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【404】インフルエンサーの落日

 テラ、ブロックDの安宿。404号室。


 ナオミはカビ臭い薄い毛布にくるまったまま、壁掛けの旧式モニターをぼんやりと眺めていた。


 画面には、ノア・コミュニケーションズの臨時ニュースが流れている。

 AIキャスターの抑揚のない声が、窓のない狭い部屋に淡々と響いていた。


『――速報です。大人気配信者であるレオン・スカイラーこと本名レオナルド・スカイラー容疑者は、テラ下層における放火および殺人未遂の容疑で身柄を確保されました。

 スカイラー容疑者はテラ地下の非認可医療施設内で、麻酔による意識不明の状態で発見され、現在は拘置施設内の医療棟で――』


 画面に映し出されたのは、治安維持局のストレッチャーで運ばれるレオンの姿だった。


 目を閉じ、酸素マスクをつけられた青ざめた顔。

 リスナーを熱狂させたあの隙のない笑みも、裏で人を虫けらのように扱う計算高い目つきも、今はどこにもない。


 ただの、逃げ遅れてすべてを失った「哀れな男」だ。


『また、共犯者とされるカイル・マーサー、およびマサ・コリンズの両名も同施設内で拘束されており――』

「……はぁ」


 ナオミは、長く、震える息を吐き出した。


 胸の奥につかえていた黒い鉛のような塊が、少しだけ軽くなった気がした。

 だが、晴れやかな気分にはなれなかった。


 レオンが捕まっても、店はもうない。夫の椅子も、毎日布で磨いたカウンターも、継ぎ足してきたあの寸胴も。

 全部、彼らの放った火で灰になった。


 復讐は終わったが、勝ったのか負けたのかすら、ナオミにはわからなかった。


 ――そのとき、電子ロックのドアが音もなく開いた。


「ただいま」

「!」


 ハッとして振り返ると、そこに小柄な影が立っていた。

 水色の髪。無機質な赤い瞳。白いパーカー姿の少女。


「……おかえりなさい」


 ナオミは自分でも驚くほど自然に、その言葉を口にしていた。


 カーバンクルは部屋に入り、傷だらけのテーブルの上に、見慣れない小さなデータ端末を置いた。


 画面には匿名口座の残高が表示されている。

 ナオミはその膨大なゼロの数を見て、目を丸くした。


「これ……何?」

「レオンの裏金。逃走資金として、あいつが自分で私のダミー口座に送ってきた」


「逃走資金って……これ、すごい額じゃない。一生遊んで暮らせるわよ」

「うん。これはナオミにあげる」

「え……はぁっ!? こ、こんなの、私なんかがもらえないわ!」

「もらうんじゃない。取り返しただけ」


 カーバンクルは軋むベッドの端に腰を下ろし、赤い瞳でナオミを真っ直ぐに見た。


「あなたの店を燃やした奴の金で、店を建て直せばいい。それだけの話だよ」


 ナオミは端末の数字を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 やがて、小さく首を振った。


「……でも、もう誰も来ないわよ。また落書きされて、また燃やされるだけだわ」

「だから、場所を変えたらいいよ」


 カーバンクルの声は相変わらず平坦だった。だが、言葉には妙な具体性があった。


「テラの別のブロックに移るといい。店の名前も、看板も変えて」

「え? でも……」

「外観が変われば、ネットで叩いていた連中はあなたの店だと気づかない。あいつらは、あなたの店の味なんか知らない。看板の文字と、作られた動画しか見てなかったんだから」


