【断罪】蒸し焼き
そのとき。
四方八方から鳴り響いていた着信音の嵐が、ふっと止んだ。
カーバンクルが、レジデンスの外部通信回線を一斉に遮断したのだ。
スポンサーの怒声も、代理店の悲鳴も、メディアの問い合わせも、一瞬で消え去る。
「な……なん、だ? 通信が……」
赤く染まった部屋に、不自然な静寂が戻った。
レオンは黒い画面になった端末を握りしめたまま、肩で息をしていた。
極度のストレスで、額の冷や汗が顎の先からぽたぽたと滴り落ちる。
『……ネット上の「炎上の痛み」は味わってもらえたかな?』
カーバンクルの平坦な声が、静寂を裂いた。
『でも。物理的な「炎上の痛み」は、まだだよね』
「……はっ?」
その一言に、レオンの背筋が凍った。
彼はひきつった笑みを浮かべ、無意識に後ずさる。
「な……何を言ってる。落ち着けよ、もう十分だろ! 俺は社会的に終わったんだ。これ以上、何を――」
『十分? まだまだ始まったばかりだよ。炎上一日目なんだから』
「なにぃ……!?」
『本当ならナオミの店と同じように、ここに火をつけたいところだけど』
画面越しの赤い瞳が、わずかに細められた。
『でも、それだと周りに迷惑がかかる。この高級レジデンスには、あなたたち以外の住人もいるからね。関係ない人間を巻き込むのは私のやり方じゃない。……だから、少しだけ変わった趣向を用意したよ』
レオンが眉をひそめた。意味がわからなかった。
部屋は静かだ。火の気配などどこにもない。
窓の外には、いつも通りのニュー・エデンの夜景が広がっている。
――最初に異変に気づいたのは、ディレクターのカイルだった。
「……れ、レオンさん」
カイルが、自分の首元のシャツをパタパタと手で扇いでいた。
額に、玉のような汗が不自然に浮いている。
「なんか……暑く、ないですか? この部屋」
「あ……」
言われて、レオンもようやく気づいた。
空気が、重い。先ほどまで快適な22度に保たれていた室温が、じわじわと上昇している。
テーブルの上のグラスを見た。
浮かんでいた氷が溶けはじめ、丸く小さくなっていた。
「おい、空調! 空調を下げろ!」
カイルが壁のスマート制御パネルに飛びついた。指で温度設定を叩く。
だが、数字は動かない。
何度押しても、室温表示はじりじりと上昇を続けていた。
28度。32度。35度。
「き、効かない! 操作を受け付けません!」
「ドアだ! 外に出るぞ!」
四人が一斉に玄関へ走った。
ドアハンドルを掴み、力任せに引く。
動かない。
レオンが体当たりをした。チタン合金の分厚い扉はびくともしない。
電子ロックのホログラム表示が、不吉な赤色で点滅していた。
――〈SEALED(封鎖)〉。
「嘘だろ……開けろ! おい、開けろよ!!」
レオンがドアを何度も殴りつけた。
その間にも、室温は容赦なく上がっていく。38度。42度。
配信者であるレオンの声が外に漏れないように、この部屋の防音設備は最高峰のものだ。
たとえ大声で怒鳴り、ドアを叩こうと、外にこの異変が漏れることは決してない。
全面ガラスの広大な窓も、外の冷気を一切通さず、部屋をサウナのように変えていた。
空調システムは逆回転し、熱風を吐き出し続けている。
『炎で焼かなくても、ゆっくり熱すればいい』
カーバンクルの平坦な声が、汗だくの四人を見下ろす。
『ナオミのあの店も、こうやって熱くなっていった。彼女は、有毒な煙と熱で目を覚ました。……あなたたちは、何で目を覚ます?』
「クソ、野郎っ……!」
■
「暑い……! クソ、ふざけんなよ!」
50度を超えたあたりで、四人はスマートジャケットを脱ぎ捨てた。
「冷蔵庫……冷蔵庫を!」
カイルはキッチンへ走り、冷蔵庫を開けようとした。
だが、電子ロックがかかっていて開かない。
「水……! 水だ! 水で体を冷やせば」
「あッ、ああアッツ!?」
残りの二人がバスルームに駆け込んでシャワーの蛇口をひねったが、出てくるのは火傷しそうな熱湯だけだった。
給水システムの温度制御まで、カーバンクルに完全に掌握されている。
「は……はは、なんだよこれ……まだ、サウナ程度だろ。これくらい、俺は……我慢、できる……」
レオンはリビングの床にへたり込み、強がりを吐いた。
だが、その声はもう恐怖で震えていた。
