【依頼人】囮
シエラの顔から、いつもの余裕が抜け落ちていた。
空き教室の窓際を行ったり来たりしながら、苛立たしげに爪を噛んでいる。
美しいネイルの塗装が剥がれていることにすら気づいていない。
この女は、いつも完璧だった。
髪の毛一本、唇の角度ひとつまで徹底して管理し、他者を足元から睥睨するのが「シエラ・レミントン」だったはずだ。
その制御が、今は完全に外れかけている。
「カイルは違うって言ったわ。ミアは無関係だって。でもね、あんな肉塊にされた奴の推理なんて信用できない」
シエラがピタリと立ち止まり、冷たい目でサラを見下ろした。
「マコトが殺された。カイルは両耳を切り落とされた。二人とも、あの女を念入りに痛めつけた直後にやられてる。これが偶然? そんなわけないでしょう」
サラは教室の中央で、椅子に座らされたまま身体を固く縮めていた。
両側には二軍の男子生徒たちが立ち、退路を塞いでいる。
「シ、シエラ……私、何もしてな……」
「あなたに『頼み』があるのよ」
シエラが教壇に手をつき、身を乗り出した。
「ミアと仲直りしたんでしょう? さっき階段で泣いてたわよね、二人で。ひっそりと。すごく感動的だったわ」
サラの血の気が引いた。見られていた。
「――だから、あなたがミアを呼び出して。唯一のお友達から呼ばれれば、あの子もホイホイついてくるでしょう?」
サラは小さく震える唇を噛んだ。
シエラの目は本気だった。いつもの嗜虐的なゲームを楽しむ目ではない。
次は自分が殺されるかもしれない。カイルのように全身を刻まれるかもしれない。
その見えない恐怖が、シエラの理性を焼き切っていた。
「殺される前にやるしかないの。私達のグループを殺しまわってるバケモノを特定して、先に始末するしかないの。あなたもわかるでしょう?」
サラは、膝の上で両拳をぎゅっと握りしめた。
怖い。
シエラが怖い。
この部屋から生きて出られないかもしれないという恐怖が、全身の血液を凍りつかせている。
(――でも)
さっき、階段の踊り場で、ミアは不器用な手で自分の袖を掴んでくれた。
(怒ってないよ、サラ)
あの掠れた声。あの涙。ぎこちない、温かい抱擁。
あの子は、サラを許してくれたのだ。
どんなひどい目にあっても見ないふりをして、メッセージを無視して、席を離れて、目を逸らし続けていた自分を。
それなのに、ここでまた保身のために裏切るのか。
今度は自分の手で、ミアを死の罠に差し出すのかん
「……できない」
声が震えた。
サラは自分の声が信じられなかった。
こんなスクールカーストの頂点に立つ人間に逆らったことなど、これまでの人生で一度もなかった。
「できない。ミアは……大切な友達だから。呼び出せない」
シエラの目が、一瞬だけ見開かれた。
驚きだった。サラ・ヘイズという空気のような生徒が、自分に「No」を突きつけるという事実が。
「……もう一回、言って?」
「ミアを呼び出すのは、できない。やらない……っ」
サラの膝はガクガクと震え、声は裏返っていた。勇気ある啖呵には程遠い。
それでも、言葉は撤回しなかった。
「――……」
シエラの表情から、すべての感情がスッと消え去った。
怒りですらない。口角が下がり、目の奥に昏い光が宿る。
駆除対象の「害虫」を見定めたときの顔。
「そう」
シエラは男子生徒の一人に顎で合図した。
「この子、少し『教育』してあげて。ミアの居場所を吐くまでね」
「え……」
男子生徒が戸惑った顔を見せた。
マコトやカイルの末路が頭をよぎったのだろう。
いじめの主犯格が立て続けに潰されている中で、下手に手を出して自分が標的になることを恐れていた。
「でも、ちょっとやりすぎじゃ……俺たちまで目ぇつけられたら……」
「やりすぎ?」
シエラが振り返った。
