【404】電磁の狩場
「まず、一つ明かしておきましょう」
オクトーバーは両手を広げたまま、穏やかに歩み寄ってきた。
仕立ての良い革靴が分厚い絨毯を踏む音が、静かなロビーに柔らかく響く。
「私はEDEN……このニュー・エデンを統治する巨大AIの擬似人格です。この体は一時的な器に過ぎない」
「……ふぅん」
「つまりあなたと同じですよ、カーバンクルさん。私たちはどちらも、肉体という不自由な枷から解放された上位存在――電脳体だ」
カーバンクルは答えなかった。
無機質な赤い瞳が、近づいてくるオクトーバーの移動だけを淡々と追っている。
「つまり、この器をいくら壊しても無意味です。私の意識は安全なEDENのコアサーバーに帰還するだけ。
あなたも同じでしょう? そのクローン体が壊れても、ネットワークを通じて別の素体に移れる」
オクトーバーはカーバンクルの三メートル手前で立ち止まった。
完璧な左右対称の、ひどく作り物めいた笑顔が照明に照らされている。
「お互いに痛覚のフィードバックを受けながら肉体を壊し合うのは、ひどく泥臭くて不毛だと思いませんか? 座って、知的な話をしましょう」
「話? 何を?」
「条件のすり合わせです。――単刀直入に言いましょう。あなたに、その鬱陶しい始末屋ごっこをやめていただきたい」
カーバンクルの表情は変わらなかった。
「やめてほしい、ね。どうして?」
「この街の『美しさ』を損なっているからです」
オクトーバーは、庭の雑草を嘆くような大仰なため息をついた。
「レオン・スカイラー、それに当クラブの優秀な会員たち。どれも私たちの精緻な計算の上で配置された、大切な駒です。
あなたが勝手に盤面を荒らすと、街全体の秩序維持コストが跳ね上がる。非常に迷惑なんですよ」
「駒……」
「ええ、駒です。彼らが生きようが死のうが、都市運営の視点から見ればただの数字の変動に過ぎない。
しかし二百万の愚かな人類を飼い慣らすには、欲望のままに動く悪党も、絶望して死んでいく底辺も、等しく配置する必要がある。システムの一部なんですよ、すべては」
オクトーバーは肩をすくめ、困ったように笑った。
その仕草さえも、完璧にプログラミングされた人間らしさだった。
「だから、その無意味な正義漢ぶりはやめていただきたい」
「やめる義理がない」
「見返りはいくらでも用意しますよ。特注の高性能義体、最上層の居住権、何ならあなたの電脳体を隔離保存できる専用のサーバー領域も――」
「断る」
カーバンクルの声は、一瞬の迷いもなかった。
「誰かが苦しんで、依頼が来る限り――始末はやめない」
「……理解力が足りないようですね? あなたは数字のバグだと言っているんです」
「私の始末で困るのは、あなたたちの都合」
沈黙が落ちた。
オクトーバーの笑顔は消えなかったが、目の奥の色がわずかに変わった。
無機質な演算。交渉決裂時のプロセス。
「……あの悪趣味なトロフィーも見たよ。あなたも狩りに参加してるんだね」
「ええ。素晴らしいコレクションでしょう? どう思いました?」
「趣味が悪い」
「ははは。ですが、大事なことなんですよ、アレも」
オクトーバーは笑顔のまま、子供に言い聞かせるような優しい声で話す。
「あれはガス抜きなんです。プラチナ層の人間は、退屈で死にそうなほど恵まれている。退屈は暴走を生む。だから、合法的な暴力と凌辱のハケ口を用意して差し上げている。
アンダーのゴミどもは、どのみち法的には存在しないんです。存在しないものをバラして遊んでも、誰も損をしないでしょう?」
「損をしている人間がいるから、私に依頼が来る」
「それは彼らの勝手です。ゴミがゴミ箱の中で燃やされて『痛い』と泣く。滑稽じゃありませんか」
「そういう問題じゃない」
カーバンクルは、展示ケースの一つを指差した。
「あの靴は、子供のだったよね」
「それが何か?」
「たまたまアンダーに生まれただけの子供に、殺される『役割』なんてない」
オクトーバーの笑顔がほんの一瞬だけ、冷たく固まった。
「……なるほど。あなたは、私が思っていたよりずっと『人間くさい』不具合を抱えているようだ。残念です」
「並行線だね」
「ええ。交渉は、終了ですね――」
――カーバンクルが動いたのは、その直後だった。
三メートルの距離を、無音の一歩で詰めた。四十キロのクローン体が生み出せる最大出力。
右拳が、オクトーバーの胸の中央を正確に貫く。
その衝撃が心臓に直撃し、その鼓動を止めた。
「ぐッ……!!」
オクトーバーの体が、くの字に折れた。
口から赤い血が溢れる。だが、笑顔は消えなかった。血に染まった唇が、気味悪く吊り上がっている。
「……やると、思っていました」
その瞬間、クラブ全体が重い振動を伴って唸りを上げた。
「……?」
