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【断罪】高飛び、大失敗

 逃亡の準備は、その夜のうちに始まった。


 レオンはまず、レジデンスの壁に隠された生体認証金庫を開けた。

 中から出てきたのは足のつかない物理通貨のチットの山、匿名化された無記名クレジットの束、そして換金用の高純度レアメタルと宝飾品。


 公式の口座には一切入れていない、脱税と裏取引で何年もかけて貯め込んだ「真っ黒な個人資産」。

 テーブルの上に乱暴に積み上げると、カイルが呆気にとられて息を呑んだ。


「レオンさん……こんなに隠し持ってたんですか」

「持ってなきゃ、このイカれた街じゃ生き残れないだろ。いいから黙って手を動かせ」


 レオンの声は、もう微塵も震えていなかった。


 先ほどの引退配信の涙も、床に這いつくばって見せた醜態もない。

 すべてを脱ぎ捨て、彼は冷徹なマシンのように動き始めていた。


 次にやったのは証拠の処分だった。


 レオンは自室のプライベートサーバーに残ったすべての通信ログ、決済記録、裏取引のデータを片端から消去していく。


 あの赤い目のハッカーに抜かれた分は、もう取り返せない。

 だが治安維持局が令状を取ってガサ入れに来たときに、これ以上の追加の証拠をくれてやる必要はなかった。


「カイル、お前の端末も全部初期化しろ。マサとジェイドもだ。ババアの店の放火の打ち合わせに使った回線は、特に念入りに消せ」

「は、はい……」


 次に、逃走ルートの確保。

 アンダーグラウンド経由の強固な匿名回線で、ブラックマーケットの三つの逃がし屋業者に同時に連絡を入れる。


 ルートの比較と価格交渉。

 レオンの交渉技術は、スポンサー企業から大金を引き出す時に鍛え上げた手際だった。


『――テラからアンダーの最下層に降りてもらう。そこで四人分の整形とアカウントを渡す……250万クレジットだ』


 回線の向こうの男が、法外な金額を提示した。

 レオンは忌々しげに舌打ちしたが、すぐに承諾する。


「わかった、払う。暗号通貨で半金を送る。残りは出発時だ……いいな?」

『……いいだろう』


 レオンは改めて残金を見返した。

 250万クレジット。合計は400万クレジットほどだ。捻出できる額ではある。


 だがその後の生活を考えると、あまりに手痛い出費だった。


 レオンはカイルを呼び寄せ、声を落とす。


「四人分のルート確保と、全員の顔の整形費用を合わせると、手持ちの裏金じゃ足りない。三人ならギリギリいける」

「え……?」


 カイルの顔が強張った。彼はレオンの視線を追って、ソファにぐったりと座り込んでいるスタッフの二人――マサとジェイドを見た。

 二人はまだ熱地獄の後遺症から回復しきれておらず、焦点の合わない目で宙を見つめている。


「レオンさん……まさか」

「マサは映像編集を全部一人でやった。技術がある。逃げた先でもあいつは使える」


 レオンは、まるで不良品の機材を捨てるような口調で平然と言った。


「ジェイドは……何ができる? 車の運転と雑用だろ。それなら新しく雇い直せばいい」

「でも、ジェイドも放火の実行犯として火を――」

「だからだよ」


 レオンはカイルの目を見て、底意地悪く薄く嗤った。


「実行犯が一人、この街に『逃げ遅れて』残ってくれたほうが、治安維持局の捜査がそっちに向く。最高の囮だろ? 俺たちが地下に潜る時間をたっぷりと稼げる」

「……っ!」


 カイルは身震いし、何も言えなかった。

 レオンはジェイドのもとへ歩いていき、その震える肩を優しく叩いた。


 芝居がかった優しさで、カメラの前の「聖人」とまったく同じ顔で、にっこりと笑いかける。


「ジェイド。お前はこっちに残って、警察の対応をしてくれ」

「え……!? で、でも」

「大丈夫、弁護士は俺が手配する。裏金もあとで必ず送るから。すぐに合流できるさ」


 ジェイドは疲れきった目でレオンを見上げ、彼を信じ切ったように弱々しく頷いた。


「……わかりました、レオンさん」


 レオンは背を向けた瞬間、もうジェイドの顔など完全に忘れていた。

 弁護士も金も、送る気など最初から一ミリもなかった。



 翌日。

 テラ下層、ブロックEの入り組んだ路地裏。


 レオンは深くフードを被り、酸性雨の臭いが染み付いた雑居ビルの地下へと降りていた。

 匿名回線で手配した、裏の整形医のクリニック。

 看板もなく、入口には錆びたシャッターが半分だけ開いている。


「ここ……本当に大丈夫なんですか。なんかヤバい匂いしかしませんよ」


 同行したカイルが不安そうに囁いた。


「腕は確かだと逃がし屋が保証した。顔の骨格を変えて、生体IDのチップを偽造のものにすり替えれば、もう別人に生まれ変われる。整形は絶対に必要なプロセスなんだよ」


