【依頼人】アイドルの声
結局、コウは少女を家に連れて帰った。
(なんで俺、こんな厄介ごとを……っ!)
理由を訊かれたら答えられない。正しい手順はクローン警官への通報だった。それは分かっている。
だが、気を失った少女を薄暗い路地に放置する選択肢は、コウの中にはなかった。
背負った体は驚くほど軽く、骨の輪郭がパーカー越しに伝わってくるほどだった。
ユニットD-1107のドアを閉め、ソファに少女を横たえる。
母親の夜勤は朝までだ。それまでに、どうにかして彼女を「元の世界」に帰さなければならない。
十五分ほどして、少女が身じろぎした。
「……ん……っ」
翡翠色の瞳がゆっくりと焦点を結ぶ。
見知らぬ天井、見知らぬ部屋。そして見知らぬ少年の顔を順番に捉える。
「あ……目、覚めたか?」
「――ひっ!」
一瞬、少女の全身がびくりと硬直した。
ソファの背もたれに張り付くように身を引き、毛布をギュッと握りしめる。
猫が知らない場所に放り込まれたときのような反応だった。
「わっ、ごめん! 何もしない! 裏通りで倒れてたから、運んできただけだ!」
コウは慌てて両手を上げて見せた。敵意がないことを示すように。
少女の目がコウの手と顔を何度か往復し、やがてわずかに肩の力が抜けた。
「……あり、がとう」
その声は、今朝テレビで聞いた声と同じだった。透明で、少しだけ掠れていて、耳の奥に残る声。
コウは自分の心臓がうるさいほど鳴っていることに気づいて、少し距離を取った。
「怪我、してるな。医療端末で近くのクリニックを呼ぶよ。あと通報も――」
「だめっ!」
少女の声が鋭く跳ねた。反射的だった。
すぐに自分でもその激しさに驚いたように目を伏せ、声のトーンを落とす。
「……ごめんなさい。医者は、だめなの。警察も呼ばないで……お願い」
「でも、血が出てるし……」
「大丈夫。見た目ほどひどくないから」
大丈夫なはずがなかった。膝の擦り傷は深く、左腕には圧迫されたような紫色の痕がある。
それでも、少女は頑なに首を横に振り続けた。
「……わかったよ」
コウはため息をつき、救急キットを引っ張り出して、消毒液と皮膚再生パッチを渡すことしかできなかった。
だが、少女はパッチの剥離紙を剥がす手つきがひどくぎこちない。
「……貸して。俺がやる」
「あ、ごめん……なさい」
コウが見かねて代わりに傷口に貼ると、少女はくすぐったそうに小さく肩を竦めた。
(やっぱり、どう見てもあの顔だ。でも、まさか……)
意を決して、コウは口を開いた。
「あのさ……訊いてもいいか。君は、ルナ・アスティア……なのか?」
少女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、テレビで見るのと同じ完璧な笑顔を浮かべた。
「……うん。驚いた?」
「驚いたなんてもんじゃないよ。なんでアルミナのトップスターが、テラなんかに? なんでこんなボロボロの格好で……」
少女は視線を落として、破れたワンピースの裾を指で弄った。
「撮影が……少し、過酷で。スケジュールが詰まりすぎて、息ができなくなっちゃって。気づいたら走ってたの」
「逃げ出してきたってことか?」
「スタッフの人たちには悪いと思ってる。でも……少しだけ、少しだけでいいから、あの場所から離れたかったの」
そう言って、また笑った。今度は先ほどより自然な笑顔で。
コウはそれ以上、何も追及できなかった。
■
沈黙が気まずくなりかけた頃、コウの腹が小さく鳴った。
時計を見ると夕食の時間をとうに過ぎている。
コウはキッチンに立った。
冷蔵庫にあるのはエデン・バーの備蓄と、合成米と、母親が作り置きしていたテラ製の大豆カレー。選択肢はほとんどない。
合成米を温め、カレーを皿に盛る。
気恥ずかしさを誤魔化すように無言でテーブルに置いた。
「これしかないけど……食うか?」
「……なに、これ?」
「大豆で作った代替肉のカレー。見た目は悪いし、味もたいしたことないけど」
少女はしばらく皿を見つめていた。
湯気を見つめ、匂いを嗅ぎ、恐る恐るスプーンを握り……それから一口、口に運ぶ。
瞬間。
翡翠の瞳が、これ以上ないほど見開かれた。
「……おいしい」
「え?」
「おいしい……これ、すごくおいしい!」
小さな、けれど確かな声だった。そこには演技の気配がなかった。
テレビで完璧な涙を流す女優の技術ではなく、本当に胸の底から湧き出たような響き。
(マジかよ。テラの安物カレー食って、こんな顔する奴いるか……?)
二口目、三口目。スプーンの動きが速くなっていく。
頬にカレーのソースが少し跳ねたのにも気づかず、少女は夢中で食べ続けた。
まるで初めて温かい食事を口にしたかのように。
コウは黙って見ていた。
ルナ・アスティア。画面の向こうの存在。
アルミナの光の中で生きる、テラの人間には手の届かないはずの少女。
そんな彼女が、コウの母親の作り置きカレーを頬にソースをつけたまま必死に食べている。
(なんだ……? ダイエットとか、そういうのあんのかな……?)
