【断罪】分断・支配・始末
ヴェスパー・クラブの内部は、狩猟のための迷路のように入り組んでいた。
ロビーから三方向に伸びる廊下。VIPラウンジ、バーカウンター、プライベートルーム、トロフィー・ギャラリー、地下のワインセラー。
会員たちの下劣な秘密を守るために設計された複雑な間取りが、今はそのまま死の地形図になっていた。
「はぁ……」
カーバンクルは廊下の角を曲がり、壁際に身を寄せた。
背後から複数の足音が近づいてくる。ある程度訓練された歩調。二人一組で索敵しているらしい。
「こっちだ」
角を覗くと、廊下の先を二人のハンターが並んで進んでいるのが見えた。
片方がプラズマライフル、片方がコンバット・ショットガン。
両者ともタクティカルゴーグルを装着しており、赤外線と動体検知のデュアルモードを起動している。
壁越しの体温すら拾う高性能装備だった。
「反応あり。十二時方向、十五メートル先」
「挟み込め! 左から回る。脚の腱を撃ち抜けよ、俺がヤる前に殺すな」
連携が取れている。普段はアンダーの非武装の人間や、逃げ惑うだけの子供を追い回している連中にしては、装備も動きも洗練されていた。
金で買える最高の狩猟ギアと、それなりの軍事訓練。
(……面倒くさいなぁ)
カーバンクルは三角跳びで天井の配管に手をかけ、体を引き上げた。
二人がその真下を通過する。ゴーグルの索敵範囲は水平方向で、真上の死角には気づいていない。
上から首の骨を折るのは簡単だった。
だがここで一人が死ねば、残りの連中が警戒して一箇所に固まってしまう。
(こんな連中に、いちいち隠れんぼをしてあげる義理はないな)
カーバンクルは配管を伝って天井裏を移動し、二人組をやり過ごした。
向かう先は、別にある。
■
クラブの二階。管理エリア。
カーバンクルは非常階段を駆け上がり、「STAFF ONLY」と刻まれた分厚い扉をナイフでこじ開けた。
中は事務室と、その奥に小さな放送室。
会員向けのイベントや、呼び出しを告げる館内放送システムが、壁面のコンソールに収まっていた。
電磁遮断で外部のネットワークは死んでいるが、館内の有線放送は生きている。
クラブ内部の配線だけで完結する独立したシステムだからだ。
カーバンクルはコンソールのスイッチを入れた。
スピーカーが、かすかにハウリングする。
「……聞こえる?」
平坦な声が、ヴェスパー・クラブの全フロアに響き渡った。
廊下を進んでいたハンターたちの足音が、一斉に止まるのが気配でわかる。
「404号室のカーバンクルだよ。ひとつ、教えてあげることがある」
沈黙。男たちが息を呑む音がビル中から聞こえそうだった。
彼らは目を丸くしているだろう。獲物が自分たちの目を盗み、放送室に向かった事実。そして自分たちに呼びかけているという事実に。
「このクラブは、完全に封鎖されてる……それは知ってるよね。でも、オクトーバーがあなたたちに言ってなかったことがある」
カーバンクルは一拍置いた。
冷たい瞳がコンソールのマイクを見つめる。
「壁面の電磁遮断は、外部通信だけを遮断してるんじゃない。……クローネクス社のデータ同期信号も、遮断されてる」
一階のどこかで、誰かが「あっ」と短く息を吐く。
「この意味、わかるよね。あなたたちのクローン保険は、エデン・チップを通じて意識データを同期してる。それがクローネクス社のサーバーに保存されて、死んだときに次のクローン体に書き込まれる。それが、あなたたちの蘇生の仕組み」
カーバンクルの声は淡々としていた。ただ残酷な事実を読み上げている。
「いま、この建物のなかでは、同期信号が届かない。つまりここで死んでも、最新の意識データはサーバーに送られない。
蘇生されるのは、最後に同期した時点の、古いあなた」
一階で、何かが倒れる音がした。重い椅子か、テーブルか。
「今日の記憶も、今の判断もすべて消える。……もっと悪ければ、蘇生自体が失敗して、あなたは完全に消滅する」
ざわつく声があちこちで聞こえてくるのを、カーバンクルはニヤリと笑って聞いていた。
「オクトーバーは、あなたたちを使い捨ての駒にした。私を閉じこめる檻のなかに、あなたたちも一緒に閉じこめた。あなたたちの命が何人失われても、あのAIにとっては『コストの範囲内』だったということ」
カーバンクルは、最後に一言だけ付け加えた。
「――逃げたほうがいいよ」
スイッチを切った。
■
放送から五秒後、クラブの統制が完全に崩壊した。
一階のロビーで、パニックに陥った男たちの怒号が上がる。
「嘘だろ!? おい、チップの同期状況を確認しろ!」
「確認できない! オフラインだ、通信が全部死んでる!」
「くそっ、ふざけんな! オクトーバーの野郎、俺たちをハメやがった!」
「出口だ! 出口を探せ! シャッターをこじ開けろ!」
足音が四方に散っていく。
