【依頼人】別れの時
それから四日間。
二人はテラの隙間を縫うように渡り歩いた。
昼は監視カメラの死角を繋いでマーチャント・ロウの雑踏に紛れ、夜はクローン警官の巡回が来ないツイライト・フリンジの安宿に泊まった。
コウのエデン・チップの残高は、一泊ごとに目に見えて減っていく。
三桁になり、やがて二桁になった。
母親には「友達の家に泊まる」とだけ送った。返信は来なかった。
夜勤続きの母にとってそれはいつものことだったし、そもそもコウの動向に深い関心などないのだ。
逃亡生活の中で、ルナは日ごとに「人間らしく」なっていった。
「コウ、見て! うまく開けられた!」
「おお、上達したな。でもソースは垂らすなよ」
バーガーの包装紙を一人で開けられるようになり、合成果汁の冷たさにもう驚かなくなった。
最初はぎこちなかった歩幅も、コウの歩く速さに合わせて隣を歩くようになり、ときどきはぐれないようにコウの袖を指先でつまむようになった。
(いつまでも、こんな生活が続くわけない。分かってるのに……)
「ねえ、コウ」
四日目の夜。安宿の硬いベッドに並んで座り、ルナが天井を見上げて言った。
「わたしね、自分のことをずっと『失敗作』だと思ってたの。生まれた瞬間から、消されるためだけに作られた個体なんだって」
「…………」
コウは何も言わずに続きを待った。そんなことないよ、なんて言葉は安っぽく思えたからだ。
配管を伝う水音が、薄い壁の向こうで単調に響いている。
「でもね……コウと過ごしたこの四日間で、思ったの。失敗作でも、エラーでも、生まれてよかったって。バーガーは美味しかったし、夜景はきれいだったし……」
ルナがゆっくりと体を傾け、コウの肩に頭を預けた。
帽子を脱いだ銀髪が、安宿の青白い照明を淡く弾いて輝く。
「……コウが、いてくれたから」
「……っ!」
コウは動けなかった。心臓の音がうるさすぎて彼女に聞こえてしまわないかと、それだけが心配だった。
だが、現実は冷酷だった。
「……金。もう、ほとんどないんだ」
コウは絞り出すように、正直に言った。見栄を張る余裕すらもうなかった。
「明日の宿代で、たぶん完全に終わる。そこから先、どうやって逃げればいいか分からない。俺……ただの高校生だから。何の力も、金も、コネもない」
「……知ってるよ」
ルナは柔らかく笑った。その声に、責める色はどこにもなかった。
「それでも、コウはわたしのために走ってくれた。逃げてくれた。それで十分だよ」
(十分なわけがあるか……っ!)
コウは膝の上で拳を強く握りしめた。
この子を幸せにしてやりたい。生まれてたった七日の命に、もっと美味いものを食わせて、もっときれいな景色を見せてやりたい。
だが、彼の手には、空になりかけたチップの残高しなかった。
無力だった。これ以上ないほど、絶望的に無力だった。
■
五日目の朝。
安宿のドアが、内側からの解錠を待たずに開いた。
――ガツン! ジィィィィィッ!
(しまった……!)
強制解除ツールの駆動音。コウはその音を覚えていた。あの夜と同じ音だ。
「動くな」
飛び起きたときにはもう遅かった。
黒い回収用スーツの男たちが部屋になだれ込み、コウは力任せに床に押し倒された。
「ぐっ……!?」
「きゃあっ!?」
頬が冷たいリノリウムの床に押しつけられる。
ルナが短い悲鳴を上げ、二人がかりで腕を拘束された。
最後に、ゆっくりと一人の男が入ってきた。
「はぁ〜あ……ようやくだぜ」
クローネクス社、品質管理回収部門。胸の認証タグにそう刻まれている。
歳は四十代ほど。整った身なりに、感情の読めない平坦な表情。
男は手にしたデータパッドを一瞥し、ルナの顔と照合する。
「個体番号LA-09。複製異常個体。確認」
男の声に、温度はなかった。
「手間をかけさせてくれたな。三日で処理できるはずの案件が、五日だぜ」
男は床に這いつくばるコウに視線を移した。値踏みするような、路傍の虫を見るような目だった。
「テラのガキか。なるほど、こういうのが一番厄介だ。判断力のない年頃が、人形に情を移す」
「人形じゃ……ない……!」
コウは床から必死に声を絞り出した。だが男は薄く笑っただけだった。
「人形だよ。記憶をコピーしただけの不良品だ。本物のルナ・アスティアは今日もアルミナで撮影中だ。『これ』は、その遺伝子から出来損なった、ただの廃棄物にすぎん」
「ふざ、けるな……! 彼女は、笑って……」
「はん」
男はルナの顎を無造作に掴み、顔を強引に上げさせた。ルナの翡翠の瞳が恐怖に揺れる。
「とにかく、ガキの夢は終わりだ。五日も一緒にいたんだ。ヤラせてもらったんだろ? よかったな」
ブツン、と。
コウの頭の奥で、何かが焼き切れる音がした。
「ふざけんな……っ! このクソ野郎!!」
「ハッ、怒んなよ。図星か? それともプラトニックでも気取ってたか?」
(違う。そんなものじゃない。……彼女が初めてバーガーを食べた顔も、夜景をきれいだと言った声も、肩に預けてきた頭の重さも……そんな下劣な言葉で汚していいものじゃない!)