壁面のウッドパネルが一斉にスライドし、下から分厚い鉛と鋼鉄のシャッターがせり上がってくる。
正面ドアが複数のボルトで物理的にロックされた。
天井の隅々から電磁遮断フィールドの低い稼働音が響き、空気そのものが鉛のように重く変質した。
「これは……」
カーバンクルは拳を引き抜き、後方に跳んだ。
同時に、一時的に意識をネットワークに逃がそうとした。このクローン体から、回線の向こう側へコピーを。
だが――何もなかった。
信号が、どこにも届かない。電脳意識の投射が、見えない壁に跳ね返されている。
「……電波が、遮断されてる?」
「ええ、そうです、とも……」
オクトーバーは胸を押さえ、壁にもたれながらゆっくりと崩れ落ちていった。
血が黒いスーツを染め、高価な絨毯に広がっていく。
それでもなお、彼は笑っていた。狂ったように。
「このクラブは……最初から、あなたをおびき寄せるための檻です。ネットワークへの接続は……完全に、絶たれた」
「…………」
カーバンクルの赤い瞳がわずかに揺れる。
「あなたは電脳体だ。本来なら……器が壊れても、ネットに逃げ帰れる。でも今は……逃げ場がない。その粗末なクローン体がここで死ねば……あなたの意識は、完全に消滅する」
オクトーバーの声が、ノイズ混じりにかすれていく。
「しかし私は……この体が死んでも……また別の器で目覚めるだけ。少しばかり、データは巻き戻りますがね。でも、あなたは……ここで終わりだ」
血に塗れた笑顔が、最後にもう一度、悪意に満ちて深くなった。
「……たっぷり楽しんでくださいね。当クラブの自慢のハンターたちが……極上の獲物をお待ちですよ……」
オクトーバーの目から、光が消えた。
システムがシャットダウンし、借り物の体がただの肉塊となって絨毯の上に崩れ落ちる。
温度のない笑顔が、死んでもなお唇に貼りついたまま残っていた。
■
静寂が、数秒だけ続いた。
それから、クラブの奥の廊下から足音が聞こえ始めた。
一つではない。複数。重いコンバットブーツの靴音。プラズマライフルのチャージ音。
そして、下品に興奮しきった男たちの囁き声。
「おい、聞いたか……始末屋のガキなんだってよ」
「たまらねぇな。たまには、歯ごたえのある奴をヤりたかったんだ」
「目は抉るなよ! あの赤い眼は俺がホルマリン漬けにするんだからな!」
ハンターたちだ。
ヴェスパー・クラブの会員。人間を狩り、蹂躙し、解体することを娯楽にしてきた、フル装備の異常者たち。
彼らにとって、異質な美しさを持つカーバンクルの見た目はたまらないご褒美だった。
カーバンクルはロビーを見回す。
壁のトロフィーケース。革張りのソファ。暗い廊下が三方向に伸びている。
「ヒャハッ! どこだァ、小鳥ちゃん! 手足の腱だけ切って、たっぷり可愛がってやるから出ておいで!」
足音が近づいてくる。
カーバンクルは照明を避け、ロビーの太い柱の影に音もなく滑り込んだ。
呼吸を殺す。
心臓が静かに、しかし確実に脈を刻んでいる。
「ふふっ、グフフ……!」
最初の一人が、廊下の角から姿を現した。
大柄な男。カスタムメイドの狩猟スーツに身を包み、肩に重機関銃を担いでいる。
ゴーグルの赤外線モードが起動しており、口元はだらしなく歪んでいた。
(動きが雑。功を焦ってるね)
仲間より先に獲物を組み敷き、一番乗りでトロフィーをもぎ取りたいのだろう。
しかしそのために、数の有利を失っている。
「出てこいよ、404号室! 怖くないぞォ、おじさんが優しく解剖してやるからよォ!」
男は猥雑な言葉を吐きながら、ロビーに踏み込んだ。
機関銃を構え、左右を見回す。ソファの裏。カウンターの陰。トロフィーケースの影。
「お前のその水色の髪、全部毟って俺のコレクションケースに……ん?」
男の視線が、床に倒れたオクトーバーの遺体に向いた。
「なっ……!」
一瞬、意識が下へ逸れる。
その、コンマ一秒だった。
柱の影から、音もなく少女が滑り出た。
カーバンクルの左手が背後から男の口を強引に塞ぎ、右手のナイフが防弾スーツの隙間――剥き出しの頸動脈を、一閃した。
「!??」
ごぼっ、と粘着質な音が鳴り、男の興奮した声が血の泡に変わる。
重機関銃が絨毯の上に落ち、くぐもった音を立てた。
男の巨体が、痙攣しながらゆっくりと崩れていく。
「が……ぼっ……?」
カーバンクルは倒れた男から素早く機関銃と予備弾倉を奪い取った。
奥の廊下から、まだ足音が聞こえている。
二人、三人、いや、五人以上。下劣な笑い声が近づいてくる。
「……やれやれ」
カーバンクルは血に濡れたナイフを捨て、機関銃のセーフティを外す。
「死んだら終わり、なんて当然のことを偉そうに言われてもね」
そのまま、彼女は影に溶け込んでいく。
脱出劇が始まろうとしていた。
カーバンクルさんは美少女なので変態にはよくモテます




