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【依頼人】新しい朝と世界

 朝の六時半。人工太陽はまだ起動していない。


 テラ・ハーモニーブロックの集合住宅三十二階、ユニットD-1107。

 狭いキッチンの壁面モニターが自動的に点灯し、ノア・コミュニケーションズの朝番組が薄暗い部屋を青白く照らし出した。


 EDENからの「今日の言葉」が画面下部にスクロールしていく。

 『秩序の中に、安らぎがある』。毎朝のことだ。


(安らぎ、ね。底辺を知らない連中がよく言うよ)


 コウは半分閉じた目でエデン・バーの封を剥がしながら、忌々しげに息を吐いた。

 そのままモニターの前を素通りしようとした、その足が止まる。

 画面いっぱいに映った顔のせいだった。


『――アルミナ発の大ヒット配信ドラマ『ミラージュ・ガーデン』で主演を務める、いまニュー・エデンで最も輝く少女、ルナ・アスティアさんです!』


 ルナ・アスティア。十六歳。コウと同じ年だ。


『よろしくお願いします!』

『この若さで主演だなんてすごいですよね! その演技の秘訣は――』


 透き通るような銀の髪と、翡翠色の瞳。

 美しいその笑顔が、朝からテラの薄暗い部屋に振り撒かれていた。


 番組のホストが興奮気味にホログラムを回転させ、彼女の新作映画の予告を流す。

 光を操る戦闘シーンのあとに、ルナがこちらを見つめるクロースアップ。

 翡翠の目が涙を溜めて、何かを言いかけて――映像が切り替わる。


「……俺には関係ない世界だな」


 コウは独り言をこぼして、エデン・バーを齧った。

 乾燥した穀物と合成タンパクの、いつもの味気ない味。


「パサパサしすぎだろ、これ……」


 文句を言いつつ咀嚼するたびに、粉がぽろぽろと制服の胸元に落ちる。


 母親は夜勤明けでまだ帰っていない。ファウンドリー・ベルトの食料生産施設で配合作業員をしている。

 父親はいない。コウが四つのときにブロンズ層からアンライセンスに転落して、それきりだ。

 これがコウの「秩序」だった。


 壁面モニターの中では、ルナ・アスティアが微笑み続けている。

 完璧な照明、完璧な肌、完璧な涙。


(住む世界が違いすぎる。あんな綺麗な笑顔がテラまで届いたところで、こっちの空気は一ミリも変わらない)

「……行ってきます」


 誰もいない部屋に短く告げると、コウはモニターを消し、鞄を掴んで玄関のロックを解除した。



 テラ第七学区公立高校。築四十年。


 廊下の蛍光灯は三本に一本が切れていて、壁の塗装は所々剥がれ、露出した配管がむき出しのまま天井を走っている。


(それでも、この学校はテラじゃ「まとも」な方なんだよな)


 監視カメラが教室に二台しかない。クローン警官の巡回が一日一回だけ。


 コウは自分の席につき、窓の外を見上げた。

 五百メートル上空に浮かぶ富裕層の居住区、アルミナの底面が見える。


 人工太陽の光がアルミナの構造物に遮られて、午前中は教室の半分が影に沈む。

 通称、影の時間。


「よっ。なあコウ、今日の宿題やった?」


 隣の席のタケルが、ニヤニヤしながら端末を差し出してきた。

 エデン倫理学のレポート。テーマは「社会における調和の価値について述べよ」。


「やったよ。模範解答の丸写しだけどな」

「だよなー。俺もだ。つーか、みんなコピーだろこんなの」


 タケルはケラケラと笑った。何も面白くないのに笑えるのがこいつの才能だ。


「真面目に考えたって無駄だろ。俺たちが上に行けるわけでもないし」

「違いない。教師だって、俺たちに教えたいのは『現状維持の仕方』だけだしな」


 タケルの言葉に、コウは肩をすくめた。

 テラの教育とはそういうものだ。上に行けない人間に、上に行く方法は教えない。ただ「ここに留まる方法」だけを教える。


 午後の授業は、予定通り何も起こらなかった。


『――以上が、クローネクス社の標準型クローンの生体組成についての――』


 化学の教師の単調な声が響く中、生徒の半分が寝て、残りの半分が端末でゲームをしている。


(つまんねぇ……。本当に、毎日毎日……)


