【断罪】断髪式
「やれば?」
カーバンクルは歩き始めた。
ゆっくりと。急ぐ素振りもなく。
ランタンの強烈な光の中を、シエラに向かって一歩ずつ進んでいく。
「動くな、動くなって言ってるでしょ……!」
シエラの声がヒステリックに裂けた。ナイフをサラの首筋に押し当てる手に、さらに力が入る。
ツー、と細い血の筋が二本目、三本目と増えていく。
「聞こえてるよ。でも、やらないでしょ」
「やるわよ……! 本気よ!!」
「嘘だね」
カーバンクルは立ち止まらない。
赤い瞳がシエラを真っ直ぐに捉えたまま、距離が縮まっていく。
八メートル。六メートル。四メートル。
(なん……なの、こいつ……!?)
シエラは混乱していた。
この都市のヒエラルキーの底辺で怯えていたはずの少女が、自分を全く恐れていない。
それどころか、血を流すサラを一瞥すらせず、機械のような歩みで迫ってくる。
(こいつは……ミアじゃない)
顔も、身体もミア・ハーロウだ。
だが、中に入っている「何か」は、あの惨めな少女とは決定的に異なっていた。
本能が警鐘を鳴らしている。
脅しなど絶対に通用しない、理外のバケモノだと。
「あなたは今まで、自分の手で誰かを傷つけたことがない」
三メートル。
「マコトに殴らせて、カイルに制裁させて、ジュリアンに犯させて……全部、人にやらせてきた。安全な場所から命令するのは得意でも、自分の手は汚さない。汚せない」
二メートル。
シエラの目が激しく揺れていた。
恐怖と混乱が、瞳の奥でぐちゃぐちゃに渦巻いている。
ナイフを持つ手がガタガタと震え、刃先がサラの首筋の上で不規則に跳ねていた。
「そのナイフ、さっきから切っ先が逃げてるよ。本当に刺す気があるなら、もっと深く当ててるはず。
……でもあなたは皮一枚しか切れてない。怖いんだよ、自分の手に生温かい血がつくのがね」
カーバンクルがシエラの正面に立った。
手を伸ばせば届く距離。
シエラのナイフが、いつでもサラの頸動脈を切り裂ける距離。
それでもカーバンクルは止まらなかった。
シエラの手が痙攣した。
ナイフを動かそうとした。首筋に深く押し込もうとした。
でも、指が言うことを聞かない。
頭が必死に命じても、手首が凍りついたように動かない。
刃と皮膚の間の、あの最後の一ミリを越える覚悟が、温室育ちの女王には決定的に欠けていた。
――その一瞬の躊躇を、カーバンクルは見逃さなかった。
ガシッ。
ミアの細い手が、シエラの手首を万力のように掴んだ。
「痛っ……!」
ナイフを握る五本の指を、一本ずつ、テコの原理で無造作に外側へ折り返していく。
シエラが短い悲鳴を上げ、耐えきれずに指が開いた。
滑り落ちたナイフを、カーバンクルの空いた手が空中で鮮やかに掴み取る。
「使う覚悟もないのに、おもちゃを持ち出しちゃだめだよ」
カーバンクルは刃を折りたたみ、自分のポケットにしまった。
「あなたの暴力は全部借り物。自分じゃ何もできない」
「うぅ、ううっ! ふぅぅッ……!」
シエラがパニックを起こし、腕を振り払おうともがいた。
カーバンクルはそれを許さない。シエラの右腕を掴んだまま、手首を内側に捻り、肘を固定して肩関節に圧力をかけた。
一連の動きは水が流れるように自然で、抵抗の余地すら与えなかった。
「やめ……痛い、離して……ッ!」
「離すよ」
ボクン。
関節が外れる、鈍く湿った音が響いた。
「ッ――――!! あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
シエラが膝から崩れ落ちた。右肩が不自然な角度にだらりとぶら下がっている。
絶叫が高架の下に反響し、太い排水管の中をくぐり抜けて闇へ消えていった。
カーバンクルはシエラを見下ろした。
汚れた地面にうずくまり、外れた肩を抱えてボロボロと涙を流す少女を、赤い瞳が無感情に観察している。
そして、ふっと赤い光が消えた。
