【依頼人】正義を発揮するなかれ
テラ・ハーモニーブロック第九地区。
集合住宅三十八階、ユニットB-0912。
朝の六時。人工太陽の起動音が遠くで低く唸り、窓の外の灰色が少しずつ白んでいく。
壁面モニターのアラームが鳴る前に、キッチンから包丁がまな板を叩くリズミカルな音が聞こえてきた。
リクは布団を頭まで深く被った。
(……あと五分。あと五分だけ……)
「リク〜! 朝ごはん! 卵焼きが冷めるよ!」
声が薄い壁を突き抜けてきた。
この集合住宅の防音性能は最低クラスだが、それを差し引いても姉の声はよく通る。
拡声器がなくても向かいのブロックまで届きそうな声量で、実際に隣のユニットから壁を叩かれたことが二回ある。
「……あと五分」
「五分後には私がもう出てるから、今食べなかったら捨てるよ!」
(……それはマズい……!)
リクは慌てて布団を剥いで起き上がった。姉の「捨てる」は本気だ。
以前、起きなかったときに本当に貴重なエデン・バーを三本、ゴミ箱に放り込まれたことがある。
配給品を捨てるというテラでの暴挙に、母親は激怒していた。
キッチンに出ると、姉が片手にフライパン、片手に端末を持っていた。
ミナ。二十歳。
テラ第七学区の専門学校に通いながら、マーチャント・ロウの運搬業者でバイトをしている。
茶色の髪をポニーテールに束ね、黄色いバイト用のジャンパーを既に着込んでいた。
端末からは、ハウルコアの低い重低音が漏れている。
違法音楽を朝からゴキゲンに流す姉は、リクの知る限りテラでただ一人だった。
「はい、座って座って。今日のは傑作だよ」
テーブルに皿がドンと置かれた。合成卵の卵焼き。
普通なら味気ない蛍光色の塊だが、ミナはどこから仕入れてきたのか分からない怪しげな香辛料を振りかけ、見た目だけは本物の卵焼きに近づけている。
「……これ、何入れたの?」
「秘密。でも食べられるよ」
リクは恐る恐る口に運ぶ。
味は正直に言えば七十点だが、テラの朝食としては破格だった。
母親は夜勤で不在。父親はリクが八つのときにアンライセンスに転落して以来、戻っていない。
この集合住宅の事情は、どこも似たようなものだ。
「バイト、今日何時まで?」
「二十時上がり。ファウンドリー・ベルトの東回りルートだから、ちょっと遅くなるかも。晩ごはんはエデン・バーで凌いで。ピーナッツバター味がまだ三本あるからさ」
ミナはフライパンを洗いながら、端末の音楽に合わせて腰を揺らしていた。
ハウルコアの重低音は、本来はアンダーの闇の中で生まれた『怒りと絶望の音楽』だ。
だがミナにとっては、ただのヘビメタと大差ない様子だった。
深刻なものを深刻なまま受け取らない能力。それが姉の才能だった。
「リク、学校のレポート出した?」
「出したよ。模範解答のコピーだけど」
「よし。コピーでも出さないよりマシ。うちの学校の先生もそう言ってた!」
ミナは快活に笑った。歯を見せて、目を細めて、遠慮のない笑い方だった。
この笑顔が、リクは好きだった。
テラの朝は薄暗い。影の時間が始まれば、アルミナの底面が太陽を遮って街全体が灰色に沈む。
その灰色の中で、姉の笑顔だけがいつも明るかった。
「じゃ、行ってくるね。戸締まりよろしく」
ミナはブーツを履き、鞄を肩にかけ、玄関のロックを開けた。
ドアの向こうに、集合住宅の長い廊下が蛍光灯の白い光に照らされて伸びている。
ミナは振り返り、指先でリクの額を軽くピンと弾いた。
「顔、ちゃんと洗ってから学校行きなよ。寝癖ついたままだと彼女できないよ?」
「……いない方が楽なんだけど」
「はいはい。強がりは顔を洗ってから言いなさい」
ドアがパタンと閉まった。廊下に黄色いジャンパーの背中が遠ざかっていく。
リクは額をさすりながら、卵焼きの残りを口に押し込んだ。
七十点の味が、姉がいなくなった途端に六十点に下がった気がした。
■
ファウンドリー・ベルト東回りルート。
マーチャント・ロウの運搬業者「テラ・エクスプレス」のバイトは、電動カートで商品を各店舗に届ける仕事だ。
給料は安いが、ミナはこの仕事を一年半続けていた。
ルートは全て頭に入っている。どの店の裏口が開いていて、どの路地が近道か。全部、体が覚えている。
「よし、これで終わりかな……」
最後の配達先は、ファウンドリー・ベルト東端の合成食品卸売店だった。
工場群の外縁部。人通りが少なく、監視カメラの密度もテラの中心部と比べて格段に低い。
シフト交代のサイレンが鳴り終わった後の、人気のない時間帯。
ミナは電動カートを卸売店の裏口に停め、荷台から最後のコンテナを降ろした。
(今日は少し早く帰れるかも――)
「――んんっ……!」
声が聞こえたのはそのときだった。
くぐもった声。叫び声にならない叫び。
(今の声は……!?)