さっきまで二人一組で整然と索敵し、卑猥な冗談を言い合っていた男たちが、てんでばらばらに走り始めた。
シャッターに体当たりする音。壁を銃床で叩く音。
仲間に怒鳴る声、泣きそうな声、罵倒する声。
彼らはアンダーの人間を狩るとき、常にこの音を聞いてきたはずだった。
逃げ場のない獲物が壁を叩き、泣き叫び、無様な命乞いをする声を。
今、まったく同じ声が、自分たちの喉から出ている。
カーバンクルは放送室を出て非常階段の踊り場に立った。
階下の醜い混乱を、赤い瞳で静かに見下ろしている。
「くそ、くそっ……! 何かないのか、脱出路は……!?」
一人が恐怖に耐えきれず仲間から離れ、地下のワインセラーへ走っていくのが見えた。
カーバンクルは音もなく階段を降り、その影を追う。
■
「が、ふっ……!」
最初に落ちたのは、ワインセラーに逃げ込んだ男だった。
暗がりの中で「開けろ、ここを開けろ!」と壁を狂ったように手探りしているところを、背後から音もなく頸動脈を締められ、悲鳴を上げる前にナイフが首筋を走った。
「ゆ、許し……ぎぃっ!」
「やめろ、やめっ――!」
次は、正面の鋼鉄シャッターをプラズマガンで撃ち続けていた二人組。
跳弾の危険も顧みず撃ち続けていた一人が、オーバーヒートした銃身を冷ます隙に背後からカーバンクルが現れた。
もう一人が振り返ったとき、相棒はもう自分の血の海に沈んでいた。銃を向ける暇もなかった。
「やめろ! おい、俺は偉いんだぞ! 近付くな――」
三人目は、トロフィー・ギャラリーで壁の裏側に隠し通路がないか探していた。
人間狩りの戦利品に囲まれながら、自分自身が「怯えた獲物」になって死んでいった。
「た、頼む! 誰か、誰か助けろ! 誰かぁぁぁ!!」
四人目はバーカウンターの裏に隠れていた。
高級な酒瓶を震える手で握りしめ、誰かが助けに来るのを待っていた。
来たのは死神だった。
「な、んで――」
五人目は、VIPラウンジのドアに内側から鍵をかけ、バリケードを築いて立てこもっていた。
ドアの向こうで足音が通り過ぎ、「助かった……」と安堵して息をついた瞬間。
天井の通気口の格子が外れ、白い影が降ってきた。
■
――クラブの一階。かつてのロビー。
オクトーバーの遺体のそばに、六人目の男がいた。
最後の一人だった。
壁に背中を押しつけ、コンバット・ショットガンを両手で抱えている。
銃口は正面を向いているが、腕が激しく震えてまともに狙いが定まらない。額から汗が滝のように流れ、ゴーグルのレンズを内側から曇らせていた。
「お、おい……誰かいないのか……? ハンスは? ディートリヒは?」
返事はなかった。
クラブは不気味なほど静まり返っている。さっきまで響いていた怒号も、銃声も、壁を叩く音も、すべて消えている。
聞こえるのは、自分の呼吸音だけだった。
「嘘だろ……なんで、なんでこんな……ッ」
男は震える手でゴーグルの赤外線モードを起動した。
スキャンが、フロア全体を走る。反応は――一つだけ。自分以外の小さな熱源が、暗い廊下の奥からゆっくりとこちらに近づいてくる。
「来るな……来るなよ……!!」
男はショットガンを構えた。手が震え、銃口が踊っている。
足音が聞こえた。
軽い、小さな足音。子供の足音。高価な絨毯を踏む、ひどく静かな音。
廊下の暗がりから、影が現れた。
水色の髪。赤い瞳。全身を返り血に染めた、白いパーカーの少女。手にはナイフが一本。
男のゴーグルが、その体をスキャンした。
146センチ。推定40キロ。どう見ても無力な子供だ。
だがこの子供が、フル装備のハンター五人を、一人残らず殺したのだ。
「ま、待ってくれ……! 俺は、お前を狩る気なんかない……! 最初からなかった! こいつらに巻き込まれただけだ!」
カーバンクルは歩みを止めなかった。
「あなたはここの会員でしょ?」
「それは……! でも俺は、アンダーの狩りには一度も行ってない……! 本当だ、信じてくれ!」
「壁のトロフィー。三段目の、右から二番目。剥がされたタトゥーの皮膚。……金属プレートに、あなたの名前があったよ」
男の顔から、最後の血の気が引いた。
「あ…………」
ショットガンが、がちゃりと力なく床に落ちた。
男は壁に沿ってずり落ち、座り込んだ。もう銃を拾い上げる力も、逃げる気力も残っていなかった。
絶対的な死が、目の前に立っている。
「た、頼む……殺さないでくれ……! 金ならいくらでも払う! 俺には家族がいるんだ……! 可愛い子供も……ッ!」
カーバンクルは見下ろした。
その瞳には憐れみも、怒りも、復讐の快感すらなかった。
「……あなたが狩った人間にも、家族がいたよ」
男の口が開き、閉じ、もう一度開いた。
だが、何も出てこなかった。
カーバンクルの赤い瞳が、最後に一度だけ瞬く。
「あなたはもう、|どこにも存在しない《404 Not Found》」
ナイフが、一閃した。
所詮は烏合の衆よ




