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【依頼人】かつての友達

 カイル・ドレイクが発見されたのは翌朝、始業の三十分前だった。


 掃除当番の一年生が、廃部室棟から漂う異臭——排泄物と、血と、肉が焦げたような匂いに気づいて倉庫を覗き込んだ。


 重い鉄扉を開けた瞬間、少年は悲鳴を上げて腰を抜かし、五分後には教師が三人駆けつける騒ぎとなった。


 パイプ椅子に縛り付けられたカイルには意識があった。

 目は開いていた。だが、声は出なかった。

 何かを喋ろうと口をパクパクと動かしても、「ヒュー、ヒュー」と掠れた空気が漏れるだけでまともな音にならなかった。


 駆けつけた教師たちはまず、少年の身体を覆い尽くす赤黒い火傷の群れに目を奪われた。

 首から下、制服を切り裂かれた全身のあらゆる場所に『分相応』『無能』『臆病者』『害虫』『裏切り者』といった無数の単語が、腫れ上がった皮膚の上にびっしりと刻み込まれていた。


 次に、彼らはあるべきものがないことに気づいた。

 両耳だ。


 左右の側頭部には、赤黒く変色した血の塊がべったりと張り付いている。

 血だまりの中に落ちていた二つの肉片を見た瞬間、屈強な体育教師でさえ顔面を蒼白にして嘔吐した。


 救急搬送されたカイルは、テラ第七区の総合病院で緊急処置を受けた。


 両耳の切断面は鋭利な刃物によるもので、発見が遅れたため再接合は不可能だった。

 さらに全身に刻まれた文字は、通常の治療では消えないという診断が下された。


 病室のベッドでも、カイルは一言も喋らなかった。

 警察のクローン捜査官から「誰にやられたか」と問われても、ただ虚ろな目で白い天井を見つめるだけだった。


 口を閉ざしたのではない。

 あの正体不明の「赤い瞳」について喋れば、今度こそ殺される。

 そう魂の底まで刻み込まれた恐怖が、かつての支配者から言葉を奪っていたのだ。



 三日後。ハーモニー・ブロック中等教育校。


「……おはよう……」


 ミアが教室に入ると、空気がはっきりと変わった。


 それは以前とは正反対の変化だった。

 かつてのミアが登校すれば、嘲笑や陰口が湧いた。

 机を蹴る音、わざとらしい咳払い、「臭い」「消えろ」という囁きが日常のBGMだった。


 だが今は、完全な沈黙だった。


 クラスメイトたちはミアの姿を認めると、弾かれたように目を逸らした。

 話し声が不自然に途切れ、何人かはそそくさと席を立って教室を出ていく。


 避けられているのだ。

 ミアという少女を、ではない。

 ミアの背後にいるかもしれない「得体の知れないバケモノ」を避けているのだ。


 マコトが死んだ。とてつもなく、壮絶な姿で。

 カイルが全身に文字を彫られ、両耳を切り落とされた。


 二人とも、ミアを徹底的にいじめていた側の人間だった。

 その主犯格たちが凄惨な末路を辿る中、標的だったはずのミアだけが傷ひとつなく学校に通い続けている。


 その事実が、教室に無言の結界を敷いていた。


 ミアは自分の席に座った。

 誰も話しかけてこない。隣の席の生徒は、いつの間にか荷物をまとめて別の空き席に逃げるように移動していた。


 担任のワイルドは相変わらず何も見ていない。

 以前はいじめを見ないふりをしていたが、今度は生徒たちが抱く恐怖を見ないふりをして教壇に立っている。事なかれ主義の方向が変わっただけだ。


(……もうメチャクチャ……)


 ミアは鞄から端末を取り出し、机の上に置いた。


 ふと、自分の左腕を見る。

 カイルに刻まれた「無能」の文字は、カーバンクルの言った通りすでに薄れ始めていた。あと数日もすれば完全に消えるだろう。


 だがカイルの全身に彫られた文字は、一生消えないという。同じ道具を使ったはずなのに。


(……あの人は、一体何者なんだろう)