その氷のような視線を受けた瞬間、男子生徒の口が引きつったように閉じた。
「マコトは殺されたのよ。カイルは肉塊にされたの。次は私や『あなたたち』かもしれないのよ。それでも、やりすぎって言うの?」
静かな、だが絶対的な脅迫だった。
男子生徒はごくりと唾を飲み込んだ。
シエラの命令に逆らえば、今度は自分が破滅させられる。
彼らはシエラから逃げるように目を逸らし、そして、座り込むサラを見下ろした。
「……へへ。やってやるか」
そして次の瞬間、男子生徒の拳が、サラの鳩尾に容赦なく叩き込まれた。
「かはッ……!」
椅子ごと後ろに倒れ込んだ。後頭部がコンクリートの床に激突し、視界が白く明滅する。
息ができない。
横隔膜が痙攣し、空気を求めて口が金魚のようにぱくぱくと開閉した。
「あ……が、は……やめ……」
「立たせろ」
シエラの冷酷な声が降ってきた。
男子生徒の一人が、ノリノリでサラの髪をわし掴みにし、乱暴に引き起こす。
頭皮が裂けるような激痛に、サラは甲高い悲鳴を上げた。
「ほら、立てよ!」
無理やり立たされた状態のサラの脇腹に、もう一人の男子が笑いながら蹴りを叩き込んだ。
肋骨が軋む、鈍い音が響く。
「がっ……! あ、ぅ……!」
「ミアをどこに呼べば来る? 答えなさい」
シエラは教壇の椅子に座り直し、優雅に脚を組んだ。
自分では手を出さない。それが女王のやり方だった。
「知ら……ない……呼べな……」
「ふーん。もっとやってあげて」
返事がない代わりに、男子生徒の平手がサラの頬を強く張った。
首が不自然に横に跳ね、口の中で粘膜が切れる。鉄の味が口内に広がった。
「お願……やめて……!」
「答えれば終わるわよ」
「で、できないっ……!」
サラは血の混じった唾を吐き出しながら叫んだ。
涙と血で顔はぐしゃぐしゃだった。でも、首は必死に横に振り続けていた。
その頑なな態度が、男子生徒たちの加虐心に火をつけた。
「おいおい、調子乗ってんじゃねえぞ!」
一人が舌打ちし、サラの腹を思い切り蹴り上げた。
くの字に折れ曲がって床に崩れ落ちた彼女の背中を、もう一人が安全靴で踏みつける。
頬が汚れた床に押しつけられ、腕を背中側にねじ上げられた。
肩の関節が限界まで軋み、サラの口から引きつった悲鳴が漏れた。
「ひっ……あ゛、あ゛あ゛っ……!」
「痛い? やめてほしかったら、ミアを呼んで。簡単でしょう? メッセージを一通送るだけ」
シエラが自分の端末を取り出し、床に這いつくばるサラの顔の前に放り投げた。
画面にはメッセージの入力画面が表示され、宛先にはすでに『ミア・ハーロウ』と入力されている。
「ほら。さもないとあんたも殺すわよ」
サラは、涙と血で滲んだ視界で端末を見つめた。
親指を伸ばせば届く距離。
打てば、この痛みから解放される。
(でも……)
再び、さっきの踊り場を思い出す。
ミアの手が自分の袖を掴んだときの、あの控えめな温かさ。
(あの子を、もう二度と裏切りたくない)
サラはゆっくりと目を閉じた。
そして、端末から手を引っ込めた。
「……いや」
「は?」
「いやだ……打たない……ッ!」
シエラの顔から、最後のメッキが剥がれ落ちた。
「好きになさい」
シエラが冷たく言い放つと同時、男子生徒たちの暴行がエスカレートした。
腹部への蹴り、顔面への殴打、髪を掴んで床に叩きつける音。
空き教室に、サラの声にならない絶叫が反響し続けた。
■
――放課後のチャイムが鳴った。
ミアは鞄を肩にかけ、足早に教室を出た。
相変わらず誰も話しかけてこないし、目を合わせようともしない。孤独には慣れっこだ。
(でも……今日は違う)
昼休みの踊り場。サラの涙。ぎこちない抱擁。
「また明日、ここで食べよう」。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥に小さな灯りがともったように温かかった。