「……あっ……?」
瞳の奥から幾何学模様が引いていく。カーバンクルの冷たい気配が急速に後退し、ミアの意識が前面に押し戻されてきた。
突然の切り替えだった。視界がぐらりと激しく揺れ、ミアは一瞬よろめく。
自分の身体が自分の制御下に戻る感覚は、まるで冷水から引き上げられたように息苦しい。
『ミア』
カーバンクルの声が頭の奥から響いた。
今度は口から出る声ではなく、脳の深い部分で直接鳴る内側の声。
『ここから先は、あなたがやって』
ミアは荒い呼吸を整えようとした。
心臓が耳のすぐ横で早鐘のように鳴っている。手のひらがじっとりと汗で濡れていた。
「……え?」
『これはあなたの復讐だよ。あなたがやらなきゃ意味がない』
「で、でも私……こんなこと、したことない……人を傷つけるなんて……」
『知ってる。だからやるんだよ』
ミアの呼吸が詰まる。シエラは一人で喋りはじめたミアを、気味悪そうに見上げていた。
『私が全部やったら、それは私の暴力。あなたがやれば、あなたの確かな意思になる』
ミアは足元を見た。
シエラが地面にうずくまっている。
右肩を左手で押さえ、美しい顔を涙と鼻水と泥でぐしゃぐしゃに汚しながら、恐怖に満ちた目でミアを見上げていた。
その顔。その怯えきった表情。
それは、ミアが毎日のように浮かべ続けてきたものと同じだった。
『ポケットにナイフがある。あなたが決めて』
ミアの右手が、ジャケットのポケットに触れた。
カーバンクルがしまったナイフ。指先に、冷たい金属の重みが伝わる。
サラの顔を見た。
腫れ上がった左目。裂けた唇。コンクリートの床に横たわる、動かない身体。
あの子は何もしていない。
ただ、孤独だったミアの隣に座ってくれただけだ。
(……そうだ。許さない。許しちゃいけない)
ミアはナイフを取り出した。
折りたたまれた刃を開く両手が、カチカチと惨めに震えていた。
刃渡り十センチのナイフ。
ついさっきまで、シエラがサラの髪を切るために使っていたもの。
シエラが後退ろうとした。
だが外れた右腕が地面を擦り、顔が激痛に歪む。
「あがっ! や……やめて、ミア……お願い……」
その声を聞いて、ミアの胸の奥で何かが決定的に動いた。
『お願い。やめて!』
その言葉。あの言葉。
ミアが何度も何度も繰り返した言葉を、今、シエラが言っている。
でも、立場が完全に逆転していた。
「……はは」
ミアはシエラの髪をガシッと掴んだ。
ブロンドの長い髪。いつも完璧に手入れされ、仄かにシャンプーの香りがするシエラの象徴。
教室で揺れるたびに周囲の視線を集めていた、あの美しい髪。
それに、ナイフの刃を当てた。
手が震えている。切れない。力が入らない。
『震えててもいい。最初はそういうものだから』
カーバンクルの声はどこまでも静かだった。
急かしも、煽りもしない。ただ、そこに寄り添うように存在している。
ミアは深く息を吸った。
吐いた。
もう一度、吸った。
――切った。
ざりっ、という嫌な音が手首を通じて骨まで響いた。
美しいブロンドの束がミアの手から滑り落ち、泥だらけのコンクリートに散った。
「あ゛っ……!? やめ……やめてよ……!」
シエラが叫んだ。頭を激しく振って逃れようとする。
でも外れた右腕では身体を支えられず、這いずるように暴れることしかできない。
ミアはもう一束掴んだ。
今度は、手が震えなかった。
切った。ざりっ。また一束が落ちた。
また掴んだ。切った。掴んだ。切った。
「ふざけんな! ふざけっ……やめろぉ! ぶっ殺す、殺してやるわよ!?」
シエラの悲鳴がひどく遠くに聞こえた。
耳に入っているのに、意味が頭に結像しない。
ミアの意識は、自分の右手だけに極度に集中していた。
ナイフの刃が髪を断つ感触。根元から切り取るときの、繊維がほつれる微かな抵抗。
それを力任せに越えて刃が振り抜かれる瞬間の、あの圧倒的な解放感。
(……解放、感?)
