クローン特有の均整のとれた体格だが、左頬から顎にかけて刃物で深く抉られた古い傷がある。脱走時についたものだ。
その傷跡が笑うたびに歪んで広がり、常に他者を嘲嗤っているような印象を与える。
「お、いいじゃねえか。若いし、生意気そうなツラだ。……声もいいな」
サヴォイはソファから立ち上がり、床で泥水と涙にまみれて痙攣するミナの顔を覗き込んだ。
「やめ……ひっ……触らないで……!!」
顎を掴もうとしたサヴォイの指先が、ほんのわずかに肌に触れる。
その瞬間、ミナの体が弓なりに反り返った。
「ぎぃぃぃっ、あ、あがあああああああっ!!」
鼓膜を破るような絶叫が部屋の壁をビリビリと震わせる。
サヴォイは指先を離して、心底満足そうに唇の端を持ち上げた。
「ハハッ! 毒の効きが最高にいいな。いつもの三倍は入れたか?」
「いや、通常量っすよ。こいつが特別『敏感』なんでしょう」
「そりゃ大当たりだ」
サヴォイは四人を見回した。
全員の下卑た目に同じ色が浮かんでいるのを確認し、人差し指を立てた。
「ただし、すぐ壊すなよ。最低三日は保たせろ。商店の連中にも見せてやれ。ブラック・ホーネットに歯向かったらどうなるかっていう、いい見せしめだ」
「了解っす。三日三晩、たっぷり泣かせますよ」
構成員たちが下劣な笑いを漏らした。
サヴォイはこの薬を調合した張本人だった。
痛覚増幅の配合を何十パターンも試し、最も長く、最も鮮明に苦痛を持続させる悪魔のレシピを完成させた。
彼にとって、他人の苦痛を引き出すことは至高のアートだった。
「つーかこの女、運搬業者のバイトか? ご苦労なこった。殊勝な正義感には、たっぷり報いてやらねえとな」
「待て。ならいいのがあるぞ。新作だ」
サヴォイは背後の棚から注射器をもう一本取り出し、光にかざした。
淡い紅色の液体が揺れている。
「聴覚にも効くように改良した。自分の悲鳴で鼓膜が破れて狂い死ぬくらいになるぜ――」
――ピピッ。
私室の通信端末が鳴った。
外の見張りからだった。
サヴォイは面倒くさそうに注射器をテーブルに置き、端末に出た。
「何だ」
『ボス、ガキが一人来てます。鉄パイプ持って』
「ガキ?」
『テラの学校の制服着た、ヒョロヒョロの男のガキです。パイプ振り回して、姉を返せって泣き喚いてます』
その報告を聞いた瞬間。
床でのたうち回っていたミナの体が、ピタリと止まった。
「あ……」
痛みに狂っていたはずの瞳に、ほんの一瞬だけ、強烈な正気が戻った。
(リ、ク……!? なんで、リクがこんなところに……!)
「へえ、姉ちゃん思いかよ。泣けるねえ」
サヴォイは鼻で笑い、モニターの映像を切り替えた。
アジト正面の監視カメラに、一人の少年が映っていた。
十五か十六。細い体。テラの学校の制服。
右手に廃材から引き抜いたらしい錆びた鉄パイプを握り、肩で激しく息をしている。
恐怖で顔が蒼白だったが、目だけが異様に据わっていた。
「や、やめて……」
ミナは痙攣する体を引きずり、血の滲む指先をサヴォイの靴に伸ばした。
「リク、は……弟、は……関係、ない……っ。だか、ら……お願い……っ」
「ん? なんだお前、弟のことになると随分と必死だな」
「弟だけは……助け、て……。帰し、て……私、なら……なんでも、するから……っ! 玩具に、なるから……!」
ミナは床に顔を擦り付けながら、掠れた声で命乞いをした。
薬の痛みで声帯がちぎれそうだったが、それ以上に、リクがこの地獄に引きずり込まれる恐怖の方が勝っていた。
サヴォイはそんなミナを見下ろし、心底愉快そうに傷だらけの頬を歪めた。
「どうします? 足の骨でも折って追い返しましょうか」
通信越しの部下の問いに、サヴォイは残忍な笑みを浮かべて答えた。
「いや、徹底的に嬲れ。映像回せ。こいつにも特等席で見せてやれ」
「あ……やめ……っ!」
「おい、このメスをモニターの前に座らせろ」
構成員たちに乱暴に引きずり起こされ、ミナはモニターの前に無理やり顔を向けさせられた。
「ガキが本職のギャング相手にどこまでやれるか、見せてもらおうじゃねえか。そのあとボコボコにしてここに連れてこい。姉の前で弟をバラせば、姉の方ももっといい声で鳴くだろ?」
「やめ……てええええっ!! リクーッ!! 逃げて、リクーーーッ!!」
ミナの絶叫が部屋に響き渡ったが、モニターの向こうの弟には届かなかった。
■
