【依頼人】炎上の果て
ナオミの動画は、一晩で十二万回再生された。
レオンの動画がすでに800万回再生を突破していたことを思えば、それはノイズのような数字だった。
だが、問題は再生数ではない。コメント欄だった。
(……はぁ)
翌朝、ナオミはこめかみのチップの通知を恐る恐る開いた。
擁護の声を期待していたわけではない。
ただあの日、自分の店で何が起きたかを、飾らない言葉で話した。
嘘はひとつもつかなかった。
信じてくれる人が一人でも、二人でもいるはずだと思った。
視界の右下に展開されたウィンドウ。
最初に目に飛び込んできたコメントは、こうだった。
『証拠もなしに被害者ヅラとか草。ババアの妄想乙』
……次。
『レオンくんの動画のほうがちゃんと証拠映像あるし信憑性高い。このおばさんは口だけで泣き落とししてるだけじゃん』
その次。
『衛生管理もできない店が潰れるのは自業自得。レオンは事実を報じて被害者を減らしただけ。むしろ英雄』
『つーか、欠けた丼捨てられないとかメンヘラかよ』
ナオミは震える手でウィンドウを閉じた。
息を整え、もう一度開いた。そしてまた、すぐに閉じた。
何度繰り返しても、流れてくるのは同じだった。
真偽を検証しようとする声などどこにもない。
少数の「レオンもやりすぎでは?」「おばさんの言うことも一理ある」といった擁護コメントは、信者たちの「アンチ湧いてて草」「闇キッチンの回し者かよ」という嘲笑と罵倒の波に呑まれ、数秒で底へ沈んでいく。
彼らの多くは、ナオミの店に来たことなど一度もない。
テラの下層ブロックに足を踏み入れたことすらない富裕層の子供もいるだろう。
中には、そもそもレオンの動画すらまともに見ていない者もいた。
ただ、正義の名の下に「叩いていい」と示されたサンドバッグがあり、そこにノーリスクで石を投げる快楽だけがコメント欄を肥大化させていく。
――三日が過ぎた。
ネットの炎は、現実の嫌がらせをさらに加速させた。
シャッターにスプレーで書かれた『汚物店』の落書きは、消しても翌朝には上書きされ、裏口のゴミ箱には動物の腐乱死体が詰め込まれるようになった。
レオン・スカイ本人は沈黙していた。
反論するまでもなかったのだ。
4200万の狂信者たちが、彼の指先一つで勝手に手足となって動き、ナオミを社会的に殺そうとしていた。
■
(……限界だわ)
一週間後。
ナオミは、ついに店を閉めた。
赤く塗料をぶちまけられたすりガラスの扉を閉め、看板のネオンを落とし、切り裂かれた暖簾を外した。
厨房に立ち、コンロのスイッチに手を伸ばす。
寸胴の火を落とすとき、彼女の手は長く震えて止まっていた。
この火を一度消したら、もう二度と入れられないような気がした。
夫が生きていた頃から継ぎ足し続け、一日も絶やさなかった火だった。
「……ごめん、なさい」
ナオミは目を閉じ、スイッチを切った。
プシュッ、とガスが止まる音がして、換気扇の呻きだけが残った。
客は来ない。仕入れの金も尽きた。
通りの他の店主たちは、ナオミと目を合わせなくなった。
巻き込まれて自分の店まで標的にされたくないのだ。
ナオミはそれを責める気にはなれなかった。下層で生き抜くというのはそういうことだ。
自分だって、逆の立場ならシャッターを閉ざして目を背けただろう。
「……どうして、こうなったの……?」
店の奥にある三畳ほどの狭い居住スペースで、ナオミは膝を抱えて座っていた。
旧式端末の電源を引き抜いた。チップの通信機能も物理的に遮断した。
外界からのすべての接続を断ち、ただ暗闇の中で静かに息をしている。
嵐が過ぎるのを待つしかない。ネットの連中は飽きっぽい。
時間が経てば、彼らはまた別の『悪党』を見つけて群がるはずだ。
(……そうすれば、ほとぼりが冷めた頃に、また火を入れられる。またラーメンを作れるはずよ)
欠けた鈍色の丼を膝の上に抱きかかえ、ナオミは目を閉じた。
……待つしかない。
……待っていれば、いつか終わる。
そう自分に言い聞かせながら、彼女は時間の感覚すら曖昧になる暗い部屋の中で、何日も、何日も息を潜めて過ごした。
■
その夜は、嫌に静かだった。
シャッターを蹴る音も、落書きのスプレー缶がカラカラと鳴る音もない。
通りから聞こえるのは、遠くのネオンサインが放電する微かな『ジジッ』という音だけ。
ナオミは奥の部屋の硬い簡易ベッドに丸まり、泥のような浅い眠りに落ちていた。
最初に異変を感じたのは、「熱」だった。
(……熱い……?)