高級なシルクのシャツは汗で肌に完全に張りつき、セットされた髪が額にべったりと垂れている。
カメラの前で見せていた完璧な好青年の面影は、見る影もなく溶け落ちていた。
60度。70度。
息を吸うだけで、気道が焼けるようだった。
空気そのものが暴力的な熱を持ち、肺を内側から炙る。
カイルがドアの前に倒れ込み、魚のように口をパクパクとさせて荒い呼吸を繰り返していた。
床の厚いカーペットに、四人の夥しい汗の染みが広がっていく。
「もう……もう、無理だ……息が……!」
スタッフの片方が、白目を剥いて壁にもたれかかり、ずり落ちた。
すでに熱中症で意識が朦朧としている。
80度。90度。
人間の生存限界に達しつつある温度。
スマート家電のプラスチック装飾が、熱でパキパキと不気味な音を立てて歪み始めた。
「止めてくれ……頼む、死ぬ、死ぬから止めてくれ……!!」
レオンが、ついに四つん這いになって膝をついた。
赤く染まったホログラムの、カーバンクルの顔を見上げる。
プライドも、フォロワー4000万の優越感も、すべてが圧倒的な熱の前に屈服していた。
残ったのは、剥き出しの生物的な恐怖だけだった。
『…………』
「謝る……! 俺が悪かった、謝るから……! 金なら払う! 俺の全財産やる! いくらでも払うから、頼む、開けてくれ……!」
『謝る、ねぇ』
カーバンクルは応えなかった。
赤い瞳が静かに、昆虫の死骸でも観察するようにレオンを見下ろしている。
室温の上昇は、止まらない。
――95度。
「し、死ぬ……マジで、死ぬって……!!」
レオンは床を這いずり、涙と鼻水と汗でぐちゃぐちゃになった顔でホログラムに手を伸ばした。
届くはずもない映像に向かって、爪を立てるように腕を伸ばす。
「金じゃ……金じゃダメなのか……! じゃあ、何だよ! 何すればいいんだよ!! 何でもする、何でも言う通りにするから……!!」
『…………』
沈黙。
カーバンクルは何も言わなかった。
室温が98度に達した。あと数度で、水が沸騰する温度。
皮膚がジリジリと灼け、髪の毛がチリチリと縮れ始める。
その時だった。
極限状態に達したレオンの口から、半ば無意識に、生存本能が弾き出したその言葉が漏れた。
「あの……あの店の、おばさんにも……謝るから……!!」
――ピタリ。
部屋を狂ったように暖めていた空調の唸りが止まった。
熱風の轟音がふいに途絶える。室温表示が99度で停止し、それ以上は上がらない。
死にかけた四人の荒い呼吸だけが、密室に響いていた。
レオンは床に手をついたまま、ぜいぜいと喘いでいる。
何が起きたのか、熱に侵された脳ではすぐには理解できなかった。
『……今、何て言った?』
カーバンクルの声が、静かに尋ねた。
レオンは、茹で上がった赤い顔を上げた。
神に縋るように、何度も、何度も必死に頷く。
「あ……謝る……ナオミさんに、謝る……! 土下座でも何でもする……本当だ、嘘じゃない……!」
『もう一度言って』
「ナオミさんに……俺のしたことを、全部謝罪する……!!」
カーバンクルの赤い瞳が微かに揺れる。
部屋の温度が、ゆっくりと下がり始める。熱風が冷風に切り替わり、急速に冷気が満ちていく。
急激な温度変化に、四人が糸の切れた人形のように、その場に力なく崩れ落ちた。
次の瞬間。
壁面の巨大なディスプレイが切り替わった。
――撮影モードの起動画面。
赤い録画ランプがぽつりと灯る。
部屋の隅に置かれていた私物の撮影ドローンが勝手に起動し、ふらふらと宙に浮かび上がった。
かつてレオンが、ナオミの店に持ち込んで彼女を貶めたものと、まったく同じ型のカメラだ。
『立って。レオン・スカイ』
カーバンクルの声が、絶対の死神として冷たく命じた。
『カメラの前で、あなたのしたことをすべて話しなさい。一言も、嘘を混ぜずに』
ドローンのレンズが、冷酷にレオンを捉える。
『――今度は、編集なしの生ライブだよ』
レオンは生まれたての小鹿のように震える脚で、よろよろと立ち上がった。
汗で透けたシャツ、熱で赤く染まった肌、恐怖で焦点の合わない目。
録画ランプの赤い光が、その惨めな姿を照らし出していた。
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