【断罪】少年と少女の別れ
「ガキが……ガキが、舐めやがって……!」
グレンが泥水の中から、バットを震える手で振り上げた。
両膝は完全に砕けている。立っているのがやっとだ。
それでもバットの重みを執念で支え、倒れたコウの頭めがけて振り下ろそうとした。
歯を食いしばり、血と泥にまみれた顔に、醜悪な殺意だけを浮かべて。
(やばい……体が、動かない……!)
コウは薄れゆく意識の中で、自分に向かって落ちてくる凶器を見つめた。
バットが頂点に達し、振り下ろされようとしたその瞬間。
横から、何かが飛んできた。
――キンッ!
小さな金属片だった。配管の留め金か何か。
それが弾丸のような速度でグレンの手首の腱に正確に当たり、骨に響く音がした。
「あぎっ!?」
グレンの指が痺れ、バットが手を離れた。
金属バットがコンクリートの床に落ち、甲高い音が通路に反響する。
「え――」
グレンが間の抜けた声を漏らした。
通路の闇の中から足音もなく、一つの影が歩み出てきた。
フード付きの白いパーカー。水色の髪。暗闇の中で微かに光る赤い瞳。
小柄な体。コウよりもさらに幼く見える。
「だ、誰だ、お前……!?」
グレンの声に、先ほどまでの勝者の余裕は一欠片もなかった。
本能的に何かを嗅ぎ取ったのだろう。砕けた膝が勝手に半歩下がろうとして、バランスを崩し、無様に壁にもたれかかった。
「あなたの処分はね。正直どっちでもよかったんだよ」
少女は倒れたコウの横を通り過ぎ、グレンの前でぴたりと足を止めた。
手を組むでもなく、構えるでもなく、ただ自然体で立っている。
「……は?」
「あの子が復讐を諦めた時点で、あなたは助かってた。私の依頼者が『殺さない』と決めた以上、あなたを殺す理由はなかった。……それが、あなたに残された唯一の生き延びるチャンスだったんだけどね」
少女の声は驚くほど軽かった。
廊下ですれ違いざまに、明日の天気の話でもするような力の抜けた調子。
「でも、あなたはそのチャンスを自分で捨てた。情けをかけられた背後から依頼者を殴って、とどめを刺そうとした。そうなると、話が変わってくるんだよね」
赤い瞳が、冷たくグレンを見上げた。
「依頼者が目の前で殺されるのを、黙って見てるわけにはいかないから」
グレンの思考が急速に回転した。
(このガキは何者だ。なぜここにいる。あのテラのガキとの関係は……!?)
だが、それよりも先に、細胞レベルで体が理解した。
この少女の立ち方、呼吸、距離の取り方。全てが異常だった。
構えていないのに、死角が全くない。自分が今まで回収してきたどんなクローンとも、根本的に違う『何か』が目の前にいる。
「ま、待て。話を――」
グレンが口を開いた瞬間、少女が動いた。
壁にもたれていたグレンの手首の関節に、右手を添えた。
それだけだった。それだけで、グレンの全身が凍りついた。
関節の角度が、ほんの一ミリずれれば手首が完全に折れる位置。
力はほとんど込められていない。
なのに、自分の命が完全に支配されていることだけが分かった。
(次元が違う……!)
「わ、分かった……! 分かった、もうしない! あのガキには絶対に手を出さない。だから見逃してくれ。頼む。頼むから……!」
グレンの声が甲高く裏返っていた。
数分前にコウに得意げに殺意を向けていた男と同じ人間とは思えない声だった。
涙と鼻水と泥が混ざり、砕けた膝がガタガタと震えている。
「見逃してくれ……なんでもする! 金なら……いや、金は今は使えないが、会社に戻って誤解が解ければ、必ず口座が戻る……!」
「…………」
少女が、すっとグレンの目を覗き込んだ。
赤い瞳が、至近距離でグレンの醜い顔を映している。
「クローンの命乞いに、耳は貸さない。あなたもそうだったようにね」
「あ……」
「おやすみ。あなたはもう、|どこにも存在しない《404 Not Found》」
――コキッ。
かちり、と乾いた音がした。
手首の関節がずれる音ではなかった。もっと深い場所。頸椎の、一点。
グレン・ヒューズの目から光がふっと消えた。
表情が凍りつき、体が壁を伝って崩れ落ちる。
コンクリートの床に横たわったその顔には、死の直前の恐怖だけが張り付いていた。
■
コウが目を覚ましたのは、同じ通路の中だった。
「痛っ……」
後頭部がずきずきと痛む。指で触ると、乾いた血がこびりついていた。
体を起こすと、視界がぐらりと揺れた。
すぐそばの配水管に背を預けて、少女が座っていた。赤い瞳がこちらを見ている。
「気分はどう」
「……最悪、だ」
「だろうね」
少女は特に同情するでもなく、短く頷いた。
コウの視界の端に、壁際に横たわるグレンの体が映った。
動いていない。もう二度と動かない。コウは静かに目を逸らした。
