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【依頼人】人質交換

 ツイライト・フリンジ。

 アンダーとの境界に位置する薄暮の地帯。

 巨大な人工建造物の影に隠れ、一日中人工太陽の光が届かない死角のエリアだ。


 公式にはテラ層の末端区画ということになっているが、実態はアンダー層の貧民たちが蠢く緩衝地帯だった。


 夜になればクローン警官の巡回すら途絶え、代わりに非合法な「狩人」たちが姿を現す。


『狩人ってなに?』


 カーバンクルの声が頭の奥で響いた。

 ミアは人工河川沿いの遊歩道を早足で歩きながら、小声で答えた。


「『ハンティング・ライセンス』って聞いたことある? 上層の人間がお金を払って、アンダー層の人を……狩るの。スポーツとして」

『……人間を?』

「アンダーが主な狩場だけど、ツイライト・フリンジまで上がってくる人がいるから、ここも狩場になる。夜になると、行き場を失った人たちがこの辺りをうろつくの。それを、狩りに来る」

『この都市の連中は、随分と大胆な遊びを考えるね』


 カーバンクルの声に、かすかな侮蔑が混じった。


 ネオ・アルカディアにも腐敗はあった。

 だが、暴力が金で買える「娯楽」として制度化されているのは予想外だ。


「人口の24パーセントがアンダーで、法的には存在しないことになってる。だから狩られて死んでも、殺人事件にはならない」

『便利な仕組みだね』

「便利なんかじゃない!」


 ミアは強く唇を噛んだ。

 遊歩道が途切れ、足元が荒れた砂利道に変わる。


 左右の建物が低くなり、壁面のホログラム広告はとうの昔に消灯して放置されていた。

 テラの整然とした街並みが、ここから急速に崩壊していく。


 前方に、第三排水路の巨大な高架が見えてきた。


 無骨なコンクリートの柱が等間隔に並び、その頭上を直径五メートルの太い排水管が走っている。

 アルミナから流れ落ちた有害な工業排水が、テラを迂回してアンダーに捨てられる経路だ。


 高架の下は重苦しい闇に沈み、不法投棄された建材や壊れた機械の残骸が山のように積み上がっていた。


 その奥に、明かりが見えた。

 携帯式の強力なランタンが二つ、コンクリート柱の足元を照らし出している。


 その光の中心に、人影があった。


「……サラっ!?」


 サラがパイプ椅子に縛り付けられていた。

 動画で見たときよりも、さらに酷い状態だった。顔の腫れが広がり、右目までもが青黒く塞がっている。


 意識はないようだった。首が力なく垂れ、血と汗に塗れた髪が顔に張り付いている。

 胸の微かな上下だけが、かろうじて生きている証拠だった。


「あら、来たわね」


 サラの後ろに、シエラが立っていた。


 右手にナイフを持っている。

 刃渡り十センチほどの、鋭利な折りたたみ式サバイバルナイフ。

 それをサラの首筋に、触れるか触れないかのギリギリの距離で突きつけていた。


 さらに、シエラの左右には男が二人控えていた。

 学校の生徒ではない。大人だ。


 黒いジャケットにカーゴパンツ、耳には通信用のイヤピースを装着している。

 シエラが家の金で雇った、本職のボディガードだ。


「ようこそミアちゃーん。お友達思いなのね」


 シエラの声が高架下に響いた。

 夕暮れの逆光で表情は読みにくかったが、その声の端々にはヒステリックな震えが隠しきれずに滲んでいた。


 怖いのだ。

 自分が殺されるかもしれない恐怖が、彼女の理性を限界まで削り取っている。


「一人?」

「……一人だよ」


 ミアの声も震えていた。

 でも、足は止まらなかった。ランタンの強烈な光の輪の中へ、一歩ずつ足を踏み入れていく。


「サラを離して。この子は何も関係ない……!」

「関係なくはないでしょう。あなたの、唯一の『お友達』なんだから」


 シエラがサラの髪を乱暴に掴み、顔を無理やり持ち上げた。

 意識のないサラの頭が、壊れた人形のようにぐらりと揺れた。


「ねえミア。正直に答えなさい。マコトとカイルに何をしたの。誰に頼んで、あんなことをさせたの」


 ミアは黙った。

 頭の奥で、カーバンクルが静かに待機しているのを感じていた。


 まだ表には出てこない。

 状況を冷徹に観察しているのだ。


「はやく答えろよ」


 シエラがナイフをサラの後頭部へと移動させた。

 美しいブロンドの髪を一掴みし、ナイフの刃を押し当てる。


 ざりっ、と繊維が裂ける嫌な音が響いた。

 切り落とされた髪の束が、コンクリートの地面にパラパラと散る。


「……!」

