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【依頼人】依頼料金

 テラ下層、ブロックCの外れにある二十四時間営業のデータ・ポッド。

 それは行き場を失った人間が最後に流れ着く、棺桶のような場所だった。


 一畳にも満たないカプセルに、消毒液の臭いが染み付いた薄い毛布と、壁に埋め込まれた旧式端末。


 仕切りの黄ばんだ樹脂パネルは薄く、隣のポッドの寝息や咳が筒抜けになる。

 身元を証明するエデン・チップの認証すら省略される、テラ最底辺の吹き溜まり。


(……狭い……)


 焼け出されて、四日。


 ナオミは狭いポッドの中で身を縮めるように膝を抱え、旧式端末の薄暗い画面を睨み続けていた。


 膝の上には、あの欠けた鈍色の丼だけが置かれている。他にはもう、何も残っていない。


「テラ、放火、通報……賠償……」


 うわ言のように呟きながら、検索ワードを打ち込む。


 ヒットするのは、治安維持局の『下層における器物損壊の捜査打ち切り率98%』という絶望的なデータだけだった。


 画面を切り替え、「インフルエンサー 訴訟」と入力する。

 弁護士案内のページが出たが、着手金の桁を見た瞬間、ナオミは端末を膝の上に伏せた。


「……無理よ。こんなの。誰に言ったって……」


 低く薄暗い天井を見上げる。

 樹脂パネルの継ぎ目から、隣のポッドのチカチカと瞬く蛍光灯がうっすらと漏れている。

 隣人の湿った咳が壁越しに響き、また止んだ。


 ふと、ナオミは端末を持ち直した。


 画面の隅に、検索エンジンのアルゴリズムから外れた、見慣れないフォーラムのリンクが引っかかっている。


 テラとアンダーの境界を這うように存在する、非公式のアンダーグラウンド掲示板。

 『ラジオ・フリーダム』系列の末端サイトだ。


 無意識にスクロールした指が、あるスレッドのタイトルで止まった。


 【都市伝説】404号室の始末屋を知ってるか


「始末屋……?」


 乾いた唇から、掠れた声が漏れた。


 殺し屋。裏の掃除屋。

 そんな三流のホロ・ムービーみたいなものに縋ろうとしている自分が、ひどく滑稽だった。

 一週間前の、店でラーメンを茹でていた自分なら、こんなスレッド開きもしなかっただろう。


 だが、開いた。


 書き込みは断片的で、ほとんどが下層民の与太話か、推測の域を出ないものだった。

 だが、いくつかの投稿には奇妙な具体性があった。


『ホテルの404号室を予約しろ。どこのホテルでもいい。部屋代がそのまま前金になる。あとは部屋で待ってればいい』

『俺の知り合いの知り合いが使った。マジで来たらしい。すげえ小柄な、子供みたいな女の子だったってよ。水色の髪の……』

『嘘乙。……でも、先週あの系列の幹部が本当に不審死したんだよな。防犯カメラに何も映ってないらしいし』


 ――子供みたいな、女の子。

 ナオミの脳裏に、不意に一つの影がよぎった。


 フードを目深に被った小柄な体。その縁から覗く、水色の髪。

 いつも影の時間に現れては、カウンターの端に座り黙々とラーメンを食べて帰っていく、あの無口な常連客。


「……まさか、ね」


 ナオミは力なく首を振った。

 だが、指はもう勝手に動いていた。


 ホテル予約サイトを開き、テラ下層の安宿を検索する。

 404号室が空いている宿を見つけ、全財産の入った残高から、一泊分のチップを決済した。


『予約完了:ブロックD・カプセルホテル「オアシス」404号室』


 その通知を見つめながら、ナオミは膝の上の丼に手を置いた。


「お父さん……私、本当におかしくなっちゃったのかな」


 欠けた丼は、何も答えなかった。



 翌日、影の時間。

 テラ、ブロックDの安宿。廊下は湿っぽく、天井の蛍光管が一本おきに切れて不気味な瞬きを繰り返している。


 404号室の、傷だらけのドアの前で。

 ナオミの足が止まった。


「……何やってるのよ、私」


 小さく自嘲するように笑った。

 都市伝説を真に受けて、なけなしの金で安宿の部屋を取って。


 もし誰も来なかったら、明日からはポッドの代金すら払えず、本当の路上生活者になる。

 それでももう、ここしか残っていなかった。


 カードキーをかざし、ドアを開ける。


 カビの臭いがする、薄暗いワンルームだった。

 窓のない壁、剥がれかけの壁紙、青白い安物のシーリングライト。


 軋むベッドと、傷だらけの小さなテーブル。

 それだけの部屋。……そのテーブルの向こうの壁に。


 ――誰かが、もたれて座っていた。


 フードを目深に被った小柄な影。膝を立て、腕を組み、壁に背中を預けている。

 フードの下から、水色の髪が覗いていた。


「……え?」


 影が、ゆっくりと顔を上げた。

 赤い瞳が薄闇の中でかすかに光る。見間違えようがなかった。


