【依頼人】夜の逃避行
コウが恐る恐る振り返ったとき、少女の視線はすでに端末の画面を捉えていた。
『じゃあみんな、また明日ね! おやすみなさーい!』
画面の中のルナ・アスティアが、視聴者にキスを投げている。
十二万人がハートマークで応える。
その光が暗い部屋で少女の顔を照らし、翡翠の瞳に小さな画面が二つ映り込んでいた。
「あ――」
数秒の、息が詰まるような沈黙。
やがて少女の唇が薄く開き、閉じ、もう一度開く。
「……見ちゃっ、たんだね」
怒りでも悲しみでもなく、ただ静かな諦めだった。
少女はコウの隣にすとんと座り、膝を抱えた。
借り物のシャツに顔を半分埋めて、壁の一点を見つめている。
「ごめん……逃げたって言ったの、嘘。撮影が過酷だったっていうのも、全部」
「……そっか」
「ごめんなさい」
消え入りそうな声だった。
コウは小さく息を吸い込み、端末の画面を伏せた。
「じゃあ、本当のことを教えてほしい。君は……何者なんだ?」
声が震えていないことに、コウ自身が驚いていた。
恐怖はある。だが、目の前の少女が今にも消えてしまいそうな顔をしていることの方が気にかかった。
少女は長い間黙っていた。配管を流れる水の音だけが部屋に響いている。
やがて彼女は顔を上げ、コウの目をまっすぐに見た。
「わたしは、ルナ・アスティアの……クローンだよ」
(……は?)
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「クローン……? なんでアイドルのクローンが……ってか法律、クローンは本体と同時に動いちゃだめなんじゃ……」
「クローネクス社で作られたの。本物のルナが忙しくなりすぎて、万が一倒れたときのためのスペアとして。でも……わたしは、出来損ないだった」
少女の声は淡々としていた。
自分のことを語っているのに、どこか他人事のような調子で。
「わたしみたいなのって、複製異常個体っていうの」
「複製……異常?」
「クローン生成のときに、電波環境とか施設の状態とか、いろんなものが重なってバグが起きることがあるらしいの。そうすると、見た目は完璧に同じなのに……中身が全然違う個体が生まれる」
「中身が……違う?」
「うん。ルナの記憶はあるよ。台本を覚える能力も、歌い方も、演技の技術も、全部頭に入ってる。でも……わたしは、ルナじゃない」
少女は、ぎゅっと自分の手のひらを見つめた。
「同じ顔で、同じ声で、同じ記憶があるのに、わたしの中にいるのは全然知らない誰かなの。……目が覚めたとき、自分が何なのか、分からなかった」
コウは黙って聞いていた。複製異常個体。
そんなものは聞いたことがない。学校のクローン技術の授業でも、そんな言葉は出てこなかった。
だが、少女が嘘を言っていないことだけは分かった。
(……だからか)
テラの安っぽい夜景を「きれいだ」と言った声。
テレビに自分が映るのを怖がった目。
全部が、この説明と繋がった。
彼女はルナ・アスティアの記憶を持ちながら、ルナ・アスティアとしては生きられない別の人間なのだ。
「……信じるよ」
「え……?」
少女が弾かれたようにコウを見た。
「信じる。理屈はよく分からないけど」
「コウ……」
少女の目が大きく揺れた。泣きそうな顔になりかけて、下唇を強く噛んでこらえた。
コウは端末の電源を完全に切った。
本物のルナ・アスティアの気配が消え、部屋が静寂を取り戻す。
「とりあえず、明日どうするか考え――」
――ガツン! ジィィィィィッ!
「!?」
鋭い音が聞こえた。
ユニットのドアの外。低い電子音と、金属を削るような駆動音。
解錠コードを入力する音ではない。
(強制解除ツール……!? 母さんじゃない!)
コウの体が凍りついた。
隣を見ると、少女の顔から完全に血の気が引いていた。
「……来た」
一言だった。その一言に詰まった絶望的な恐怖の密度で、コウは全てを悟った。
「窓だ!」
「えっ?」
コウは少女の手首を掴み、キッチンの窓を勢いよく開けた。
三十二階。
だが隣のユニットとの間に共用の非常階段がある。
母親が深夜に出勤するとき、エレベーターが停止している時間帯に使う階段だ。
背後でドアが蹴破られる金属音がした。
複数の足音。重い靴底がリビングに踏み込んでくる。
「どこですか。我々は怪しいものではありません!」
「複製異常個体の捜索を行っています……!」
(振り返るな。見つかったら終わりだ!)
「走れ!」
コウは少女の手を引いたまま、窓から非常階段へと飛び出した。
■
テラの夜を、二人は走った。
非常階段を十五階分駆け下り、裏口からハーモニー・ブロックの路地に出る。
(なんで俺、こんなことしてんだ!? 相手はクローネクス社の回収部隊だぞ。一般市民の高校生が勝てるわけない!)
