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【断罪】泥仕合

「ぐあああっ……!?」


 グレンの左膝が砕けた。

 悲鳴が暗い通路に反響し、壁を伝い、配水管の奥に吸い込まれていく。


 グレンは崩れ落ちながらも、本能的に体を横に転がした。


 ガンッ!


 二撃目のバットが、一瞬前まで頭があった場所のコンクリートを叩き、火花が散った。


「くそッ……!」


 コウは舌打ちした。手が痺れている。


(なんだこの重さ……。全然、思ったところに当たらない……!)


 バットを振るうのは生まれて初めてだった。

 衝撃の逃がし方も、体重の乗せ方も分からない。ただ力任せに振っているだけだった。


「テラの、ガキ、が……!」


 グレンは砕けた左膝を引きずりながら、配水管の束に手をかけて立ち上がった。

 顔が苦痛に歪んでいる。脂汗が額から顎を伝い、医療ガウンの胸元に滴っている。


 だが目は死んでいなかった。


(こいつ……こんな状態でも、まだ……!)


 43年間、テラとアルミナの狭間で生き抜いてきた人間の、どす黒い生存本能が目の奥で光っている。


 グレンは配水管を掴んだまま、折れた膝を庇って後退した。

 コウが距離を詰める。三歩目でバットを横に薙いだが、グレンは上半身を反らして避けた。


 バットの先端が配水管を叩き、錆びた鉄管が折れて茶色い水が噴き出す。


「うわっ!」


 その水がコウの目に入った。

 一瞬の視界の喪失。グレンはその隙に地面から何かを拾い上げた。


 廃棄コンテナの継ぎ目から剥がれた、三十センチほどの鉄板の欠片。

 武器とは呼べない。だが素手ではなくなった。


「お前が……! この茶番を仕込んだのか!」


 グレンが吼えた。声は怒りで裂けていた。


「俺のデータをいじったのか!? 品質管理のスキャン結果を改竄して、俺を異常個体に仕立て上げた……お前が仕組んだんだろう!」

(……何言ってんだ、こいつは。俺が仕組んだ……?)


 あの少女――カーバンクルの存在が脳裏をよぎる。

 だがコウは何も聞いていない。ただグレンの居場所のデータを知らされただけだ。


「死ねえええっ!」


 グレンが鉄板を振り回しながら突進してくる。

 左膝が折れているから、動きはひどくぎこちない。それでも大人の体重が乗った突進はコウを後退させた。


「痛っ……!」


 鉄板の端がコウの左腕を掠め、制服の袖が裂け皮膚が切れた。熱い痛みが走る。


 コウは壁に背中をぶつけて止まった。

 バットを縦に構え、突き出すようにグレンの腹を突いた。


「……の、野郎っ!」

「ぐぶっ!」


 正確な打撃ではなかった。だが先端がみぞおちに入り、グレンが「呻いて前のめりに崩れる。


 コウはその背中にバットを力任せに振り下ろした。


 ゴッ!

 肩甲骨のあたりに当たり、鈍い音がした。グレンがコンクリートに突っ伏す。


「がァっ、あああ……!」

「どうだ……彼女の気持ちがわかったか……!」


 コウの声が震えていた。

 怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。


「逃げ場がなくて、誰にも信じてもらえなくて、自分が何なのかも分からないまま……ただの物みたいに殺される気持ちが!」


 コウはバットを高く振り上げた。


(殺す。そう……こいつは殺さなきゃダメだ!)


 だが、グレンが突然寝返りを打ち、泥まみれの足を払った。


「うわあっ!?」


 コウの足首に踵が当たり、バランスが崩れる。

 膝から落ちた。バットが手を離れ、水たまりの中で金属音を立てて転がった。


「はぁ、はぁ……っ!」

「はぁー……っ! はぁー……!」


 二人とも地面に這っていた。

 プロの戦いではない。技術も駆け引きもない。


 泥と錆水にまみれた二匹の動物が、ただ相手より先に立ち上がろうと醜くもがいている。


「このガキがああ!」


 グレンがコウの襟を掴んだ。コウが咄嗟にグレンの手首に噛みついた。


「ぎゃあっ!?」


 グレンが悲鳴を上げて手を放し、コウの顔面に思い切り額を打ちつけた。


「がはっ……」


 鼻から血が噴き出す。視界が白くなる。


(負けるか……負けるかよ……!)


