【断罪】悪夢の始まり
ツイライト・フリンジの安宿。
三階建て、外壁の塗装は半分以上剥げ、非常灯が断続的に明滅している。
フロントの無人端末に『404』と入力したとき、画面が一瞬だけノイズ交じりに点滅した。
それだけだった。予約は通った。料金は、コウのチップ残高をほぼ全て持っていった。
(……本当に、これだけなのか?)
404号室のドアを開けると、黴びた空調の匂いが鼻を突いた。
壁紙の継ぎ目が浮き上がり、配管が天井を横切り、窓の外には隣のブロックの汚れた外壁しか見えない。
ベッドに腰を下ろし、三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。
(……はは。何やってんだ、俺……)
何も起こらない。やはりただの都市伝説だったのかと諦めかけたとき。
「――よく来たね」
声は、背後からだった。
「――っ!?」
飛び上がるように振り返ったコウの目に映ったのは、フード付きのパーカーを着た小柄な少女だった。
水色の髪。赤い瞳。年齢はコウよりかなり下に見える。
ドアは開いていない。窓も閉まっている。いつの間にいたのか、全く分からない。
「座ったままでいいよ。……で、依頼の内容を聞こうかな。何がしたいの?」
少女はベッドの向かいの壁に背を預け、腕を組んだ。
その姿勢のまま、赤い瞳がコウを静かに捉えている。
コウはそれから、一通りのことを話した。
五日間の逃亡生活のこと。そしてその果てのことを。
「……クローネクス社の品質管理回収部門の男を……殺してほしい!」
「……名前は?」
「知らない。でも、回収部門の四十代くらいの男で……! ……ルナ・アスティアの複製異常個体の処分を担当した奴だ」
「ああ……それだけ情報があれば特定できるよ。たぶんね」
少女は軽く頷いた。まるで天気の話でもするような口ぶりで。
――だが次の言葉は、コウの予想しなかったものだった。
「一つ確認していい? その男がやったこと――複製異常個体の処分。それ、『違法』じゃないよ」
コウの拳が、膝の上で強く握りしめられた。
「……知ってる」
「クローネクス社の内規では、複製異常個体は不良品として回収・廃棄される。法的には『製品の品質管理』に該当する。
男は規定通りの業務を遂行しただけ。この都市の法律は、その子を『人間』とは認めていない。ただの『物』」
少女の声は平坦だった。
残酷な事実を、残酷な感情を込めずに淡々と述べている。
「だから、私があの男を殺すのは……道理に反している」
「だって、金なら……! 404号室を予約すれば、憎いやつを殺せるって!」
「金の問題じゃない。正当性の話。彼は自分の仕事をしただけ。あなたの依頼は、言いがかりに近い」
沈黙が落ちた。配管の中を水が流れる単調な音だけが響いている。
コウはうつむいたまま、震える唇を噛み締めた。
正論だ。テラの法律では、あの男は何一つ間違っていない。
ルナを殺したことも、彼女をゴミ袋のように担いでいったことも、全て『正しい手順』だったのだから。
「……でもね」
少女は壁から背を離し、半歩だけ前に出た。
「どうしても許せないっていうなら、自分で殺す手もあるよ」
コウは顔を上げた。
赤い瞳が、何の感情も浮かべずにこちらを見ている。
「人を殺すっていうのは、思ってるよりずっと簡単だよ。ナイフでも、鈍器でも、やろうと思えばできる。
……難しいのは殺すことじゃない。殺した後、自分の中に残るものと一生暮らしていくこと」
少女は窓の外に目を向けた。
隣のブロックの外壁が、夜の照明に照らされて薄汚れ、灰色に光っている。
「……その子のこと、好きだったんだよね」
「……うん」
「生まれて七日の子だったんでしょ。たった五日一緒に逃げただけ。それでも?」
「……七日だったから、だよ」
コウの声が震えた。
呼吸を整える。拳の震えが止まらない。
「七日しかなかったのに……あいつに、あんなふうに。あいつは、ルナを処分した。ゴミみたいに……!」
あの日、ルナの頬に残ったえくぼが脳裏に焼き付いている。
「あの子が最後に、俺のために笑おうとしたこと……あいつは見てもいなかった! バーガー食って『おいしい』って笑ったことも、テラの安っぽい夜景を見て『きれい』って言ったことも、あいつはそんなもの一生知らないまま、明日もクローンを処分して、何も感じないで家に帰るんだ!」
