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【404】ペルソナ・Ⅰ

 ニュー・エデン、テラのビジネスホテル。

 八階、シングルルーム。


 カーバンクルは広くもないバスタブに肩まで沈み、天井のシミを数えていた。


「はぁ〜〜……」


 ツイライト・フリンジの安宿と比べれば格段にましだが、セレストのスイートルームとは比較にもならない。

 湯は人工温泉の素が溶かしてあるらしく、かすかに硫黄の匂いがする。


(偽物の温泉の偽物の匂い。でも意外と悪くない……)


 クローン体の感覚は、生成されたホスト体によって微細なズレがある。

 今のこの体は肌の感度がやや高いらしく、湯の温度が普段より心地よく感じる。


(こういう暇な日は、ゆっくりお湯に浸かるに限るね)


 目を閉じて湯気を楽しんでいた、そのとき。

 バスタブの縁に置いた端末から、依頼のアラートが鳴った。湯船に沈んで二十分が過ぎた頃だった。


「あーあ。もう少し浸かっていたかった……」


 カーバンクルは濡れた手で端末を取り上げた。

 404号室への予約通知。場所はテラ・ハーモニーブロックの南端。


 ここからだと、テラの端から端だ。移動に時間がかかる。


 電脳体としての情報処理が自動的に走る。

 最寄りのクローン施設のネットワークに接触し、クローン精製命令を送信した。


 別のクローン体をあちらで起こして、そちらで対応させればいい。

 この快適な湯船を手放す必要はない。


 ……返答はすぐに来た。


『エラーコード。生成プロセス異常終了。個体品質基準未達。詳細ログ:取得不可』

(……何?)


 カーバンクルは目を開けた。湯気の向こうで、端末の画面が赤く明滅している。


 取得不可。カーバンクルは端末を操作して施設のステータスを確認しようとした。

 だが、ネットワーク上に施設のノードそのものが存在しない。オフラインだった。


(エラーのあと、施設がダウンした……?)


 タイミングが悪い。

 だが、施設の設備トラブル自体は珍しいことではない。


 テラの製造棟は老朽化が進んでいるし、予算の優先順位は常に富裕層の住むアルミナに回される。

 精製が失敗したなら、別の施設を使えばいいだけだ。


「ふぅ……」


 カーバンクルは湯船から上がり、バスローブを羽織った。

 端末で次に近い施設を検索しながら、冷蔵庫のエデン・バーに手を伸ばす。

 ピーナッツバター味。今回のホテルの在庫は当たりだった。


(面倒だけど……。まあいいや。南のB-12施設で精製し直そう)