 コウは頬杖をつき、窓の外を見ていた。

 影の時間が終わり、人工太陽の光がようやくテラの地表に届き始めている。

 白い光が集合住宅の壁面を均一に照らす。均一に。どこまでも。


(美しくも何ともない。ただの作り物の光だ)


 やがて放課後のチャイムが鳴った。


「じゃあな、コウ! また明日!」

「ああ、また」


 生徒たちが一斉に立ち上がり、明滅する蛍光灯の下を出口へ向かう。

 コウも小さく息を吐き、その流れに混ざって校門を出た。



 帰り道は、いつもマーチャント・ロウの裏通りを抜ける。


(大通りは監視カメラが多くてウザいからな……)


 裏通りは死角が多いかわりに、人通りが少なく、薄暗い。

 壁にはアンダーから這い上がってきた誰かが描いた意味不明なグラフィティが並んでいる。


 コウは別に悪いことをしているわけではない。

 だが、カメラに見られていると背筋のどこかが強張る。

 テラに生まれた人間には、理由もなく監視を嫌う本能があるのだ。


『人工太陽が、夕暮れモードに移行します』


 無機質なアナウンスとともに、テラの空気がオレンジ色に染まった。

 配管から漏れる蒸気が、色のついた光の中でゆっくりと渦を巻く。


 遠くでファウンドリー・ベルトのシフト交代サイレンが鳴り響いた。


(夕暮れか……。……って、ん?)

「なんだ、あれ……?」


 最初は見間違いかと思った。

 路地の奥、廃棄された自動搬送機の陰。そこに、誰かが倒れている。


「……また酔っ払いか? それともジャンキーかよ」


 コウは小さく舌打ちをした。

 テラでは珍しい光景ではない。関わらない方がいい。


 コウは一度、見なかったことにして通り過ぎようとした。

 だが。


(――ん?)


 倒れている人間の髪が目に入った。

 銀色だった。


「……銀髪?」


 人工太陽のオレンジ色の光を受けて、異質に輝く銀髪。

 テラではまず見ない色だ。足が止まる。心臓が、理由もなくドクンと跳ねた。


(待て、なんだ? ……嫌な、予感がする)


 警戒しながら、三歩近づいた。

 少女だった。コウと同じか、少し年下くらいの。


「おい……嘘だろ」


 薄い生地のワンピースは所々破れ、素足の膝や腕に擦り傷と打撲の跡がある。足の爪の先には、乾いた血がこびりついている。

 顔は地面に伏せてよく見えないが、銀色の髪が頬に張り付き、荒い息で肩が小さく上下している。……生きている。


(触るな。通報しろ。……エデン・チップから緊急通報を入れれば、三分でクローン警官が来る。それがテラでの『正しい手順』だ!)


 頭の中で警鐘が鳴る。

 テラの人間は、正しい手順を踏んで、それ以上のことはしない。それが生き残る術だ。


 だが、彼の手は勝手に動いていた。


「……おい。大丈夫か……!?」


 少女の肩にそっと触れ、仰向けにした瞬間。

 コウの呼吸がピタリと止まった。


「――っ!?」


 翡翠色の瞳が、焦点の合わないまま彼を見上げていた。

 左頬に、浅いえくぼ。

 今朝、壁面モニターで見た顔と――完全に一致していた。


「ルナ……アスティア……?」


 声が掠れた。ありえない。


 なぜ、アルミナのトップスターがテラの裏通りにいる?

 なぜ、こんなボロボロの姿で?


 少女の唇が微かに動いた。

 声にならない声で、何かを訴えようとしている。


「う……」

「おい、しっかりしろ! 何があったんだ!?」


 その瞳には、モニター越しに見た完璧な光はなかった。

 あるのはただ、剥き出しの恐怖だけだった。彼女は震える手を伸ばし、コウの制服の袖を弱々しく掴む。


「……たす、けて……」

「え……?」

「おねがい……。あの人たちから……逃げ、なきゃ……」


 コウの腕の中で、少女の意識がプツリと途切れた。

 腕から力が抜け、銀色の髪がコウの膝にこぼれ落ちる。


「おい! ルナ!? おいってば!」


 返事はない。

 シューッという配管の蒸気の音が二人の上を流れ、ファウンドリー・ベルトのサイレンが遠く消えていく。


 テラの夕暮れは何も変わらない。

 今日も、明日も、ずっと。


 そう思っていた。

 この瞬間までは――。

セカイ系だ!

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