彼女ははじめ、夢の中で寸胴の火を入れたのだと思った。
あの懐かしい、出汁の濃密な匂いがするはずだった。
だが鼻腔を鋭く刺したのは、化学繊維と劣化した油が焼ける刺激臭だった。
「……っ!?」
ナオミは跳ね起きるように目を開けた。
部屋の天井が、不気味な橙色に明滅している。
壁とドアの隙間から、粘り気のある灰色の煙が這い込んでくるのが見えた。
「ゲホッ……!?」
飛び起きた瞬間、有毒な煙が喉を灼いた。
咳き込みながら床に手をつく。
ドアの向こう――店舗側から、バチバチと何かが弾ける音が聞こえた。
木が燃える音だ。毎日布で磨き続けたあの古いカウンターが、六つのパイプ椅子が、今まさに炭に変わっていく音。
「な、あ……あああっ……!?」
考える間はなかった。
ナオミは丼を無意識に掴み、裏口へと走った。
鉄製のドアノブに触れると、すでに酷い熱を持っていて、掌の皮が焼けた。
「あああっ……!」
悲鳴を噛み殺し、構わず体当たりで押し開ける。
「があっ……! はぁ、はぁっ……!」
冷たい夜気が肺に流れ込み、背後から爆風のような熱波が追いかけてきた。
路地に転がり出たナオミは、アスファルトに膝をつき、激しくむせ返ってからゆっくりと振り返った。
「う、あ……」
店が、燃えていた。
すりガラスの向こうで、狂ったように炎が躍っている。
古いカウンター。寸胴。棚に並んでいた食器。夫の口癖。ささやかな日常。
すべてが暴力的な橙色の光の中で輪郭を失い、黒い煙に変わっていく。
シャッターに書かれた『汚物店』という落書きが熱で膨れ上がり、塗料が不気味に泡立ちながら溶け落ちていく。
「あ……ああ……」
声にならなかった。
ナオミは膝の上で拳を握り、ただ自分の人生が灰になっていくのを呆然と見つめた。
――そのとき。
通りの奥で、重低音のエンジンが唸った。
「!?」
ハッとして振り返ると、黒塗りのホバー・ワゴンが路地の角を曲がるところだった。
あの日、レオンたちが乗ってきた撮影ワゴンと同じ型。
テールランプが闇に二つの赤い軌跡を残し、加速して影の中へ消えていく。
後部座席の黒いスモーク窓が数センチだけ開いており、そこから、現場の『成果』を確認するようにこちらを覗き込む男の目が見える。
車体のナンバープレートは、光学迷彩で意図的にぼかされていた。
――信者の暴走ではない。
彼らが直接、証拠隠滅と「報復」に動いたのだ。
その瞬間。
ナオミの目が、変わった。
涙は一滴も出なかった。
さっきまでの無力感も、諦めも、嵐が過ぎるのを待とうという弱さも。
すべてが目の前の炎と一緒に焼け落ちた。
後に残ったのは、腹の底に沈んだ、底なしに冷たくて重い、純粋な殺意だ。
膝の上に、欠けた鈍色の丼があった。
これだけが焼けずに残っていた。
夫の、最後の形見。
ナオミはそれを両手で大事に握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
燃え盛る炎に照らされた凄惨な顔で、車が消えていった闇の奥を見据える。
「……絶対に。絶対に許さない……!」
大多数の人間にとっては燃やせればそれでいいんですよね