 それでもコウは止まらなかった。

 血まみれの手でバットを拾い、グレンの右脛を思い切り殴りつけた。


「あぎぃぃぃっ!」


 両脚が使えなくなったグレンは仰向けに倒れ、もう立ち上がれなくなった。

 コウはバットの先端を、グレンの喉に強く押しつけた。


 ガウンの下のグレンの胸が、激しく上下している。

 鉄板はもう手から落ちている。抵抗する力は残っていない。


「殺してやる……ルナの……ルナの仇だ……!」

「や、め……げっ……!」


 コウはバットに体重をかけた。グレンの顔が紫色に変わっていく。


 あと少し力を込めれば、気管が潰れる。

 簡単だ。あの少女が言った通り、殺すこと自体は簡単だ。


 このまま体重をかけ続ければ、終わる。


(やれ。殺せ。ルナのために!)


 グレンの目が、コウを見ていた。


 恐怖で見開かれた目。酸素を求めて痙攣する喉。涙と鼻水と泥にまみれた顔。

 惨めで、醜くて……ルナを処分したときの冷たい無表情の欠片もない。


 ただの、死にたくないと願う、人間の顔だった。


(……)


 コウの腕から、ふっと力が抜けた。


「……げほっ! がはっ! はぁっ……はぁっ……!」


 バットが喉元から離れる。グレンが激しく咳き込み、空気を吸い込む音が通路に響いた。


 コウはバットを握ったまま、グレンの上から降りた。

 膝が震えていた。立っているのがやっとだった。


(……殺せ、なかった……)


 殺してもルナは戻らない。七日間の記憶は戻らない。


 あの「おいしい」という声も、「きれい」という声も、帽子の下から覗く翡翠の瞳も。

 グレンの喉を潰したところで、この世界のどこからも、もう帰ってこないのだ。


 そして、こいつを殺したら。

 こいつと同じになる。命を物として扱う側の人間になる。ルナの最後の笑顔を、俺自身の手で汚すことになる。


「……もう、いい」


 コウはバットを、水たまりの中に落とした。

 バシャンと金属が水を叩く音が、通路に静かに反響した。


 コウは背を向けた。

 足を引きずりながら、一歩、二歩。

 アンダーの暗い通路を、出口に向かって歩き始めた。


(これでいいんだ。あいつはもう全てを失った。あのまま生きてる方が、地獄だ……)


 ――背後で、衣擦れの音がした。


「……え?」


 振り返る暇はなかった。

 後頭部に、鈍い衝撃が走った。


 ゴシャッ。


「――っ!」


 コウが捨てたバットだった。

 両膝の砕けたグレンが地面を這い、バットを拾い、最後の力で振り抜いていたのだ。


「ははっ……ハハハハ!」


 コウの視界がぐらりと回転し、コンクリートの床が近づいてくる。

 倒れる瞬間、背後でグレンの声が聞こえた。


「ガキが……ガキが、舐めやがって……!」


 血と泥にまみれた声だった。息も絶え絶えの折れた声だった。

 だがその中に、取り戻した優位に酔うような色が滲んでいた。


 殺されかけた恐怖よりも、ガキに殴られた屈辱よりも、今この瞬間に『勝った』という事実だけが、グレン・ヒューズの顔に歪んだ笑みを浮かべさせていた。


「情けでもかけたか……? へへっ……クローンに恋して、殺す覚悟もできない半端者が……俺に同情してんじゃねえよ……!」

「ぐっ……ああ……っ!」


 グレンが、バットを杖代わりに迫ってくる。

 死は一転して、コウの喉元に突きつけられていた。

グダグダですやんか

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