「あなた……うちの、お客さん?」

「…………」


 カーバンクルは無言のまま、ベッドのほうを顎でしゃくった。

 座って、という意味だった。ナオミは混乱したまま、言われるがままにベッドの端に腰を下ろす。


 自分の心臓の音が、うるさいくらいに耳の奥で鳴っていた。


「ま……待って。なんであなたがここにいるの? 何かの間違いでしょう?」


 カーバンクルは壁から背中を離し、音もなく立ち上がった。

 白いパーカーの背中が、ナオミの目の前を横切る。


 青白いライトの下で、背中の文字列が浮かび上がった。

 ――『404 Not Found』。


 ナオミの息が止まった。

 404号室。404のパーカー。掲示板の書き込み。子供みたいな女の子。


 すべてが一本の線で繋がり、電気が全身を駆け抜ける。


「嘘……嘘でしょう? あなたが、あの……始末屋なの?」


 カーバンクルは振り返った。赤い瞳に感情の色はない。

 いつもカウンターでラーメンを食べていた時と同じ、ひどく凪いだ目だった。


「依頼の内容を、聞かせて」


 その声は平坦で、どこか舌足らずな女の子のものだった。


「待ってよ。だって、あなたはいつもうちに来て、静かにラーメン食べて帰ってた、あの常連の子でしょう? それが始末屋って、そんなの――」

「ナオミ」


 名前を呼ばれて、ナオミの口が止まった。

 カーバンクルがナオミの名前を口にしたのは初めてだった。

 いつも「うん」と「おいしい」しか言わなかった客が静かに、こちらの名前を呼んでいる。


「店が燃やされたのは、知ってる。……詳しく、話して」

「……っ!」


 ナオミは血が滲むほど唇を噛んだ。

 ……それから腹の底に重く沈めていたものを、一息に吐き出し始めた。


 レオン・スカイの名前。取材の日のこと。カメラの前だけの聖人面。

 カメラが止まった瞬間の徹底した侮蔑。一口だけ食べて捨てようとしたラーメン。

 悪意に満ちた編集動画。コメント欄のスパム。閉めた店。


 そして――あの夜の、火。


 声が何度か詰まった。嗚咽が漏れそうになった。

 それでもナオミは止めなかった。今止めたら、もう二度と声が出なくなる気がした。


「……あの車を見たの。撮影の日に来たのと同じ、黒いワゴン。ナンバーは消されてた……でも、わかる。あいつらよ。あいつらがやったの」


 話し終えると、部屋に重い静寂が落ちた。

 安宿の壁の向こうから、隣室のホログラム・テレビの音声が微かに漏れてくる。


 カーバンクルは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。

 やがて、短く口を開く。


「わかった。レオン・スカイを始末する。報酬はこの部屋代でいいよ」


 ナオミは呆然とした。

 こんなにあっさりと。事務手続きのように、人の命を請け負う言葉が出てくるのか。


「……本当に、できるの? 相手はフォロワー4000万よ。ノア系の巨大ネットワークだって味方してる。ガードだって何十人もいるはず。あなたみたいな小さな女の子が一人で、どうやって――」

「それは、こっちの仕事だから」


 カーバンクルはテーブルの角に腰を下ろした。


 赤い瞳がナオミを真っ直ぐに見据える。

 その無機質な瞳が一瞬だけ、ほんのわずか柔らかい光を帯びた。


「でも……条件がもうひとつある」


 ナオミは身構えた。

 金ならもうほとんど残っていない。臓器を売れと言われたら……何を要求されても、もう驚かない覚悟はあった。


「……全部終わったら。またラーメンを、一杯作って」

「……え?」


 ナオミは目を瞬いた。

 言われた意味を理解するのに、数秒かかった。


 カーバンクルの表情は変わらない。

 赤い瞳は凪いだままで、冗談を言っているようには見えなかった。


 店はもうない。道具も、材料も、場所もない。

 それでも「作れ」と言っている。


 つまり――『全部終わったら、またもう一度やり直せ』ということだ。


 ナオミの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。


 声が出なかった。

 喉の奥が焼けるように熱くて、顔をくしゃくしゃにして、何度も何度も頷くことしかできなかった。


「……うん」


 かろうじて、それだけ絞り出した。


「うん。作るわ。絶対に。あなたの好きな、あの熱い一杯を」


 カーバンクルは小さく顎を引くと、再び窓のない部屋の壁に背中を預け直した。


 それ以上、何も言わなかった。

 薄暗い404号室の中で、赤い瞳だけが静かに光っていた。

データポッドとは、カプセルホテルにネカフェがついてきてるみたいな施設です

ガチカプセルに入ってもらいますが…

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