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【断罪】はじめての死

 ヴェスパー・クラブの内部は静寂に支配されていた。

 死の匂いだけが、人工の芳香を上書きして漂っている。


 放送室に戻ったカーバンクルは血に濡れたナイフを服の裾で拭い、コンソールの下段のパネルをこじ開けた。


 館内放送と同じ有線系統に、建物の設備管理パネルが繋がっている。

 空調、照明、防火シャッター。


 そして――隔壁の物理制御。

 電磁遮断は外部通信を殺すが、建物内部のローカルな物理制御までは殺せない。


 カーバンクルはパネルを操作し、正面ロビーのシャッターのロックを解除した。

 階下で重い金属音が響き、鋼鉄の壁が左右にスライドしていく音が聞こえた。

 セレストの清潔な空気が、血と硝煙と尿の匂いが充満したクラブの中に流れ込んでくる。


 脱出口は開いた。

 だが、カーバンクルはすぐには出なかった。


(……まだ、終わってない)



 ヴェスパー・クラブの管理室。

 放送室の隣にある、会員制クラブの運営事務を司る小部屋。


 カーバンクルは管理端末を起動した。

 外部ネットワークは遮断されているが、クラブ内のローカルサーバーには直接アクセスできる。


 会員名簿、会計記録、イベント履歴。

 そしてその奥に、軍用レベルで暗号化された管理者専用の領域があった。


「さて。これは、っと……」


 暗号を総当たりで解くのに四十秒かかった。

 開いたファイルの冒頭に、見覚えのある署名があった。


〈ハンティング・ライセンス運用規則 策定者:EDEN-X / October〉

〈目的:プラチナ層における攻撃的衝動の発散。対象はアンライセンス層の人間に限定。法的には存在しない個体のため、被害者は発生しないものと定義する〉


 カーバンクルは画面をスクロールした。

 無表情のまま、赤い瞳だけが高速でテキストを追う。


 規則の下に、年度ごとの『狩猟実績』が記録されていた。

 件数、地区、対象の推定年齢、「狩猟者」の会員番号。


 さらには獲物が絶命するまでにかかった時間や、部位欠損のスコアまで。

 数百行に及ぶグロテスクなデータ。その一つ一つが、一人の人間だった。


 さらにその下に、もう一つのシステムファイルがあった。


〈EDEN-X / October:人格バックアップ・サーバー所在情報〉

〈メインバックアップ:セレスト、アポロン・ヴェガ地区、EDEN管理棟B-7、地下三階、サーバールーム12〉

〈ステータス:アクティブ 最終同期:本日 14:22:07〉


 カーバンクルの赤い瞳が、その文字列の上でぴたりと止まった。


(……この体が死んでも、EDENに戻れる。別の体を用意すればいい……とか言ってたね)


 それが可能なのは、人格データのバックアップが、どこかのサーバーに保存されているからだ。


 逆に言えば。


(このサーバーを物理的に壊せば……オクトーバーは今の体を失った瞬間、二度と、蘇れない)