「依頼は終わったよ」
少女が立ち上がり、パーカーの埃を払った。
「怪我は……まあ、頭を打ってるからしばらく痛いと思うけど、死にはしない。帰れる?」
「……たぶん」
「じゃあ、帰りな。明日学校でしょ」
少女はそれだけ言って、通路の闇に背を向けた。
足音は最初の一歩だけ聞こえて、二歩目からはもう完全に聞こえなかった。
「……つっ……」
コウは壁に手をついて立ち上がった。
後頭部の痛みが視界を白く明滅させる。一歩ずつ、通路を歩き始めた。
グレンの体の横を通るとき、目を伏せた。伏せたまま、通り過ぎた。
アンダーの闇を抜け、ツイライト・フリンジの灰色を抜け、テラの均一な光の中に戻ったとき。
人工太陽はちょうど朝のモードに切り替わり、世界を白く染め上げようとしていた。
■
二週間が経った。
後頭部の傷は治った。
左腕の切り傷も、薄い線になって消えかけている。
(体の傷って、案外すぐに消えるんだな……)
コウはそのことに少し苛立っていた。
消えてほしくないものまで、傷と一緒に消えていくようで。
学校に通い、レポートをコピーして提出し、パサパサのエデン・バーを齧り、帰宅する。
ルナがいたあの五日間の前と、何も変わらない日常。
何も変わらないことが、一番痛かった。
その日。
帰り道のマーチャント・ロウの大通りが、いつもと違う空気をしていた。
「なんだ、あれ」
人だかりができている。監視カメラの密度がいつもの倍になっている。
歩道の両側にクローネクス社のセキュリティと、ノア・コミュニケーションズの撮影クルーが陣取っていた。
「ねえ、撮影だって!」
「誰だろ。有名人!?」
テラでのロケ撮影。ブロンズ層の日常風景を『リアルに』切り取るというドキュメンタリー風の企画らしい。
テラの住人たちが遠巻きに眺めている。興奮している者もいれば、冷めた顔で通り過ぎる者もいる。
コウは、その人だかりの隙間から、彼女を見た。
「はい、OKです! ありがとう、ルナちゃん!」
(――ルナ)
ルナ・アスティア。
本物。クローンではない、本当のアイドル。
「はい、じゃあ次はこちらのカメラに笑顔でお願いします!」
「はーい!」
完璧にセットされた銀髪。完璧にメイクされた翡翠の瞳。
完璧な衣装。完璧な照明。
カメラに向かって微笑み、スタッフの指示に頷き、次のカットの準備をしている。
同じ顔だった。同じ髪、同じ目、同じえくぼ。
壁面モニターで見るのと寸分違わない。あの安宿で目を覚ましたときの彼女と、分子レベルで同じ顔。
だが、コウにははっきりと分かった。
(違う。全部、違う)
笑い方が違う。目の動かし方が違う。立っているときの重心が違う。
この少女はカメラが好きで、人前が好きで、光の中にいることが自然な人間だ。
バーガーの包み方に戸惑ったりしない。テラの無機質な夜景を見て「きれい」だなんて、絶対に言わないのだろう。
コウが静かに目を逸らそうとしたとき。
ふと、ルナ・アスティアの視線がこちらを向いた。
群衆の隙間越しに、二人の目が合った。
「……え?」
翡翠の瞳が、一瞬だけ揺れた。
スタッフの声が飛ぶ中、ルナはふらりと歩み出て、群衆の奥にいたコウの前で足を止めた。
「ねえ」
「……――」
本物のルナ・アスティアが、コウに直接話しかけていた。
周囲のスタッフが慌てて寄ってくるが、ルナは片手でそれを制した。
翡翠の瞳が、コウの顔を不思議そうに覗き込んでいる。
「わたしたち、どこかで会ったことない?」
「え……」
「なんだか……あなたのこと、すごく懐かしい気がするの」
コウの心臓が止まりかけた。
(……クローンに元の人格の記憶が残るなら。本体の方にも、クローンの記憶の欠片が流れ込むことがあるのか……?)
それとも、ただの偶然か。
同じ遺伝子が、同じ感覚を一瞬だけ生んだだけなのか。
答えは分からなかった。分からなくていいと思った。
コウは、どうにか口角を上げる。
泣くのを必死に堪えるような、不器用な笑い方だった。
「いえ……初めまして。ただの、一ファンです」
「……そっか。ごめんなさい、人違いだったみたい」
ルナは小首を傾げた。納得していない顔だった。
だがスタッフに呼ばれて振り返り、撮影の光の輪の中に戻っていった。
銀髪が人工太陽の光を受けて揺れ、群衆の向こうに消えていく。
「……はぁ……ははっ」
コウはマーチャント・ロウの裏通りに入り、壁に背中を預けた。
空を見上げた。アルミナの底面が灰色に広がっている。
『今日、すごく楽しかった』
人工太陽が影の時間に入り、テラの通りが薄暗く沈んでいく。
コウはしばらくそこに立って、耳の奥に残る彼女の声を聞いていた。
やがて壁から背中を離し、制服の埃を払い、家に向かって歩き始めた。
実はここまではプロローグ的なものです