ミナはコンテナを手放し、音の方向に耳を澄ませた。
卸売店の裏手、廃棄された変電設備の陰から聞こえてくる。
(……覗いちゃダメ。関わるな。ここはファウンドリー・ベルトよ?)
テラの人間は、他人の不幸に首を突っ込まない。それが生き延びるための鉄則だ。
だが、ミナの足は考えるよりも先に動いていた。
変電設備の裏にそっと回ると、四人の男が一人の女性を取り囲んでいた。
(……!)
女性は三十代くらい、卸売店の制服を着ている。従業員だろう。
髪を掴まれ、強引に膝をつかされている。口元を手で塞がれている。
そしてその首筋には、電磁ナイフの刃が当てられていた。
(嘘……!)
男たちの腕には、同じ刺青が彫られていた。黒い翅を広げた攻撃的な蜂の図案。
ミナはその刺青を知っていた。
『ブラック・ホーネット』。ファウンドリー・ベルト東端を縄張りにする凶悪なギャング。
最近、この周辺の商店から強引に「保護料」を取り始めたという噂は、配達先の店主たちから何度も聞いていた。
「おいおい、来月分も払えねえってのは困るんだよなあ。サヴォイさんに何て言えばいい?」
男の一人が女性の顎を掴み、乱暴に顔を持ち上げた。
女性の目は恐怖で見開かれ、声にならない悲鳴が指の隙間から漏れている。
もう一人が、電磁ナイフの切っ先で女性の頬を冷たく撫でた。
刃は起動していないが、金属の冷たさだけで十分な脅迫だった。
「サヴォイさんはな、優しいお方だから一回目は許してくれた。でも二回目はねえぜ。指か、耳か。……どっちがいい?」
「んんーっ!」
(……ああ、もうっ!)
ミナの体が弾かれたように動いていた。
電動カートの荷台に戻り、空になった金属コンテナを一つ掴む。
重い。だがアドレナリンが全身を駆け巡っていて、重さを感じない。
「うおおおっ!」
変電設備の角を曲がり、最も近くにいた男の後頭部に、コンテナを力任せに叩きつけた。
ゴガンッ!
「あぎゃっ!?」
金属と頭蓋がぶつかる鈍い音が響き、男が白目を剥いて前のめりに倒れる。
残りの三人が驚いて振り返った。
「何だテメエ!」
「逃げて!!」
ミナは女性に向かって叫んだ。女性の口を押さえていた男の手が、衝撃で緩んでいた。
女性はその隙に体を捻って立ち上がり、変電設備の裏側に向かって必死に走った。
「おい、追え!」
「追わせない……っ!」
ミナは倒れた男と女性の逃走経路の間に立ち、コンテナを盾のように構えた。
追おうとした一人の脛にコンテナの角を突き出す。
「痛えっ!」
男が体勢を崩してよろめいた。
だが、抵抗できたのはそこまでだった。
「このアマ……!」
三人が体勢を立て直すまで、数秒もかからなかった。
コンテナを叩き落とされ、黄色いジャンパーの襟を掴まれ、背中を変電設備の壁に強く打ちつけられた。
「がはっ……!」
肺の空気が押し出され、視界が白く飛ぶ。
女性の足音が遠ざかっていく。
逃げ切った。それだけが、ミナの薄れゆく意識の中で唯一の救いだった。
目の焦点が戻ったとき、三人の男がミナを半円形に取り囲んでいた。
倒された一人も、後頭部から血を流しながらフラフラと起き上がっている。
四対一。電磁ナイフが三本、スタンガンが一本。ミナの手には何もない。
(……やっちゃった)
ミナは壁に背をつけたまま、死を悟った。
心臓は破裂しそうなほど早鐘を打っている。足がガクガクと震えている。
(……リク、怒るかな……)
それでも、逃がした女性のことだけは絶対に後悔していなかった。
「やってくれたな、嬢ちゃん。バイトの配達員か? ……ご苦労なこった」
蜂の刺青の男が、残忍な笑みを浮かべて電磁ナイフを起動した。
低い電子音が唸り、刃が青白い光を帯びる。その光がミナの黄色いジャンパーを照らし、絶望的な色に染め上げた。
久々にド直球オブド直球な悪人たち




