【依頼人】嵐が来る
三日後の朝。
影の時間よりも前に、それは起きた。
ナオミが仕込みの寸胴に火を入れた直後。
左のこめかみに埋め込まれた安物の情報チップがかすかに震えた。
ブロンズ層の市民に配給される標準チップは、ノア・コミュニケーションズの公式フィードを自動受信するよう設定されている。
一応はナオミも、個人連絡の類を通知するようにはしていた――が、ほとんどそれが鳴ることはない。
その小さな震えが。
立て続けに二度、三度、四度と、皮膚の下で痙攣するように跳ねた。
「……何?」
五度目で、ナオミはようやく瞬きをし、視界の右隅に半透明の通知ウィンドウを展開した。
最初に目に飛び込んできたのは、ひどく歪んだ自分の顔だった。
「……え?」
――レオン・スカイ公式チャンネル。
宙に浮かぶサムネイル画像には、鬼のような形相で口を大きく歪めて叫ぶナオミの顔が大写しになっていた。
不自然な角度からライトが当てられ、目の下や頰に濃い黒い影が落ち、まるで麻薬中毒者か狂人のように見える。
あの日、彼らに向かって「出ていって」と怒鳴りつけた瞬間の顔だった。
添えられた極彩色のホログラム・タイトルが、扇情的に踊っている。
〈【独占暴露】感動の"本物の味"の裏側! テラ下層の闇キッチン、衛生崩壊の実態に潜入!〉
「……っ!?」
ナオミの指が、無意識にカウンターの縁を強く掴んだ。
視線入力で動画が自動再生される。
チャンネル登録者数、4200万人が見つめる二十分間の番組。
冒頭から、滑らかで穏やかなレオンのナレーションが鼓膜を直接叩いた。
『僕は期待していたんです。効率化されたこの街で、本物の味をひたむきに守る、素敵な職人さんに会えると。……でも、僕の目に映った現実は、悲しいものでした』
映像が切り替わる。
寸胴の中で煮えたぎるバイオ鶏のガラが、彩度を落とした不気味な照明で、赤黒いドロドロの肉塊のように映し出されていた。
実際には琥珀色に澄んでいたはずの出汁が、まるで工業廃水だ。
カメラがスライドし、棚の特等席にあった欠けた丼がクローズアップされる。
『信じられますか? 客に出す食器はヒビだらけ。洗浄不足の油汚れ。……これが、彼らの言う"手間"なんです』
――違う。あれは夫の形見だ。
ヒビではなく、長年使い込まれた愛着の証。それに、客に出しているわけではない。
ナオミが声にならない悲鳴を上げる間もなく、映像は続く。
スタッフが雑に積み直して割った別の丼の破片が映り、『取材中に食器が崩落。老朽化と管理不足は深刻』という赤いテロップが走る。
そしてクライマックス。
レオンが両手でラーメンの丼を受け取り、深々と頭を下げる映像。
感動の試食。彼の優しい笑顔。
――その直後に不自然なカットが入り、手持ちカメラが激しく揺れ、ナオミが叫ぶ顔が画面いっぱいに広がった。
『今すぐ出ていってちょうだい!!』
前後の文脈は、見事にすべて削ぎ落とされていた。
彼が麺を吐き出したこと。残りを捨てろと暴言を吐いたこと。
カメラの外で彼らが鼻で嗤い、夫の思い出を「ノイズ」と切り捨てたこと。
何ひとつ、映っていなかった。
代わりに怒り狂うナオミを前に、レオンが悲しげに瞳を潤ませて微笑むカットが挿入されている。
『僕は、ただ下層で頑張る本物の味を、皆さんに伝えたかっただけなのに……。ちょっとしたことで怒鳴られてしまって、本当に残念です。皆さんも、外食の際は気をつけてくださいね』
動画の最後には、店の外観がぼかしなしで克明に映し出されていた。
ハーモニー・ブロックの住所。通りの景色。〈ナオミの店〉という看板。すべてが。
――ヴィーッ。ヴィーッ。
こめかみのチップが、けたたましく震え始めた。
■
ネットの海で生み出された嵐は、現実に波及するまで一時間とかからなかった。
最初は、スパムのようなコメントの嵐だった。
ナオミの視界の端を、ノア・ネットワークの通知が滝のように流れ落ちていく。
一件一件を読む間もなく、次の悪意が前の悪意を押し流す。
『うわ、不衛生すぎて吐きそう。よくこんなの食えるな』
『動物の骨を鍋で煮るってマジ? 未開人の儀式じゃんw』
『このババアの顔マジで無理。絶対なんかキメてる』
『テラの恥。さっさと保健局と治安維持局に通報したわ』
『こんな汚い店、さっさと潰れろ』
「やめ……やめて……!」
ナオミは震える手でチップの通知を強制ミュートにした。
だが、デジタルな悪意を遮断しても、現実の音は消えなかった。
――ガシャン!