コウは自分の膝を見つめ、涙が落ちないように目を力一杯見開いた。
「それが許せない。法律がどうとか、違法かどうかとか、そんなのはどうでもいい。俺が、あいつを許せないんだ。俺が……っ!」
少女はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。吐息のような、ため息のような。
「……わかった」
ただ一言だった。それ以上の感情は読み取れない。
少女はパーカーのフードを被り直し、ドアに向かった。
「あの人の情報は、あなたの端末に送っておくよ。名前と、住所と、行動パターン。……あとはあなたが決めること」
ドアに手をかけたまま、少女が最後に振り返った。赤い瞳がフードの影から覗いている。
「……人を殺した後、自分を許してはいけないよ」
「……」
「その子のことを忘れない方法は、たぶんそれしかないから」
ドアが静かに閉まった。
部屋に、カビの匂いと配管の水音だけが残った。
■
グレン・ヒューズ。四十三歳。
クローネクス社品質管理回収部門、主任。
テラ・ハーモニーブロックの中でもやや上等なユニットに住んでいる。
回収部門の主任は、ブロンズ層としては悪くない待遇だった。
クローネクス社の社員には、業務で廃棄予定のクローンの「私的利用」が暗黙に認められている。
人権のない製品だ。ストレス解消に使おうが、誰にも咎められない。
「ああ……あ、あ……」
その日の夜、グレンは自宅ユニットに規格落ちのスタンダード・ラインを一体持ち帰っていた。
感情機能が最小限に設定されたはずの個体だが、グレンが服の襟を掴むとわずかに身を竦めた。
反射だろう。グレンはそれを面白いと思った。
「うう……あ」
「やっぱり、多少は反応するもんだな。だからこそ壊し甲斐がある」
独り言を呟きながら、革靴を脱ぐ。
壁面モニターにはノア・ネットワークの夜間ニュースが流れている。
『ルナ・アスティアの新作映画の興行収入が記録を更新した』と女性キャスターが伝えていた。
グレンはふと、先週処理したあの異常個体のことを思い出す。
(ルナ・アスティアのクローンか……。バカバカしい。人形にいっぱしの名前をつけて、恋人ごっこをして、壊されたら泣く。傑作だ)
笑い話だ。来週の回収部門の飲み会で話してやろう。
(本当は俺も生かして遊びたかったんだが。さすがに上から、確実に殺せって言われてたからな)
連れ帰ったクローンの腕を引き、寝室に押し込んだ。
モニターの中で、本物のルナ・アスティアが完璧な笑顔で微笑んでいる。
(まぁいい。俺が遊ぶのはこういうので充分だ――)
「う……あ……」
■
翌朝、グレンは機嫌がよかった。
出勤前にクローンを処分し、残骸を廃棄ボックスに入れた。
リサイクル業者が回収に来る曜日だ。ちょうどいい。
今日の業務スケジュールを確認しながら、ファウンドリー・ベルト方面の歩道を歩く。
朝のテラは影の時間に入っていた。
アルミナの底面が人工太陽を遮り、地表が薄暗い影に沈んでいる。
歩道の端で、クローン警官とすれ違った。
グレンのエデン・チップに着信が入った。
今日の回収リストだ。三件。うち一件が複製異常個体。
「また面倒な案件か……。不良品が多すぎる」
舌打ちしながら画面をスクロールしたとき。
――音が聞こえた。
モーターの唸り。タイヤの軋み。異常な速度で接近する駆動音。
グレンが顔を上げたとき、視界の左端から無人の搬送車両が歩道に突っ込んできた。
(な……!?)
自動搬送車両のAI制御は、通常、歩道への進入を許可しない。
だが車両のフロントパネルは暗転している。異常事態――
――ドンッ、という鈍い衝撃。
衝突の瞬間、グレンの体が三メートル飛んだ。
「がはぁっ……!」
アスファルトに叩きつけられ、肋骨が肺を突き破る感触。
視界が明滅する。口から溢れる鉄の味。遠くで誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
搬送車両は、そのまま速度を落とすことなく走り去った。
「が……あ……!? なん……だっ……と……」
グレンの視界の端で、砕けた端末の画面が明滅している。
人工太陽の光がまだ届かないテラの影の中で――グレン・ヒューズの意識は完全に途切れた。
当然まだ制裁終わりじゃないですよ はねられたけど