ただ、一つだけ気がかりがあった。
五時間目と六時間目、サラの姿が教室になかったのだ。
(昼休みにあれだけ泣いたから、頭痛くなっちゃったのかな……)
後でメッセージを送ってみよう。そう思いながら、ミアは校門を出た。
リバーサイドの集合住宅に向かう帰り道。
人工河川の水面が、アルミナの残光を反射してどんよりとした灰色に光っている。
ふと、ポケットの中の端末が震えた。
『サラ・ヘイズ 画像付きメッセージ』
ミアは歩きながら画面を開いた。
そして、ぴたりと足が止まった。
「――え」
画面に映っていたのは、サラだった。
顔が原型をとどめないほど赤黒く腫れ上がっている。
左目は完全に塞がり、裂けた唇からは血が顎まで伝って固まっていた。
鼻梁が不自然な角度に曲がり、制服は無惨に破れ、腕には青黒い靴の跡が幾重にも刻まれている。
写真ではなく、動画だった。
数秒間の短い映像。コンクリートの床に転がされたサラは、微かに胸を上下させて呼吸はしているものの、目は閉じたままピクリとも動かなかった。
映像が終わり、無機質なテキストが表示される。
『ツイライト・フリンジ、第三排水路の高架下。今日の19時。一人で来て。バックレたらこの子の次はお母さん』
送信元はサラの端末だ。だが、こんな文面をサラが打つはずがない。
ミアの手が、ガタガタと震え出した。
端末を握りしめる指先に異常な力が入り、画面の縁が掌に食い込む。
ツイライト・フリンジ。テラとアンダーを隔てる境界線。
夜になれば違法な「狩人」たちが徘徊する無法地帯。そこに一人で来いというのだ。
怖い。
足がすくむ。
――だが震える身体の奥底で、全く別の感情がどす黒く燃え上がっていくのをミアは感じていた。
熱い。
腹の底から、喉の奥を焼き焦がすようなドロドロとした何かが込み上げてくる。
(……サラは、何もしてない)
ただ、私の隣に座ってくれただけだ。ごめんと言ってくれただけだ。
明日また一緒に食べようと、そう言って笑ってくれただけだ。
私にたった一つだけ残されていた、大切な温かい時間。
それを、あいつらはまた理不尽に踏みにじった。
(なんで……? なんで、こんなことができるの?)
ミアはもう一度、動画を再生した。
血まみれで倒れるサラ。
昼休みに泣きながら笑ってくれたあの顔が、数時間後にはゴミのように扱われている。
(絶対に許さない……)
怒りという言葉では生ぬるい。
ミアの中で、人間としての何かの線が静かに、そして決定的に切断される音がした。
ミアは端末を耳に当てた。
番号は押していない。押す必要がない。意識の深く、暗い海の底に向かって呼びかけた。
「カーバンクル」
一拍の間があった。
頭の奥で、低い電子音のような微細な振動が走る。回線が繋がる感覚。
『聞いてる』
短い声が、鼓膜の内側から直接響いた。
「サラがやられた。シエラだと思う」
『見てたよ。あなたの目を通して』
ミアは強く唇を噛みしめた。
血が滲み、涙が頬を伝って落ちた。
だが、今度は泣いている自分を弱くて惨めだとは思わなかった。
「一緒に……来て」
カーバンクルは答えなかった。
数秒の重い沈黙が流れる。人工河川の冷たい水音と、遠くを飛ぶパトロール機の低い唸りだけが夕暮れの空気を満たしていた。
沈黙が、もう一拍だけ続いた。
やがて、カーバンクルの声が短く返ってきた。
『……わかった』
通話が切れる。
ミアは端末を鞄にしまい、ツイライト・フリンジの方角を見据えた。
テラの規則正しい街並みの向こうに、アンダーとの混沌とした境界線が横たわっている。
人工太陽の光が届かなくなる境目。夕暮れの影が、じわじわとミアの足元へ伸びてきていた。
指定された19時まで、あと二時間。
カーバンクル ぼ…
防御たのむ…




