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【404】アイアンメイデン

 テラ、ブロックB。影の時間。


 ニードルは雑踏に紛れて歩いていた。

 グレーのコートにフラットシューズ。

 綺麗にまとめていたポニーテールをほどき、髪を下ろしている。


 アルミナの洗練されたビジネスウーマンではなく、テラの底辺に溶け込む地味な装いだった。

 右目の義眼には、オクトーバーからの誘導データがリアルタイムで流れ込んでいる。


『ブロックB第三通り、北東方向に移動中。現在位置から約120メートルです』

「見えておりますわ」


 ニードルは唇を動かさずに呟いた。

 薄暗い通りの先に、オーバーサイズの白いパーカーを着た小柄な影が歩いている。


 水色の髪。歩幅は小さく、速度は一定。

 背後を警戒する素振りすらない。


「本当に、迷子になった子供みたいな歩き方。……ふふっ。あの細い首、私の片手で簡単に折れてしまいそうですわ」

『油断しないでください。電脳体としての能力は極めて――』

「ええ、ええ、わかっておりますわ。でもネットワークの中ではなく、わざわざこの脆い肉体で歩いているのでしょう? なら、壊し方はいくらでもあります」


 ニードルは狩りを楽しむ肉食獣のように、適切な距離を保ちながら尾行を続けた。


 カーバンクルは角を曲がり、さらに細い路地に入っていく。

 人通りが減った。明滅するネオンの照明も疎らになる。


『ブロックB第七通り。この先、監視カメラの密度が低下します』

「好都合ですわね。誰の目にも触れず、たっぷり時間をかけて調教できますから……♡」


 路地はさらに狭くなり、頭上を太い配管が何本も横切っている。

 壁は錆びた金属パネルで、苔のような緑が継ぎ目に這う。


 ここはテラの末端。

 ブロンズ層の生活圏からも外れた、誰も立ち寄らない腐敗区画だった。


 それなのに、カーバンクルの背中は迷いなく同じ速度で進んでいく。

 まるで、最初から目的地が決まっているかのように。


『第七通り終端。この先は産業区画です。監視カメラは……ありません』

「ないんですか?」

『この区画の管理権限はヘリオス・エナジー社ですが、カメラのフィードが応答しません。通常のメンテナンス停止ではないようです』


 ニードルのヒールの先が、わずかに床を擦った。


 何かが引っかかる。

 カメラのない方向へ、カメラのない方向へ。


 この子は、ただ歩いているのか。

 それとも――


「オクトーバーさん。この子、どこに向かっているんですか」

『不明です。この先の産業区画には廃棄予定の自動工場がいくつか――』

「そうではなくて。この経路、不自然じゃありませんか? わざわざカメラの死角だけを選んで歩いている。まるで――」


 言いかけて、息が止まった。

 カーバンクルの背中が、不意に角を曲がって視界から消えたのだ。

 ニードルは反射的に早足になり、角を覗き込む。


(逃がすわけには……!)


