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【依頼人】産業スパイ

 セレスト直下、アルミナ最上層。


 高層コンドミニアムの窓の外には、ニュー・エデンの富裕層だけが享受できる天蓋の裏側が広がっていた。


 幾何学的なドームの骨格が落とす冷たく美しい影は――この部屋で行われている惨劇とは無縁の顔をしている。


「うっ……ぐう……!」


 部屋の中央で、男が椅子に縛り付けられていた。


 両手首はアームレストに固定され、足首も結束バンドで椅子と一体化させられている。

 仕立ての良かったスーツは乱れ、温和だった五十代の顔は、脂汗と涙で見る影もなく引きつっていた。


 ロイド・カーター。

 テラのブロックAに本社を置く医療機器メーカー『カーター・メディカル』の社長。


 従業員23人の小さな会社だが、ブロンズ層向けの安価な義肢パーツを製造し、アンダーには原価で卸すという、この街には似合わない良心を持った男だった。


「お願いだ……もう、全部渡した。特許データも、製造工程も、取引先リストも。何もかもだ……だから、頼む……」


 ロイドの声は、さんざん上げた悲鳴によって限界まで掠れていた。

 彼の正面に、女が立っている。


 長い黒髪をポニーテールにまとめた、二十代半ばの美しい女。

 身体のラインに沿う、黒く輝くボディスーツ。そのあちこちには鋭く太い棘のようなものが生えていた。


 ヴェロニカ・シャープ。

 通称、ニードル。


「ええ、存じておりますわ。すべて頂戴いたしました。ご協力、本当にありがとうございます」


 春風のように柔らかな声。唇には淑やかな微笑みすら浮かべている。

 だが、その右手の美しいネイルの先端から伸びる、鋭い針。

 それが、ロイドの左手の甲へゆっくりと降りていく。


「っ……ぐ、ああああっ!」

「動いては駄目ですよ。腱を傷つけたら、その指、一生使えなくなってしまいますから」


 ニードルは慈愛に満ちた笑みを崩さず、針をもう一ミリだけ深く差し込んだ。

 正確に小指の伸筋腱の手前で止める。痛みだけを最大化し、肉体の損傷は最小に留める――彼女の得意とする、最も洗練された奏法だった。


「あ……あが……っ、や、やめ……」

「ところでカーターさん。なぜ、最初から素直にお売りにならなかったんですか? ヘリオス・エナジーさんが提示した買収額、あなたには過ぎるほどの良い条件でしたのに」


 ニードルは針を抜き、血の滲んだ指先をシルクのハンカチで優雅に拭い取った。

 ロイドは手の甲を押さえ、歯を食いしばって過呼吸気味に息を繰り返している。


「あの特許は……ブロンズ層やアンダーの人たちが……っ、安い義肢を、使えるように……」

「ああ、慈善事業でしたか。なんて素敵なんでしょう」


「特許を売ったら……あの人たちが、義肢を買えなくなる。ヘリオスは価格を十倍にするって……そんなの……!」

「そうでしょうね。でも、それはカーターさんが心配なさることではありませんわ」


 ニードルはしゃがみ込み、ロイドの顔を下から覗き込んだ。

 汗と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった男の顔をうっとりと眺める。


「いい方ですね、カーターさん。本当に。こんな冷たい街で、ご自身の利益より見ず知らずの他人の人生を選ぶなんて。

 私、そういう尊い方……大好きなんです」


 ロイドの虚ろな目に、かすかな希望の光が灯った。


「じゃ……じゃあ……」

「ええ。だからこそ――その崇高な精神が泥水に沈んでいく様が、たまらなく見たいんです」

「なっ……!」


 ニードルは立ち上がり、端末を操作した。


 ホログラムに一本の動画が映し出される。

 ロイドの妻と、小さな娘の映像だった。テラのアパートの前で、笑いながら手を振っている。


「ご家族、テラのブロックA第二住区にお住まいでしたね。お嬢さん、今年で七歳? ふふっ、本当に可愛らしい」

「……やめろ……!」


 ロイドの声が変わった。

 掠れた懇願ではなく、親としての低い怒り。


「家族に手を出すな。それだけは……それだけは、絶対に……」

「出しませんよ。もちろん」


 ニードルはにっこりと笑った。


「その代わり、お願いがあるんです。簡単なことですわ。カメラの前で、こう宣言していただけますか。『カーター・メディカルの全特許を、卑しい私の意思で、ヘリオス・エナジー社に譲渡します』と」