「こいつハゲにしたら次は耳かしらねぇ。カイルと同じにしてあげるわよ。あなたが全部吐くまでね」


 もう一束。ざりっ。サラの髪が、シエラの足元に落ちていく。


「やめて……!」

「答えなさい!」

「私がやった!!」


 絶叫だった。

 考えるより先に、喉が張り裂けんばかりの声が出ていた。


「マコトもカイルも、全部私がやったの! だからサラを離して……!!」


 シエラの手がピタリと止まった。

 ナイフがサラの髪から離れ、シエラの血走った目がミアを捉えた。


 その瞳の奥で、恐怖と勝利の予感が入り混じった狂気的な光が瞬く。


 シエラは左手でジャケットのポケットから端末を取り出した。

 画面には録音のインジケーターが赤く点滅している。最初から回していたのだ。


「もう一度言って。録音してるから」

「……私がやった」

「どうやって? あなたみたいな底辺のゴミにそんな力はないでしょう。誰に頼んだの? アンダーのゴロツキでも雇ったの?」


 シエラがナイフを再びサラの首筋に押し当てた。

 今度は刃が皮膚に食い込み、ツー……と一筋の血が流れ落ちる。


「名前を言いなさい。協力者の名前!」


 ミアは口を開いた。だが何を言えばいいのかわからなかった。


 カーバンクルの名前を出していいのか。

 出したらどうなるのか。恐怖と混乱で頭が真っ白になる。


「だから」


 ミアの口が動いた。

 だがそこから発せられた声は、今までとは完全に別のものだった。


「――『私』がやったんだよ」


 抑揚の一切ない、氷のように冷たい声。

 ミアの唇が動いているのに、それは絶対にミアのものではなかった。


「――!?」


 シエラの表情が凍りついた。

 ミアの瞳が、赤く発光していた。

 瞳孔の周囲に精密な幾何学模様が浮かび上がり、チカチカと高速で回転を始めている。


「お嬢様。下がって!」


 真っ先に反応したのはボディガードの一人だった。


 プロの嗅覚だ。目の前の少女の異変を察知した瞬間、腰のホルスターからスタンロッドを引き抜き、ミアとの距離を一気に詰めた。


 もう一人もそれに続く。二人がかりで瞬時に制圧する構えだ。

 訓練された無駄のない動き。相手がテラ層のひ弱な学生なら、一秒で終わるはずだった。


 しかし、相手は学生ではなかった。


 ブォンッ――!

 最初の一人がフルスイングで振り下ろしたスタンロッドは、虚しく空を切った。


「な!? 消え――」


 ミアの身体は、すでにその軌道の外にあった。

 半歩の移動。それだけでロッドの射程から完全に消えている。


 ボディガードが驚愕して振り向くより早く、ミアの掌底が男の顎を下から正確にカチ上げた。


 ゴキャッ。

 脳が激しく揺らされ、男の目が白く反転する。

 大男の膝が折れ、糸の切れた操り人形のようにコンクリートの地面に崩れ落ちた。


「貴様……!」


 二人目が背後から強引に組みつこうとした。

 ミアは振り向きざま、男の鳩尾に鋭い肘打ちを叩き込んだ。


 防刃ジャケットの上からでも内臓を直接破壊する、恐るべき浸透勁。


「がはッ……!」


 男が悶絶して前屈みになった瞬間、その側頭部に容赦のない膝蹴りが叩き込まれた。


 メキィッ!

 意識が飛ぶまで、最初の動きから二秒もかからなかった。


「ぐぉ……」

「あ、あ……!」


 二人の屈強なボディガードが、地面に転がり痙攣している。

 ランタンの冷たい光が、動かなくなった男たちの巨体を照らしていた。


 完全な静寂が、排水路の高架下に落ちた。


 シエラは動けなかった。

 目の前で起きたことが、脳の処理能力を超えていた。


 家の金で雇ったプロの護衛が、一番弱くて惨めだったはずの少女に二秒で沈められた。


 あり得ない。絶対にあり得るはずがない。

 だが、現実に二人の男は足元で倒れている。


 赤い瞳が、ゆっくりとシエラを捉えた。


「――ヒッ」


 シエラは反射的にサラの髪を強く掴み、ナイフを首筋に深く押し当てた。

 刃がサラの皮膚を切り裂き、鮮血がツーと胸元へ流れ落ちる。


「動くな……!!」


 シエラの声が、ヒステリックに裏返っていた。

 ナイフを持つ手がガタガタと小刻みに震え、顔面は恐怖で引き攣っている。


「動いたら、この子の首をかっ切るわよ……ッ!!」


 赤い瞳は、狂乱するシエラをただ静かに見つめていた。

 回転する幾何学模様の奥に、感情は一切ない。


「……やれば?」

「は――!?」


 あまりにも冷酷なその言葉に、シエラの呼吸が止まった。

無慈悲!

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