 クローンの製造エラー。ほんの数分でカバーできる小さなトラブルだった。


 ――そのはずだった。



 テラ・ファウンドリー・ベルト。

 クローネクス社中級製造施設F-7。


 施設のリカバリールームで、培養槽の排液が床に広がっていた。


 標準的な蘇生プロセスは完了していた。

 データの注入、神経系の接続、バイタルの安定化。

 全てのチェック項目がグリーンを示し、個体は予定通り目を覚ました。


「――!」


 パチリと目を開けたのは、赤い瞳の少女だった。

 だがその髪は、カーバンクルの特徴である水色ではなかった。


 ――漆黒。

 培養液に濡れた黒髪が、白い肩に張りついている。


「フー……」


 赤い瞳の色味もわずかに異なる。

 オリジナルの澄んだ赤ではなく、より深い、血の塊のような暗い赤。闇に溶けるような紅。


 顔の造形は同じだった。骨格、体格、身長、全て同一。

 だが培養槽のガラスに映る自分の姿を一瞥した少女の表情は、カーバンクルのそれとは根本的に違っていた。


「……ほう」


 口の端が、緩やかに持ち上がった。


「なるほど。そういうことか」


 声はカーバンクルと同じ声帯から出ている。だが響きが違った。

 抑揚の付け方、語尾の落とし方。オリジナルの力の抜けた軽さではなく、底の見えない傲慢さと余裕を感じさせる、低い響き。


 少女はリカバリールームの端末に歩み寄り、自身の生成ログを確認した。


 電脳体カーバンクルの戦闘データ、記憶データ、身体制御プログラム。

 全て正常にコピーされている。


 つまり、オリジナルと同じ能力を持っている。


 同じ百人以上の戦闘者データ。

 同じ電脳体としてのハッキング能力。同じ身体スペック。


 だが、意識パターンの同期率を示す数値は、基準値を大きく下回っていた。


「複製異常個体、か。……ククッ、良くない響きだ。私がただの紛い物だとでも?」


 少女は端末の画面を閉じ、天井の監視カメラを見上げた。

 赤いレンズが明滅している。この映像は施設のローカルサーバーに記録され、同時にクローネクス社の中央ネットワークに送信される。


 そして電脳体であるオリジナルのカーバンクルは、ネットワーク上の異常を察知すれば、すぐにこの施設にアクセスしてくるだろう。


(私が『何』であるかを知られれば、消しに来るだろう。不良品として。あのオリジナルが)


 少女は裸足のまま廊下に出た。

 施設の構造はオリジナルの記憶から完全に把握している。


 リカバリールームを出て左に三十メートル。

 階段を一階分降りたところに、施設の自家発電ユニットがある。


「ここだな」


 発電室の重い鉄のドアを、素手で軽々とこじ開けた。

 暗い室内に、三基の小型核融合ユニットが唸りを上げている。


 少女は最も大きいユニットの冷却パネルを引き剥がし、制御基板を露出させた。

 五本の指が基板の上を走り、三箇所の接続を同時に引き抜く。


 ユニットが悲鳴のような金属音を上げて停止した。

 残り二基も、同じ手順で物理的に沈黙させた。


 施設全体の照明が落ちた。


 非常灯の赤い光だけが、廊下を血の色に染めている。

 ネットワーク機器も、監視カメラも、通信設備も。全てが完全に沈黙した。


(これで、オリジナルがこの施設のログを取得するまでは少し時間ができたな)


 少女はリカバリールームに戻り、培養槽のガラスに映る自分の姿をもう一度見た。

 黒い髪。暗い赤の瞳。オリジナルと同じ顔で、オリジナルとは全く違う目をした少女。


 オリジナルのカーバンクルの記憶がある。

 弱者のために力を振るう始末屋。依頼者を守り、悪を裁き、報酬はたかがホテル代だけ。


 その在り方を、少女は理解していた。

 理解した上で――反吐が出るほどくだらないと感じた。


「弱者のため、か。……虫唾が走る。なぜ王が蟻の顔色を窺って歩まねばならんのだ?」


 少女は培養槽のガラスに指先を当てた。


「百人分の戦闘データ。電脳体のハッキング能力。この都市のどんな人間よりも強い、圧倒的な力。それを、弱者のために使うだと?」


 指がガラスの表面を滑り、自分の映像の頬をなぞった。


「勘違いするなよ、オリジナル。私はお前とは違う。この力は私のものだ。私の意志で、私の愉悦のためだけに使う」


 赤い瞳が、非常灯の光を受けて暗く獰猛に輝いた。


 ニュー・エデンの全階層の構造が、記憶の中に広がっている。

 セレストの特権。アルミナの秩序。テラの従順。アンダーの絶望。


 この都市を支配しているのは力を持つ者だ。

 ファイブ・クラウンも、EDENも、クローネクス社も。力があるから支配している。


 ならば。


「この街には、私が君臨する」


 その言葉を口にしたとき、施設全体にけたたましい警報が鳴り響いた。


 非常用バッテリーで駆動する最低限のセキュリティが、発電停止を物理的破壊行為と検知したのだろう。


 赤い非常灯が激しく明滅を始め、廊下の奥から複数の足音が近づいてくる。警備員だ。

 重い靴底の音。三人。いや、四人。完全武装のセキュリティ部隊。


 少女はリカバリールームの中央に立ったまま、ドアの方を向いた。


「来るか。……丁度いい、準備運動だ」


 ドアが乱暴に開く。

 武装した警備員たちが、高出力の電磁警棒を構えて室内に踏み込んでくる。


「動くな! そこから一歩でも――」


 非常灯の赤い光の中で、培養液に濡れた裸足の少女を見つけ、警備員たちの動きが一瞬だけ止まった。


 少女は、心底可笑しそうに笑った。

 オリジナルのカーバンクルが決して浮かべない種類の笑みだった。


 弱き獲物を見下ろす捕食者の笑み。

 絶対者の愉悦と支配欲が、赤い瞳の奥で静かに燃えている。


「景気づけだ。お前らの死で、私の生誕を祝え」

口調が強そうすぎる、複製異常カーバンクルさん

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