 薄暗い地下の施術室は、外観に反して意外なほど清潔だった。

 壁面の違法な医療機器が青白い光を放ち、中央にリクライニング式の金属製施術台が据えられている。


 奥に、白衣の医師がひとり。

 顔の下半分をサージカルマスクで覆い、無言でレオンに施術台を示した。


「手順を確認する。まず全身麻酔で意識を完全に落とす。骨格修正と表皮再生で六時間。術後は顔の腫れが引くまで、二十四時間の安静が必要だ」


 医師の低い声が部屋に響く。


「……わかった。さっさとやってくれ。時間がねえんだ」


 レオンは施術台に横たわった。

 天井の無影灯が、冷たくぼんやりと光っている。


 視界の端に、もう一人の白衣の人間が立っているのが見えた。

 マスクとキャップで顔が隠れた、ひどく小柄な麻酔担当。

 レオンはちらりと見たが、ただの下働きの助手だろうと気に留めなかった。


「注射をする。少し冷たく感じるだろうけど、十秒くらいで意識が遠のくよ」

「……あぁ」


 麻酔担当の声は、くぐもって低かった。

 チクリとした痛みの後、冷たい液体が血管を這い上がっていくのがわかった。


 指先から急速に感覚が消え、腕が鉛のように重くなり、やがて肩から首へと圧倒的な痺れが広がった。


「お……おい、もう効いてきた……随分、早いな……」


 レオンの舌がもつれ、瞼が重力に負けて閉じかけた。


 その時。


 麻酔担当の助手がゆっくりと、自分の顔を覆っていたマスクとキャップを外した。


 ――水色の髪。

 ――無機質な、赤い瞳。


「……!?」


 レオンの目が、限界まで見開かれた。


 叫ぼうとした。だが、喉が動かない。

 舌も顎も、もう自分のものではなくなっていた。


 全身が施術台に太いボルトで縫い止められたように微動だにせず、ただ目だけが極限の恐怖で痙攣していた。


「ぁ……あ、あ……っ!」

「声が出ないのはわかってるよ」


 カーバンクルは、外したマスクを丁寧に折り畳み、白衣のポケットにしまった。

 赤い瞳が、眼球しか動かせないレオンを、見下すように冷たく見つめている。


(どうなってる……!? どうして!? 逃がし屋に連絡したはず――)

「高飛びの手配に、三つの逃がし屋を使ったね」

「な、んで……しっ、て」


「だってあれ――全部、私だから」


 レオンの目が、ぐらりと揺れた。

 カーバンクルは施術台の脇に立ったまま、子供に絵本を読み聞かせるような淡々としたトーンで続ける。


「あなたのネットワークはね、あの夜からずっと、私の手の中にあるんだよ。暗号回線も、匿名通信も全部。

 あなたが必死に連絡した相手――逃がし屋も、整形医の手配も、ルートの下見も。全部、私が声を変えてただけ」


「あ……う、うそ……だ……」


 声にならない空気の漏れる音が、レオンの唇の隙間から微かに漏れた。


「今の私は電脳体だからね。声や回線情報を偽造するくらい、簡単にできる。変声機、とかじゃないからね。気づかなかったでしょ?」


 レオンの目から涙がこぼれた。

 後悔の涙ではない。自分のすべてが手のひらの上で踊らされていたことに気づいた、純粋な絶望と屈辱の涙だった。


 カーバンクルは壁のモニターを指で弾いた。

 画面に、レオンの送金履歴がずらりと並んでいる。


 業者への前金。整形医への手付金。ルート確保の保証金。

 すべての振込先が、追跡不可能な単一のダミー口座に吸い込まれていた。


「あなたが送った裏金もね。全額、私のところに届いてるよ」

「は……は……!?」

「ルートなんて用意されてないし、整形もされない。……あなたは今、致死量スレスレの麻酔で動けないまま、私が通報した治安維持局が来るのを待ってるだけ」


 レオンの指先がかすかに痙攣した。

 動こうとしている。逃げようとしている。

 だが筋肉は一切応答しない。瞼すら、もう自力では持ち上がらなくなっていた。


「か……かね……かえ――」

「あぁ、お金ね。ナオミの店の再建費用に使わせてもらうよ」


 カーバンクルの声は最後まで平坦で、冷酷だった。


「あなたが燃やした分は、あなたが払う。ただ、それだけの話」


 無影灯の光が、急速にぼやけ始めていた。

 レオンの視界が、端から暗く潰れていく。


「あなたの資産、あなたのファン、あなたの力。……それらはもう、|どこにも存在しない《404 Not Found》」


「ぁ……」


 意識が、深い暗闇の底へと沈んでいった。


 数分後。サイレンを鳴らしたクローン部隊が突入してきた時。

 薄暗い地下の施術台の上には、放火の主犯として手配されたレオナルド・スカイラーの、ピクリとも動かない体だけが残されていた。

キサマはカーバンクルさんを嘗めたッッッ

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