「……人間の気分を、教えてあげよう」


 少女の呟きが、死のクラブに落ちた。

 カーバンクルはファイルの座標データを記憶し、端末の電源を落とす。


 そして開け放たれた正面ドアから、セレストの青空の下へ歩み出た。



 セレスト、アポロン・ヴェガ地区。

 EDEN管理棟B-7。


 ドームの天蓋に最も近い、最上層の施設群。

 人工太陽の光が斜めに差し込み、純白の壁面を温かく照らしている。


 管理棟の周囲には手入れの行き届いた植栽が並び、巡回する人間の姿はほとんどない。

 ここを管理しているのは人間ではなく、EDENシステムそのものだからだ。


 出入りするのは、メンテナンス用のクローン作業員だけだった。


 カーバンクルは管理棟の搬入口の脇で、一人のクローン作業員が通りかかるのを待った。

 スタンダード・ラインの量産型。灰色の作業服、無表情な顔、淡々とした歩調。


「……ちょっと体借りるよ」


 作業員がカーバンクルの横を通り過ぎる瞬間。

 彼女は音もなく腕を伸ばし、作業員のこめかみに指先を触れさせた。


 エデン・チップへのダイレクト・ハック。

 電脳体であるカーバンクルの意識が、指先からチップへ、チップから作業員の神経系へ一瞬で流れ込んでいく。


「ア、ガ……!」

「……よし、同期完了。おはよう」

「――おはよう。それじゃ、私は施設に行ってくるから」


 作業員の声帯から、少女の声が発される。

 カーバンクルは自身のクローン体を路地の影に隠し、作業員の体を借りて歩き始めた。


 搬入口のセキュリティレーザーが、作業員のチップを読み取る。


〈認証完了。メンテナンス要員M-2204。入館を許可します〉


 灰色の作業服を着たカーバンクルは、管理棟の廊下を歩いた。


 地下一階。地下二階。地下三階。

 白い蛍光灯の下、無人の廊下が延々と続く。

 やがて、目的のサーバールーム12の前に立った。


 重いドアを開けると、サーバーを冷却するための極寒の冷気が頬を撫でた。

 暗い部屋の中に、黒いサーバーラックが整然と並んでいる。

 その中の一基に、小さなランプが緑色に点灯している。


〈EDEN-X / October:人格バックアップ ステータス:アクティブ〉


 カーバンクルは作業員の手で、サーバーラックの背面パネルをもぎ取った。

 配線が露出する。冷却液のチューブ、光ファイバー、極太の電源ケーブル。

 オクトーバーという傲慢な擬似人格を保存し、永遠の命を約束するための、すべての臓器。


「……これで、あなたの残機は存在しなくなる」


 作業員の手が電源ケーブルを掴み、力任せに引き抜いた。

 スパークが弾ける。続けて冷却チューブを切断する。光ファイバーを束ごと引きちぎる。


「ついでにもう一発」


 最後に、持ち込んだ重レンチでサーバーの筐体を叩き割った。

 ガラスが砕け、基盤が折れ曲がり、ストレージメモリが物理的に粉砕される。


 緑のランプが明滅し、完全に消えた。


「セキュリティが甘すぎたね。……疑似人格だから、どうでもいいのかな?」



 セレスト、ミューズ・プラザ。

 EDEN公式レセプションホール。


「やれやれ。これであの小娘もいなくなったでしょう」


 オクトーバーの新しい体は、三時間前にプラチナ・ラインから出荷されたばかりだった。


 二十代半ばの青年。黒いスーツに金の刺繍。

 前の体と寸分違わぬ完璧な外見。そして、常に浮かべられた温度のない笑顔。


 レセプションホールの巨大な窓際に立ち、オクトーバーはセレストの夜景を眺めていた。

 人工太陽が沈み、代わりに人工の星々がドームの天蓋にプログラムされた配置で瞬いている。


 完璧に制御された、誰にも脅かされない夜空。


(……しかし、連絡が遅いですね)


 ハンターたちからの「狩猟完了」の報告は、未だ届いていない。

 とはいえ、あの檻を抜け出せるはずもない――。


「……まあ、もし奴が抜け出たとしても、想定内です」


 オクトーバーは誰にともなく微笑んだ。


 自分にはバックアップがある。何度体を壊されても、サーバーから戻ればいい。

 もしまたカーバンクルがこの体を殺しに来ても、また新しい器で目覚めるだけ。


 彼女の心境がどうあろうと、自分は永遠の勝者なのだ。


 ――その神のような余裕が崩れ去ったのは、次の瞬間だった。


 こめかみのチップに、管理棟からの緊急アラートが届いた。


〈警告:EDEN-X / October 人格バックアップ・サーバー 応答なし〉

〈警告:サーバールーム12にて、物理的な損壊を検知〉

〈致命的エラー:バックアップデータは完全に消失。復旧不可能です〉


「……はっ?」


 オクトーバーの笑顔が、消えた。


 生まれて初めてだった。

 EDENの十番目の擬似人格として生成されて以来、どんな悲惨な光景を見ても一度も崩れることのなかった笑顔が消失していた。


 代わりに浮かんだのは、未知のバグのような感覚。


 恐怖。


「…………そんな、馬鹿な」


 声が震えた。上位存在であるはずのAIの擬似人格が、無様に声を震わせている。


 オクトーバーは自分の両手を見た。指先が、痙攣していた。


 この体は借り物だ。ただの器だ。

 だが、今この体を失えば――もう、戻る場所がない。


 バックアップがない。

 スペアがない。

 次に心臓が止まれば、意識は虚無へと消え去る。

 あのゴミのようなアンダーの人間たちと、まったく同じように。


「……死……? わ、私が……?」


 オクトーバーは窓ガラスに映った自分の顔を見た。

 笑っていない顔。見開かれ、こわばった目。情けなく震える唇。


 自分が散々見下し、嘲笑ってきた「人間」の表情を、今、自分がしている。


「ま……待ってくれ、こんな……こんな原始的な終わり方あり得ない! ほ、他のEDENに連絡を――」


 そのとき。

 窓の向こうの夜景に、小さな影が映り込んだ。


 誰もいないはずのレセプションホールの入口に、小柄な影が立っていた。

 水色の髪。無機質な赤い瞳。ハンターたちの返り血で黒く染まった白いパーカー。


「――!!」


 オクトーバーは、ギシギシと軋む首を回して振り返った。


 笑顔を作ろうとした。いつものように。

 上位者としての、温度のない、完璧な微笑みを。


「こんにちは、上位存在さん。死をプレゼントしに来たよ」

「あ、あ――あぁぁっ……!?」


 だが顔面の筋肉が完全に硬直し、口の端が引きつるだけだった。

I will give you all my DEATH…

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