ミアは自分の中に生まれたどす黒い感情を、すぐには名前で呼べなかった。
怒りだと思っていた。サラを傷つけた相手への報復。正義の執行。
そういう大義名分のために手を動かしていると思っていた。
でも違った。
少なくとも、それだけじゃなかった。
「……ははっ」
シエラの髪が短くなっていく。不揃いに、醜く、めちゃくちゃに。
ナイフの軌跡がどんどん荒くなる。
最初の一束は、たしかに恐る恐る切った。
だが五束目はもう迷いがなかった。
十束目を切り落とす頃には、ミアの口元が不自然に引きつっていた。
笑っているのか。泣いているのか。自分でもわからなかった。
「ううぅぅぅ……! ぐううぅぅ……っ」
シエラが子供のように泣きじゃくっている。
ミアを見上げる目には、もう女王の影は微塵もなかった。
ただの十五歳の惨めな少女が、地面に這いつくばって、髪を乱切りにされて泣き喚いている。
その光景がミアの胸の奥を熱く、激しく焼いた。
(……気持ちいい)
認めたくなかった。でも、否定できなかった。
相手が苦しんでいる。泣いている。自分に命乞いをしている。
そして、許してやらない自分がいる。その絶対的な優位の構図が、ミアの中の空っぽだった何かを急速に満たしていた。
乾ききった砂漠に、熱い劇薬が流れ込んでくるような感覚。
これが暴力の味。支配する側の蜜の味なのだと、ミアは初めて知った。
最後の一束を切り落としたとき、シエラの頭はほとんど丸坊主に近い、見るも無惨な状態になっていた。
不揃いに残った短い髪が、まるで病人のように頭皮に張りついている。
ミアはゆっくりとナイフを下ろした。
途端に、手が激しく震え始めた。
遅れてきた震えだった。切っている間はピタリと止まっていた手が、行為が終わった途端に制御を失っている。
呼吸が浅くなった。
自分が今、何をしたのか。その事実がじわじわと脳に追いついてきた。
「は、はぁっ、く……!」
「あっ、ああぁ……! わ、私の、髪……!」
シエラは地面に蹲ったまま、嗚咽を漏らし続けている。
切り落とされた自分の髪を残った左手で必死に掻き集めようとしていた。
だが、指の隙間からサラサラとこぼれ落ちて元には戻らない。
その姿を見て、ミアの胸を支配していた熱が急速に冷めていった。
代わりにドッと込み上げてきたのは、強烈な吐き気だった。
(気持ちよかった。あの瞬間、確かに気持ちよかった……)
その事実が、何よりも恐ろしかった。
自分もまた、あいつらと同じ穴の狢なのかもしれないという恐怖。
『……ミア』
カーバンクルの声が、頭の奥で静かに響いた。
『その感覚を、覚えておいて。絶対に忘れないで』
「……っ」
ミアは答えられなかった。
ナイフを持つ右手を左手で強く押さえたが、震えは止まらない。
さっきまで確かにあった全能の高揚感が、急速に冷たい罪悪感と自己嫌悪に変わっていく。
ランタンの無機質な光の中で、ミアは一人立ち尽くしていた。
足元には散乱するブロンドの髪。その向こうに泣き崩れたシエラ。
さらに奥に意識のないサラ。泥に塗れて倒れるボディガード二人。
この地獄のような光景を作ったのは、カーバンクルだけではない。
髪を切り刻んだのはミア自身の意思と手だった。
『……さて。あとは休んでいいよ。続きの制裁は、私がやる――』
その言葉を最後に、ミアの意識は再び闇へと沈んでいった。
仕上げはカーバンクルさ〜ん