 ナオミは目を瞬いた。

 それはあまりにも身も蓋もない、だが正確な指摘だった。


 コメント欄を埋め尽くした何千、何万という悪意。

 あの中の誰一人として、ナオミのラーメンを実際に食べたことなどなかったのだから。


「……あとね」


 カーバンクルは腕を組み、小さくため息をついた。


「言っておくけど、前の店はそもそも立地が最悪だからね」

「……!?」

「あんな治安の悪いハーモニー・ブロックのシャッター街、私以外来ないよ。だから潰れかけてた」


「うっ……それは……」

「でも、このお金があればブロックBの駅前だって借りられる。ちゃんとした場所に店を出しなよ。味はいいんだから」


 容赦のないダメ出しの連発に、ナオミは思わず吹き出しそうになった。


 彼女の目に、じわりと熱いものが滲んだ。

 もう何度も泣いた。でも、今こぼれそうになっている涙は今までとは違う、温かい温度をしていた。


「それに味を知ってる人は……看板が変わっても、見つけてくれるよ」


 カーバンクルは、ぽつりとそれだけ付け足した。


「……あなたみたいにね」


 ナオミが微笑むと、カーバンクルは答えなかった。

 ただ、ほんのわずかに視線を逸らす。それがこの子なりの照れ隠しなのだと、ナオミにははっきりとわかった。



 二時間後。

 テラ、ブロックBのレンタルキッチンにて。


 レストランの業者が業務用調理場を時間貸しする、下層の小さな施設だった。

 壁はステンレスの無機質な銀色で、馴染みの木目のカウンターも、赤いランプを灯す古い監視カメラもない。


 だが、火はあった。

 ナオミは途中の市場で材料を買い込み、借り物の真新しい寸胴に湯を張った。


 合成魚粉の分量を量り、バイオ鶏のガラを洗い、本物の葱を刻む。

 出汁が完成するまでの12時間を待つ余裕はなかったが、一時間の急炊きでも、ナオミの手にかかればしっかりと輪郭のある味にはなる。


 カーバンクルは、キッチンの隅のパイプ椅子に座っていた。


 膝を抱え、じっと待っている。

 いつもの店のカウンターの端に座っていた時と、まったく同じ姿勢だった。


「ごめんね。いつものとは、全然違うけど」

「いい」

「出汁も急ごしらえだし、麺もうちのじゃないし……でも、できるだけ味を近づけたわ」


 ナオミはトートバッグから、欠けた鈍色の丼を取り出した。

 焼け出された夜から、一度も手放さず抱え続けていた夫の形見。あの店から持ち出せた唯一のもの。


 チャッ、チャッ。

 湯切りの音が、ステンレスの壁に規則正しく響いた。


 琥珀色の出汁を注ぎ、細く切った葱を散らす。

 湯気がまっすぐ立ち上り、無機質なキッチンの空気をほんの少しだけ柔らかく変えた。


 ナオミは丼を両手で持ち、カーバンクルの前のステンレス台に置いた。


「お待たせ。……約束の、一杯」


 カーバンクルは割り箸を割った。麺を持ち上げ、口に運ぶ。いつも通り、淡々と。

 一口、また一口。表情は変わらない。赤い瞳は、丼の中だけを見つめている。


 ナオミは向かいに立ち、エプロンで手を拭きながら、その小さな姿をじっと見守っていた。


 やがて丼の底が見えた。

 カーバンクルは箸を置き、両手で丼を持つと出汁を最後の一口まで飲み干した。


 小さく息を吐き。それから、ぽつりと言った。


「……おいしい」


 ナオミは、涙ぐみながらくしゃりと相好を崩した。

 あの店で。影の時間に。

 初めてこの子がその一言を落とした日と、まったく同じ笑い方だった。


「そう。よかった」


 レンタルキッチンの壁は冷たく、窓の外には影の時間の乾いた薄闇が広がっている。

 ここは夫との思い出があふれるあの店ではない。だが、同じような濃密な湯気があった。


 空になった鈍色の丼と、向かい合う二人の間に。

 確かに温かい空気が漂っている。


 温かいものを食べた日は、人はちょっとだけ優しくなれる。


 それは、すべてがフェイクで塗り固められたこの街でもまだ本当のことだった。



 アルミナ、メディア・タワー最上階。


 床から天井まで続く分厚い強化ガラスの壁が、ニュー・エデンの鮮やかな夜景を一望に収めている。


 広大な室内には照明がほとんどなく、宙に浮かぶ無数のホログラム・ウィンドウだけが青白い光を放っていた。


 その光の中心、革張りのエグゼクティブ・チェアに、一人の女が腰を下ろしていた。


 『メイ』。

 三十代半ば、寸分違わず切り揃えられた黒髪に、シワひとつないオーダーメイドのスマートスーツ。


 ノア・コミュニケーションズ社の公式な役員名簿に彼女の名前はない。

 だがこの街のメディア産業を知る人間なら、誰もが彼女の存在を恐れている。


 情報と大衆の熱狂をコントロールする、名もなき支配者。


 ウィンドウの一つに、拘置所の医療棟に繋がれたレオン・スカイラーの映像が映っていた。

 メイは細い指でその映像をスワイプし、まるでスパムメールを処理するように消去する。


「4000万まで育てたのに、……随分早く壊れたわね」


 メイは別のウィンドウを展開し、次期インフルエンサーの候補者リストを眺め始める。


 顔写真と、アルゴリズムが弾き出した数値が並ぶデータ一覧。

 ――フォロワー獲得ポテンシャル。大衆扇動適性。企業への服従指数。


 レオンもかつて、このリストの中の無名の一行に過ぎなかった。

 彼が消えれば、別の顔を据えるだけだ。

 下層から這い上がりたいと願う野心家は、掃いて捨てるほどいる。


「次は……もう少し賢くて、壊れにくいのがいいわね」


 指がリストの上を滑り、ある若手の配信者の名前で止まった。

 だがメイの目はすぐにそこから離れ、アラート音とともに割り込んできた別のウィンドウへと向いた。


 ――オクトーバーから極秘裏に共有された、一枚の不鮮明な静止画。


 それは、レオンの部屋の監視カメラが最後に捉えていた映像の断片だった。

 カメラのレンズを正面から見据える小柄な影。水色の髪。そして無機質な赤い瞳。


 画像の下に、オクトーバーの暗号化プロトコルで短いテキストが添えられている。


〈被験体No.021――カーバンクル〉

「……これは」


 メイは、赤い唇の端をわずかに持ち上げた。

 レオンを一瞬で社会的に抹殺した、あの異常な手口。

 あれがもし凄腕のハッカー・チームなどではなく――オクトーバーが血眼になって探している『兵器』の仕業だとしたら。


「すごいわ。単なる配信者よりも……ずっと面白いオモチャじゃない」


 メイは椅子の背に深くもたれ、組んだ脚の上で細い指を絡ませた。

そろそろバトルか…?


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