その不整合がおかしくて、少しだけ胸が締め付けられるように切なかった。
■
食後。
コウが母親の服を貸すと、少女は丁寧に礼を言って着替えた。
「ど、どうかな……?」
ワンサイズ大きいシャツの袖が手の先まで余っている。
その姿がひどく幼く見えて、コウは慌てて視線を逸らした。
「い……いいんじゃ、ないかな」
気を紛らわせるために壁面モニターをつけようとするコウ。
――そのときの少女の反応は医者のときと同じだった。
「消して!」
コウの手がリモートパネルに触れる前に、少女はモニターの前に立ちはだかっていた。
「……あ」
「ど、どうしたんだ? その、別にいいけど……」
「……テレビ、苦手なの。ごめんね」
笑顔で言ったが、目は笑っていなかった。
(ああ。自分が映ってるかもしれない画面を見たくないのかや……)
アイドルにだってそういうことはあるだろう。自分だって、自分が映っている動画を見るのは苦手だ。なんだか声が違うし、別人のように見えてならない。
コウはモニターを切って、それ以上何も訊かなかった。
代わりに二人は、狭いリビングの窓から外を眺めた。
人工太陽はすでに落ちている。
テラの夜景は、集合住宅の窓の光が規則正しく並ぶだけの無機質な格子模様だ。
五百メートル上空ではアルミナの夜景が宝石のように煌めいているはずだが、ここからはアルミナの底面の灰色しか見えない。
「きれい……」
少女が呟いた。コウは耳を疑った。
「……これが? 冗談だろ。ただの四角い窓が並んでるだけだぞ」
「うん。光が全部同じ大きさで、同じ間隔で並んでるの。なんだか、すごく安心する……」
(安心……? この無機質な景色を見てか?)
コウにはまったく理解できなかった。
だが少女の横顔は、テラの安い夜景を本当にきれいだと思っているように見えた。
翡翠の瞳に、規則正しい光の格子が映っている。
その表情に嘘がないことだけは分かった。
(……かわいいな)
隣に立つ少女の銀髪が、窓からの光を受けて淡く輝いている。シャツの袖を余らせた指先が窓枠に触れている。
その横顔が、画面越しに見るどの表情よりも美しいと思った。
■
夜も深まり、少女はソファで眠った。
毛布をかけると、小さく丸まって、猫のような寝息を立て始めた。
起きているときの警戒心が嘘のように、無防備な寝顔だった。
コウは自室に戻り、ベッドに横になった。
(信じられない一日だった……母さんに、どう説明しよう)
天井を見つめながら、今日一日のことを頭の中で反芻する。現実感がない。
そのとき、ピロン、と枕元の端末に通知が光った。
何気なく開いた。ノア・ネットワークのフィードが自動更新された音だった。
普段なら無視する。だが画面に映ったサムネイルに、コウの指はピタリと止まった。
『ルナのおやすみ配信♡ みんな今日もお疲れさま!』
ライブ配信。視聴者数は十二万人。
タイムスタンプは――『LIVE』。つまり、現在進行系。
「は……?」
コウは端末を握りしめたまま、画面に釘付けになった。
『みんなー! 起きてる? 今日も一日お仕事がんばったね!』
そこにいた。ルナ・アスティアが。
完璧にメイクされた顔。完璧にセットされた銀髪。完璧に設計された部屋。
カメラに向かって手を振り、笑い、ファンのコメントを読み上げている。
軽やかに、自然に、いつも通りに。
コウの背中を、ゾクリと冷たいものが走った。
(ライブ配信……? 録画じゃないのか……!?)
だが画面の隅には、間違いなくリアルタイムの時刻が刻まれている。
今この瞬間、ルナ・アスティアはアルミナのどこかの部屋にいて、十二万人の前で笑っているのだ。
(じゃあ……リビングのソファで寝てる、あいつは?)
あの銀髪は。あの翡翠の目は。あの声は。
端末を持つ手が震え始めた。嫌な汗が背中を伝う。心臓が痛いほど早鐘を打っている。
あの少女はたしかに「私はルナ・アスティアだ」と言った。同じ顔をしている。
だが本物は今、画面の中で笑っている。
(――なら、俺が拾った『あれ』は、何なんだ……!?)
そのとき。
背後で、パタ、と裸足の足音がした。
「コウ……?」
「っ!?」
柔らかい声が、暗い部屋に落ちた。
リビングから廊下に出てきたのだろう。少し寝ぼけたような、けれど透明な声。
今朝テレビで聞いたのと、そして今手元の端末から流れているのと、寸分違わない声。
「……まだ起きてたんだ。ねえ、何見てるの?」
『みんなー、明日は新しいお知らせがあるから、待っててね!』
端末の画面では、もう一人のルナ・アスティアが笑っている。
コウは振り返ることができなかった。
こえぇよぉ