 だが、通路の先は行き止まりだった。

 左右の壁に、巨大な搬入口が一つずつ。片方のシャッターが半分だけ開いている。

 だがそこにいるはずの少女の姿は、もうない。


「……っ。オクトーバーさん、位置情報は」


 応答がなかった。


「オクトーバーさん?」


 右目の義眼に流れていたデータフィードが、ぷつりと途絶えた。

 通信インジケータが赤く明滅し、やがて完全に消灯する。


 オクトーバーの誘導も、環境データも、すべてが一瞬で断ち切られていた。


 ニードルは数秒間、その場に立ち尽くした。

 それから、ふっと静かに息を吐く。


「……あら。やられましたわね」


 誘導されていたのは、自分のほうだった。

 カメラの死角を選んで歩いていたのではない。ニードルを、カメラの死角へ誘い込んでいたのだ。


 そしてオクトーバーの通信が切れたということは、この一帯のネットワークはすでに、あの少女に掌握されている。


 退くか。

 常識的なプロフェッショナルならそうするだろう。

 だが、ニードルの唇は深い三日月型に吊り上がった。


「ふふっ……いい度胸ですわ。ますます、泣き顔が見たくなりました」


 コートの裾を翻し、半開きのシャッターを潜る。



 そこは自動工場だった。


 天井の高い広大な空間。

 無人の生産ラインが左右に伸び、ロボットアームが規則正しく反復運動を続けている。


 金属パーツを掴み、溶接し、次の工程に送る。

 その活動が、工場全体に低い地鳴りを刻んでいた。


 照明はオレンジ色の作業灯だけで、巨大な機械の影が床に幾何学的な黒い模様を落としている。


 ニードルは足音を完全に殺し、ラインの間を歩いた。

 義眼の赤外線モードを起動する。

 外部通信は死んでいるが、内部センサーはまだ生きている。


 五十メートル先。

 ラインの終端、出荷用のコンベアの上に、小さな影がちょこんと座っていた。


 膝を立て、腕を組み、こちらを見下ろしている。

 ビー玉のように無機質な赤い瞳が、作業灯の逆光の中でぽつりと浮かんでいた。


 待っていたのだ。

 最初から、ここで、自分を殺すために。


「あなたは誰?」


 カーバンクルの声が、機械の律動の合間に響いた。

 鈴の音のように可憐で、ひどく幼い。だが、そこには一切の感情が乗っていない。


 ニードルは足を止め、余裕たっぷりに微笑んだ。もう隠す必要はなかった。


「ヴェロニカ・シャープ。産業スパイをしておりますわ。たまに、少しだけ荒っぽいお仕事も」

「誰に雇われたの?」

「オクトーバーという方から。あなたなら、ご存知でしょうか?」

「……?」


 カーバンクルの赤い瞳が、わずかに細くなった。


「まぁいいや。目的は?」

「あなたを、跡形もなく壊すこと。ですわ」


 ニードルは首を傾げ、髪を耳にかけた。


「でも、壊してしまう前に、少しだけ遊ばせていただけると嬉しいなって。あなた、痛みには強いほう? 弱いほう? 泣き叫ぶ声は高い? それとも、息ができなくて掠れちゃうタイプかしら?」


 甘く、ねっとりとした挑発。

 だがカーバンクルは答えなかった。


 コンベアの上で、赤い瞳の光が変わった。

 凪いでいた赤色が、幾何学模様に明滅する。戦闘モードへの移行。


 次の瞬間、ニードルの視界からカーバンクルが消滅した。


(――速い!)


 義眼のトラッキングがまったく追いつかない。

 ニードルは反射的に右腕を交差させ、ガードを上げた。


 直後、爆発のような衝撃。

 四十キロの少女から放たれたとは思えない、大質量のハンマーで殴られたような打撃が、ガードの上からニードルの全身を貫いた。


「――ッ!?」


 ニードルの体が、三メートル後方に弾き飛ばされた。

 背中からラインの鋼鉄の支柱に激突し、金属がひしゃげる音が工場に反響する。


「がはっ!」


 肺から空気が搾り出され、一瞬視界がホワイトアウトした。

 義体の損傷アラートが、右前腕部に黄色の警告を点灯させている。


「……っは、ぁ」


 ニードルは支柱にもたれたまま、顔を上げた。

 十メートル先に、カーバンクルが音もなく着地している。


 右拳をだらりと下ろし、赤い瞳でこちらを見据えている。

 追撃は来ない。ただ、こちらの反応を観察するように見ているのだ。


「……ご挨拶が、随分と乱暴ですのね」


 ニードルは立ち上がりながら、口元の血を親指で拭った。

 衝撃で舌の内側を噛んだらしい。彼女の身体に残された、数少ない生身の部分。


 指先に付いた自身の血を舌で舐め取ると、ニードルの瞳の奥で、どす黒い加虐心が灯る。


「……なるほど。オクトーバーさんが私に依頼した理由、少しだけわかりましたわ」


 コートの前を乱暴に開いて脱ぎ捨てた。

 その下に着ていた黒いボディスーツの表面が小刻みに波打ち、音もなく変形を始める。


 肩、肘、膝、背中、そして指の関節。

 あらゆる部位の装甲から、鋭利な刃のついた棘が一斉に突き出していく。


 黒いカーボンの針が全身を覆い尽くし、美しい女のシルエットが処刑器具に変わる。


 全身棘のバトルスーツ。

 触れた者の肉を削ぎ、骨を貫く、歩くアイアンメイデン。


「でも、勘違いなさらないで。私は、生意気な子供に殴られて喜ぶような趣味は持ち合わせておりませんのよ」


 ニードルは棘だらけの十指をゆっくりと開閉し、首を鳴らした。

 作業灯の光が無数の針に反射し、工場の暗がりに鋭い殺意の星を散らしている。


「躾のなっていない悪い子には……たっぷりとお仕置きが必要みたいですね」


 獰猛な笑みを浮かべるニードル。

 カーバンクルの赤い瞳は、瞬きすらせず彼女を見つめていた。

スパイと言うにはバトル脳すぎる

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