ばかげている。正気じゃない。
だが、コウが握りしめている少女の手首の、細い骨の感触。
それを手放すことが、どうしてもできなかった。
「はぁ……はぁ……っ!」
「こっちだ、ルナ!」
マーチャント・ロウの雑踏に紛れ込んだところで、コウはようやく足を止めた。
息が上がっている。心臓が喉元まで跳ね上がっている。
少女も肩で息をしていた。借り物のシャツが汗で張り付き、銀髪が額にへばりついている。
(この子は目立つ。アイドルだって一目でわかる。どうにか隠さないと……)
コウは周囲を見回し、深夜まで開いている安物の衣料品店を見つけた。
「ここで待ってて。すぐ戻るから」
「う、うん」
コウはエデン・チップで支払えるぎりぎりの安い帽子と、フード付きのジャケットを買った。
(くそ、今月の残りは完全にエデン・バー生活だ。……もともとそんなもんだけどな)
路地の影に戻ると、少女は膝を抱えて小さく震えていた。
「ほら、これ被れ。その髪は目立つ」
「……うん」
少女は受け取った帽子の中に、銀髪を丁寧に押し込んだ。
コウが上からジャケットを羽織らせると、少女は袖口の布をぎゅっと握りしめた。
「……ごめんなさい。巻き込んじゃって」
「気にするな。俺が勝手に手、引いて走っただけだ。巻き込まれたんじゃない」
虚勢だった。コウの手はまだ微かに震えていた。
後悔しているかと訊かれたら、多分している。
だが、後悔と「少女の手を離さなかったこと」とは、全く別の場所にある感情だ。
■
深夜のマーチャント・ロウの端に、二十四時間営業のファストフード・スタンドがある。
合成肉のバーガーと、合成果汁のドリンク。テラの人間が特別な日でもない限り行かない場所だ。
コウは二人分を注文し、少し離れた公園のベンチに座った。
ベンチの下を配水管が通っていて、微かに振動が伝わってくる。
頭上では、アルミナの底面に取り付けられた航行灯が等間隔に点滅している。
「食えるか?」
「……うん」
少女がバーガーの包装紙を開こうとする。
だが、その手つきはやはりぎこちなかった。紙の端を見つけられずに少し苦戦している。
「貸してみろ。こうやって、ここから剥くんだ」
「あ……ありがとう。こう?」
コウが手本を見せると、少女はそれを真似するように、ゆっくり、丁寧に開いた。
そして、おずおずと一口、噛む。
瞬間、翡翠の目がまん丸になった。咀嚼するたびに、こわばっていた頬がわずかに緩んでいく。
「……これも、すごくおいしい!」
「テラのファストフードだぞ? 安い合成肉の塊だ」
「知ってる。知識としては。合成タンパクを圧縮成形して、香料で味付けした……」
少女はバーガーを両手で大事そうに包んだまま、不思議そうな顔でコウを見た。
「でも、知識として知ってることと、実際に食べることって……全然違うんだね」
「そりゃ、まあ……」
「わたしね、生まれてからまだ七十二時間くらいなの」
コウの手が、ピタリと止まった。
「……え?」
「目を覚ましたのは三日前。頭の中にはルナの記憶が全部あるから、言葉も喋れるし、ニュー・エデンのことも知ってる。でも……」
少女は合成果汁のストローを咥えた。
一口吸い込んで、少し驚いたように眉を上げる。
「冷たい。……飲み物って冷たいんだ。これも知識では知ってたけど、こういう感覚なんだ」
「……」
「自分の体で何かを食べたのも、今日が初めて。風を感じたのも。誰かに手を引かれて、必死に走ったのも。全部、今日が初めてだったの」
コウは何も言えなかった。喉の奥が詰まっていた。
(生まれて三日……。こいつにとって、さっきの大豆カレーや、この安っぽい合成肉バーガーが『人生最初の食事』で……)
配水管の振動する硬いベンチが『人生で最初の椅子』で。
マーチャント・ロウの過剰な広告ホログラムが『人生で最初の夜景』なのだ。
「ねえ、コウ」
「……何」
「追われて逃げてるのに、こんなこと言ったら変だけど」
少女はバーガーの最後の一口を飲み込んで、帽子の下から覗く翡翠の瞳でまっすぐにコウを見た。
「今日、すごく楽しかった」
ドクン、と。
コウの胸の奥で、何かが鳴った。
コウは合成果汁のカップを強く握りしめた。
上空では、アルミナの航行灯が変わらず明滅している。
監視カメラの赤い点滅が、二百メートル先の角で光っている。
追っ手はまだ探しているはずだ。エデン・チップの位置情報は補足されるかもしれない。
そして明日の朝が来れば、このベンチにも夜明けのシフト交代の労働者が溢れ、二人の居場所はなくなる。
(俺はただの高校生だ。金もないし、力もない。何ができるっていうんだ)
だが、少女が「楽しかった」と言った。
生まれて三日の命が、合成肉のバーガーを食べて、怯えながら走って、それでも楽しかったと笑ったのだ。
コウはカップをベンチに置いた。
そして、自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。
「明日、もう少し美味いもの食わせてやるよ」
「え……?」
少女が目を丸くした。
そして、テレビの中では決して見せない、不器用で、歪な、けれど紛れもない『本物』の笑顔で笑った。
「……うんっ!」
こういうセカイ系な恋愛いいですよね
なお