「…………」

「ご自身の言葉で、満面の笑顔で、心からの感謝を込めて。そうしていただければ、ご家族には一切触れません。約束しますわ」


 屈辱、絶望、そして諦観。

 ロイドの顔面で感情が激しくせめぎ合うのを、ニードルは瞬きすら惜しんで観察した。


 やがて男が顔を上げる。

 目を真っ赤に充血させ、奥歯を噛み砕くほどの力で何かを呑み込んでから、言った。


「……わかっ……た」

「ありがとうございます。やっぱり、話のわかる方ですわ」


 ニードルは撮影ドローンを起動した。

 赤いランプが灯り、レンズがロイドを捉える。


「はい、笑って。世界で一番幸せな男の顔で」


 ロイドは渾身の力で唇の端を持ち上げ、引きつった、ひどく醜い笑顔を作った。


「私、ロイド・カーターは……カーター・メディカルの全特許を、卑しい私の意思で……ヘリオス・エナジー社に、譲渡します……っ!」


 血を吐くような声だった。だが、最後まで言い切った。

 録画ランプが消えた瞬間、ロイドは糸が切れたように俯いた。

 誇りも信念も、すべてを自らの手で売り渡した男の姿だった。


 ニードルは映像データを確認し、満足げに頷く。


「完璧な笑顔です。これでご家族も安心ですね」


 それから、さも些細なことを思い出したかのように右手の極細ブレードを展開した。

 シャッ、と微かな音が室内に響く。


「あ、そうそう。一つ、申し上げそびれておりました」


 ロイドが跳ね上がるように顔を上げる。


「家族には手を出さないと約束しましたけれど――カーターさんご本人を、生きてお帰しするとは一言も言っておりませんの」


「……な」


 ロイドの目が限界まで見開かれた。喉の奥から、言葉にならない空気が漏れる。


 その反応。その顔。

 ニードルは恍惚とした笑みを浮かべ、ゆっくりとその首筋に指を伸ばした。


「でも、もう少しだけお付き合いくださいね? もったいないじゃありませんか。こんなに立派な方を、あっさり終わらせてしまうなんて」

「や、めろ……もう……! もうやめてくれぇ……!」


 絶望の悲鳴が上がるのを、彼女は耳を澄ませて待った。



 三時間後。

 ニードルは浴室で手を洗っていた。


「ああ……最高だったわ」


 鏡に映る自分の顔を確認する。髪の乱れを直し、オフィススーツの襟を整え、口紅を引き直す。

 恐ろしい始末屋の姿は消え、代わりにキャリアウーマンの姿がそこにはあった。


「それにしても、三時間は少し楽しみすぎたかしら……。でも、仕方ないわよね。いい顔だったんだもの……」


 リビングに残した"ゴミ"については、処理業者が明日来る手はずになっている。


「さて。帰りましょうか」


 バッグを肩にかけ玄関に向かったとき、端末が振動した。


 着信元を見て、ニードルの眉がわずかに上がる。

 匿名の暗号回線だが、認証コードに見覚えがあった。


 ファイブ・クラウンよりさらに上の階層――EDENシステムの管理権限に紐づくコード。


「はい。もしもし?」


 通話を受けた。

 画面には、二十代半ばの青年の顔が映っていた。

 黒いスーツに金の刺繍。端正な顔立ちに、温度のない笑顔。


「初めまして、ヴェロニカさん。私、オクトーバーと申します」

「……EDEN系列の方ですか。珍しいお客様ですこと」

「お仕事ぶりは拝見しております。カーター氏の件、実にお見事でした。あなたの"丁寧さ"には、定評がありますね」


 ニードルは口の端を持ち上げた。

 褒められて悪い気はしない。だが、EDENの擬似人格が直接コンタクトしてくるということは、案件の規模が尋常ではないということだ。


「それで、どのようなご依頼でしょう」

「始末していただきたい相手が、一人」


 オクトーバーの笑顔が変わらないまま、一枚の画像がホログラムに展開された。


 監視カメラの映像。薄暗い通路で、カメラを正面から見据えている小柄な影。

 水色の髪。赤い瞳。白いオーバーサイズのパーカー。


「カーバンクルという名前です。現在はテラを中心に活動しています」


 ニードルは画像を眺め、小首を傾げた。


「……子供?」

「見た目は、そうですね。ですが、この数ヶ月で私の管轄内の複数の"資産"が処分されています。直近では、レオン・スカイラーの破滅に関わったとか」


「あら。あの配信者騒ぎの裏に、この子が?」

「ええ。その正体は電脳体です。ネットワークの掌握能力は極めて高い。ですが――」


 オクトーバーは、一拍置いた。


「物理的には、この体です。146センチ、推定40キロ」


 ニードルの唇が、ゆっくりと弧を描いた。

 ホログラムに映る小さな影を、長い爪の先で愛おしげになぞる。


「電脳体なのに、わざわざ脆い肉の体に入って動いているんですか。……健気ですこと」

「報酬は応相談。メイが窓口になります。詳細はそちらから」

「ふふ、お受けしますわ」


 ニードルは無表情な子供の顔を見つめた。

 赤い瞳。感情の色がどこにもない。無機質で、空っぽな人形のような顔。


「でもオクトーバーさん。一つだけ、確認させてくださいね」

「なんでしょう」

「この子――壊す前に、たっぷり遊んでもよろしいですか? この生意気で無表情な顔が、痛みに泣き叫んでぐしゃぐしゃに歪むところ……想像しただけで、ゾクゾクしてしまいますの」


 オクトーバーの温度のない笑顔が、一瞬だけ深くなった。


「お好きなように。ただし、確実に仕留めるようにしてください」


 通話が切れた。

 ニードルは端末をバッグにしまい、コンドミニアムのドアを開けた。


 アルミナの清潔な空気が、かすかに鉄の匂いを帯びた室内の空気を押し返す。

 廊下を歩きながら、ニードルは小さく、くすくすと笑い声をこぼした。


「カーバンクルちゃん、ね。……どんな声で泣くのかしら。本当に楽しみだわ」


 細いヒールの音が、静寂の廊下に優雅なリズムを刻んでいった。

武闘派女ヴィランは実は初かも

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