「えっ!?」
店の外で、何かが派手に割れる音。
ナオミがハッとして入り口に走り、暖簾を少し捲る。
すりガラスの扉に、赤い蛍光塗料がべったりと投げつけられていた。
まだ生乾きの塗料はガラスを伝って路面へと滴り落ち、まるで黒ずんだ鮮血のように見えた。
「な、なにこれ……」
「――お、いたいた! 顔出したぞ!」
通りの向かいに、ド派手なストリートウェアを着た三人組の若者が立っていた。
彼らは宙に浮く撮影用ドローンを構え、こちらをニヤニヤと指差している。
ナオミと目が合うと、真ん中の男が手を叩いて嗤った。
「おーい、闇キッチンのおばさーん! レオンさんにキレてたけど、今どんな気持ちー!?」
もう一人の女が、ドローンのレンズを入り口のドアに押し付けるようにズームさせながら叫ぶ。
「ねえねえ、動物の死骸煮込んでる感想どうぞー! 今リスナー五千人見てまーす! 謝罪するなら今のうちだよー!」
「うわ、近くで見るとマジでヤバい顔してんじゃん!」
ナオミは息を呑み、力任せに古びたシャッターのスイッチを叩いた。
ガガガガガッ、と錆びた音を立てて金属の壁が下りる。
シャッターが閉まり切ると、店内は密室の薄暗闇に包まれた。
コンロで火の入った寸胴だけが、橙色に揺れている。
「はぁ、はぁっ……!」
ナオミの手は氷のように冷たく震えていた。
チップの通信を切っても、外の物理的な音は消えない。
昼前には、面白半分の野次馬がシャッターを蹴り上げる音が断続的に響き始めた。
ドンドン! ガンッ!
午後には人が裏口に回り込み、ゴミ箱をひっくり返して笑い声を上げるのが聞こえた。
カウンターの隅に置いた旧式端末には、店の評価ページが表示されたままになっている。
今朝まで細々と「星四つ」を維持していたスコアが、今は「星1.2」まで暴落していた。
レビュー欄は一度も来店したことのない人間たちの、正義感に酔った悪意ある書き込みで黒く塗り潰されている。
「どうなってるのよ……!」
夕方になって、外の騒ぎがようやく途切れた。
ナオミはカウンターに突っ伏したまま、何時間も動けなかった。
涙は出なかった。あまりの理不尽さに、泣くという機能すらショートしていた。
代わりに腹の底から、暗く熱いものがせり上がってくる。
店内に響くのはことことと虚しく煮え続ける寸胴の音と、排気ファンの唸り声だけだった。
■
夜。
暗い店内で、ナオミはゆっくりと顔を上げた。
「……だめよ。泣き寝入りなんて」
彼女は立ち上がり、棚の奥へと手を伸ばした。
レオンのスタッフが不衛生だと奥へ押しやったまま、誰も元に戻していなかった欠けた鈍色の丼を、両手で壊れ物を扱うように抱え込む。
しばらくそのざらついた感触を指でなぞってから、ナオミは旧式端末の前に座った。
「……私からも、真実を話さないと」
深呼吸をひとつして、録画機能を起動する。
画質は粗い。照明は厨房のチカチカと瞬く蛍光灯だけだ。
レオンの番組のような洗練されたテロップも、美しいBGMも、完璧な肌補正のフィルターも何ひとつない。
画面に映った自分の顔を見て、ナオミは一瞬たじろいだ。
隈が落ちくぼみ、頰がこけ、ひどく老け込んでいる。
たった一日悪意に晒されただけで、人間はこんなにも磨耗するのか。
それでも。
彼女は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「――あの動画は、嘘です」
声は掠れていた。でも、決して途切れさせなかった。
「レオン・スカイさんは……カメラが回っている時だけ、別人のように優しい顔をする人でした。カメラが止まった途端、うちの店を汚い、臭い、原始人だと、スタッフの方と一緒に笑っていました。
うちの設備を勝手に外し、撮影のために持ってこさせたラーメンは、一口だけ食べて口から吐き出し、『残りは捨てろ』と言いました。
……あの動画で私が怒鳴っているのは、それが理由です」
ナオミは、抱えていた欠けた丼をそっとカメラの前に置いた。
「動画で『不衛生なヒビ』と言われていたこれ……これは、五年前に死んだ夫の丼です。お客様に出すことはありません。ただ、どうしても捨てられないんです」
言葉にすると、胸の奥で何かが決壊しそうになった。
「この人が……温かいものを食べた日は、人は少しだけ優しくなれるって。そう言って、毎日この丼でラーメンを食べていたから――」
声が詰まった。
数秒の重い沈黙。ナオミは無骨な手で目元を乱暴に拭い、もう一度、レンズの向こうの、顔の見えない何千万という人間たちを真っ直ぐに見据えた。
「こんなことを、言うべきかどうか悩みました。でも、このまま黙って店を潰すのは……うちの人に、申し訳が立たないから」
録画の停止ボタンを押した。
粗い画質、揺れる不健康な照明、フィルターのない涙声。
4200万のフォロワーを持つ「本物」のインフルエンサーが作り上げた、磨き上げられた完璧なエンターテインメントとはまるで違う。
ナオミの太い指が、アップロードの『送信』ボタンの上で止まった。
『――あんたの名前も、この小汚い店の評判も、俺のさじ加減ひとつで好きなように書き換えられるんだよ』
レオンの薄暗い声が、耳の奥で蘇る。
これを上げれば、彼はもっと巨大な力で、今度こそ店を物理的に潰しに来るかもしれない。
指がかすかに震えた。
恐ろしかった。
それでも。
ナオミは目を閉じ、そのボタンを、祈るように力強く押し込んだ。
ネットに疎いやつはこれだからな