リクは走っていた。
ミナのバイト先に連絡がつかなくなったのは二十時過ぎだった。
二十一時になっても帰らず、端末も通じない。
嫌な予感がしてバイト先のテラ・エクスプレスに問い合わせたら、「電動カートだけが卸売店の裏手に放置されていた」と言われた。
ブラック・ホーネットの名前が出たのは、卸売店の震える従業員からだった。
『お姉さんに似た人が、蜂の刺青の連中に連れていかれた』。
それだけで十分だった。アジトの場所は、テラの住人なら誰でも知っていた。絶対に近づかないために、知っているのだ。
廃棄変電施設の正面に立ったリクの手は、鉄パイプを握りすぎて血の気が引き、真っ白になっていた。
通用口の前に、見張りが二人。
どちらも体格はリクの倍以上。電磁ナイフを腰に差している。
「姉ちゃんを……姉ちゃんを返せ……!」
リクは泣きそうな声で叫び、鉄パイプを滅茶苦茶に振り回して突進した。
「はっ、バカが」
一人目の見張りが横に一歩ずれてパイプをあっさり避け、リクの手首を掴んで捻り上げた。
「いっ!?」
パイプが手から離れ、コンクリートに甲高い音を立てて転がる。
同時にもう一人の見張りの重い膝蹴りが、リクの腹に深く突き刺さった。
「がはっ……!!」
内臓が破裂するような衝撃で、リクの視界が白く弾ける。
地面に崩れ落ち、胃液を吐き出すリクの背中を、容赦なく硬い靴底が踏みつけた。
「ぐ、うぅっ……」
肺の空気が押し出され、呼吸ができない。
「姉ちゃんに会いたいかー? 会わせてやるよ。テメェに姉ちゃんを犯させてやる!」
見張りがゲラゲラ笑いながら、リクの頭を地面に思い切り押しつけた。
頬がコンクリートに擦れ、皮膚が裂けて血が滲む。
リクは歯を食いしばり、必死に体を動かそうともがいたが、大人の体重に押さえつけられた体はびくともしなかった。
(ミナ姉ちゃん……助けなきゃ、僕が……!)
モニター越しに見ているサヴォイが、通信で愉快そうに声を上げた。
『おい、もっと顔が映るように押さえろ。こっちの姉ちゃんにも泣きっ面を見せてやれ。最高のエンタメだ』
ミナが狂乱して泣き叫ぶ声が、通信機越しに漏れ聞こえてくる。
『やめて! リクに触らないで! お願いだからあああっ!』
「姉ちゃ……」
――カツ、カツ。
二人の見張りの耳に、軽い、規則正しい足音が届いた。
コンクリートの上を、硬いブーツが叩く乾いたリズム。
一人分。全く急いでいない、散歩のような歩調。
顔を上げた見張りの視界に映ったのは、赤いジャケットにプリーツスカートの少女だった。
小柄。黒い髪。テラのどこにでもいそうな、かわいらしい少女。
アジトの前の通路に、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。
「……おいおい、今日はガキの特売日か? 帰んな嬢ちゃん。ここはママゴトの遊び場じゃ――」
見張りの声が、途中でピタリと止まった。
少女の両手が、二人の首に同時に触れていた。
「ん……?」
いつ距離を詰めたのか、どう動いたのか。
見張りのどちらの動体視力でも全く認識できなかった。
十メートル先の通路を歩いていた少女が、次の瞬間には自分たちの真横にいた。それだけだった。
「――っ!?」
ゴキッ、メキッ。
二つの音が、同時に鳴った。
乾いた、短い音。太い頸椎の骨が一点で折れる音。
「……は?」
二人の見張りが、左右対称に崩れ落ちた。
膝から力が抜け、壁にもたれるように倒れ、そのままピクリとも動かなくなった。
首の角度が、人間の骨格が絶対に許容しない方向に折れ曲がっている。
全工程が、瞬きをする二秒足らずだった。
「……え……?」
リクは地面に這いつくばったまま、目の前で起きたことを理解できなかった。
自分を踏みつけていた重みが一瞬で消え、靴底が背中から離れ、屈強な男たちの体が左右に倒れていく。
その間に立っている少女は、手を赤いジャケットの裾で払うように軽く拭いていた。
モニター越しに全てを見ていたサヴォイの顔から、下劣な笑みが完全に消え去っていた。
「……なん……だ?」
画面の中で、少女が顔を上げた。
正面の監視カメラを、まっすぐに見つめている。
「喜べ。初仕事だ」
暗い紅の瞳がレンズ越しにサヴォイの存在を捉え、口元がゆっくりと、三日月のような弧を描いた。
カメラに向かって、死神が獰猛に微笑んでいた。
来てしまいました