だが、拘束された腕はピクリとも動かない。
叫ぼうとした声は、男の次の動作にかき消された。
男は腰のホルスターから、注射器型の処理器具を抜いた。
「複製異常個体は速やかに処分する。それが規定だ。自我を持った不良品ほど、後が面倒になるからな」
「やめろ……! やめろぉっ!!」
コウは床に爪を立てて暴れた。
だが、スーツの男に膝で背中を強く押さえつけられ、息が詰まる。
「ルナ……! ルナぁっ!!」
ルナが、必死にコウを見た。
恐怖に震えながら、それでも、彼女は笑おうとした。
「コウ、ありがとう。わたし……生まれて、よかった……っ」
シュッ。
男の処理器具が、ルナの首筋に当てられた。
空気が抜けるようなごく小さな音。それだけだった。
ルナの翡翠の瞳から、光がスッと消えた。
作りかけのえくぼが頬に残ったまま、彼女の体は糸が切れたように崩れ落ち、二度と動かなくなった。
「あ……ああ……」
コウの喉から、声にならない嗚咽が漏れる。
「処理完了。報告しておけ」
男は事務的にルナの体を肩に担ぎ上げた。
生まれて七日の少女を、ゴミ袋でも運ぶように。
部下に告げ、男はコウを見下ろした。
「いいか、ガキ。お前は何も見ていない。複製異常個体なんてものは、最初から存在しない。お前が抱いてた感情も全部、よく出来た人形に対する錯覚だ。家に帰って忘れろ」
「お……前……ッ!」
「俺らの仕事を妨げたんだ。命があるだけありがたく思えよ、色男」
ドアが無情に閉まった。
床に這いつくばったコウの目の前に、ルナが被っていたあの帽子だけがぽつんと落ちていた。
■
コウは日常に戻った。
戻ったように、見えた。
学校へ行き、エデン倫理学のレポートを模範解答からコピーして提出した。
「おっ、今日も手抜きかよ」
「……まあな。真面目にやったって意味ない」
タケルの何も面白くない冗談に、乾いた声で笑ってみせた。
家に帰って、母親の作り置きの大豆カレーを無言で食べた。
一口目を口に運んだとき。
『……おいしい』
「――!」
ルナの声が耳の奥で蘇って、スプーンが止まった。カレーの味は何も感じなかった。
何も変わらない。
テラの空は今日も均一に明るく、影の時間に均一に陰り、夕暮れに均一にオレンジ色に染まる。
だがコウの中で、一つだけ変わったものがあった。
(――あの男を、殺す)
それは衝動ではなかった。怒りで沸騰した一夜の決意でもなかった。
日常を一日繰り返すたびに、その思いは熱を失い、代わりに鉄のように冷たく、硬く、鋭くなっていった。
あの平坦な声を。虫を見るような目を。
コウは一秒も忘れなかった。忘れないことを自分に課した。
だが、彼はただの高校生だった。
武器の入手先も知らない。クローネクス社の回収部門がどこにあるのかも知らない。あの男の名前すら知らない。
無力はルナを失った後も、何一つ変わっていなかった。
「……くそ……」
その晩、コウはツイライト・フリンジの路地裏で、行く当てもなく壁に寄りかかって座り込んでいた。
ふと、壁にアンダーから這い上がった誰かが描いたグラフィティがあるのに気づく。
剥がれた塗装の上に、震える手で書かれたような数字。
(ただの落書きか……)
そう思って視線を外そうとしたとき。
その隣に、小さな文字で添えられている言葉が目に入った。
『――どうしても許せない相手がいるなら。404号室を予約しろ』
豆知識
落書きの一部はカーバンクルが自分で描いているものもある