 午前中の授業はいつも通りに過ぎた。

 いつも通りというのは、ミアが一人で座って、一人でノートを取り、一人で教科書を閉じるということだ。


 以前と違うのは、ゴミを投げつけられないこと。

 それだけで、ミアにとっては十分すぎる変化だった。


 それでも、孤独の質は変わっていなかった。


 ――昼休み。


 ミアはいつものように、監視カメラの死角になる階段の踊り場で、一人で弁当を広げていた。

 弁当といっても、エデン・バー二本と水筒だけだ。母は昨夜も夜勤で、朝は顔を合わせていない。


 踊り場の窓から、テラの無機質な街並みが見えた。


 灰色の集合住宅の壁面に『ハーモニー』のスローガンがホログラムで投影されている。

 調和。秩序。思いやり。

 その美辞麗句の下で、人々は毎日誰かを踏みつけにして生きている。


「……ミア?」

「っ……」


 ふいに声がした。

 ミアは反射的に身を強張らせ、肩を縮めた。


 おそるおそる振り返ると、階段の上に一人の女子生徒が立っていた。


 サラ・ヘイズ。

 かつての、ミアの友人だった。


 転入してすぐの頃、初めてまともに話してくれたクラスメイト。

 昼休みに一緒に購買部に行き、放課後に他愛のないメッセージを送り合った。


 ミアの父が解雇されてスコアが落ちるまでは、ほぼ毎日、隣の席で笑い合っていた相手だった。


 だがスコアが落ちた日を境に、サラは話しかけてこなくなった。


 いじめが始まってからは、目を合わせることすらなくなった。

 廊下ですれ違うとき、サラはいつも反対側の壁を向いて歩き去った。


「あの……隣、座っていい?」


 サラの声は小さく、震えていた。

 ミアは何も答えられなかった。頷くことも、首を横に振ることもできず、エデン・バーを握りしめたまま固まっていた。


 サラはそれを拒絶とは受け取らなかったらしい。

 ゆっくりと階段を下りてきて、ミアの隣に腰を下ろした。


 二人の間には、拳ひとつ分のよそよそしい隙間があった。


 しばらく、沈黙が続いた。


 窓の外でクローン警官のパトロール機が低く通過し、影が踊り場を横切っていく。


「ミア、あの……ごめんっ」


 サラが俯いたまま言った。

 声が微かに震えている。


「私、ずっと見てたの。ジュリアンやカイルたちがあなたに何してたか、全部見てた。でも何もしなかった。何も言えなかった。怖くて……!」


 ミアはサラの横顔を見た。

 泣いていた。唇を噛みしめて、大粒の涙が顎まで伝い落ちている。


 今のミアに関われば、今度は自分が「得体の知れないバケモノ」の標的になるかもしれない。

 そんな恐怖を抱えながら、それでもサラはここに来たのだろう。


「カイルたちに目をつけられたら、自分もああなるって思って……だから、見ないふりして……本当に、ごめんなさい」


 ミアの胸の奥で、何かが軋んだ。


 怒りだと思った。でも違った。

 もっと古い、もっと深い場所にある感情だった。


 サラが離れていった日のことを思い出す。

 あの日、ミアは端末にメッセージを打った。


 『明日も一緒にお昼食べよう』。

 既読がついて、返事は来なかった。翌日から、サラの席は反対側の列に移動していた。


 あのときの絶望と悲しみが、胸を締め付ける。


「……サラ……」

「……怒ってるよね。当然だよね。私なんかに急に話しかけられても、迷惑だよね」


 サラが諦めたように立ち上がりかけた。


 その時。

 ミアの手が、サラの袖を強く掴んでいた。


 自分でも驚いた。

 意識より先に、手が動いていた。


「……怒って、ない」


 声が小さく掠れた。嘘じゃなかった。

 怒りや恨みは確かにあった。でもそれよりも、今この瞬間、誰かがミアの隣に自分の意志で座り、心から謝ってくれたという事実の方が、ずっとずっと大きかった。


「怒ってないよ、サラ……」

「ミア……?」


 サラの目が丸くなった。

 ミアは、自分の頬が濡れていることに気づいた。いつの間にか、彼女も泣いていた。


「ど……どうしたの? なんで、涙……」

「ただ……嬉しいだけ。また、話しかけてくれて……」

「……ミア……っ!」


 サラが泣き崩れた。

 ミアの肩に額を押しつけて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「わぁ、あっ……あああ……! ごめん、ごめんねぇ、ミアぁ……!」


 ミアもエデン・バーを膝に置き、サラの背中にそっと手を回した。


 うまく抱きしめられなかった。

 こういう温かいことを、あまりにも長い間していなかったから。

 腕の角度がわからなくて、ぎこちなく、不格好だった。


 だがサラは、ミアの細い身体から離れようとはしなかった。


 窓の外では、人工太陽が正午の白い光を容赦なく投げかけている。

 アルミナの建造物群が光を反射し、テラの街並みに無数の冷たい影を落としていた。


 十五歳の少女二人が、コンクリートの踊り場で抱き合って泣いている。


 それだけの光景だった。

 大人は誰も見ていない。EDENの監視カメラもこの場所はカバーしていない。


 しかしミアにとっては、本当に久しぶりの……本物の温かい時間だった。



 昼休みが終わる五分前に、サラはミアと別れた。


「また明日、ここで食べようね……!」


 サラはそう言って、目元を制服の袖で乱暴に拭い少しだけ笑った。

 ミアもぎこちなく笑い返した。久しぶりに、顔の筋肉が「笑顔」の形を思い出した気がした。


(……よかった。謝れてよかった。ミア、元気そうで……)


 サラは階段を上がり、三階の廊下を歩いていた。


 教室まであと二十メートル。五時間目は数学だ。ノートを出しておかないと。


 そんな、ありふれた日常のことを考えていた。

 ミアと再び友達になれたことで、心にかかっていた重い靄が晴れたような、不思議な安堵感に包まれていた。


 横の空き教室の前を通りかかった――その時だった。


 不自然にドアが開き、中から伸びてきた手がサラの腕を乱暴に掴んだ。


「な……ッ!?」


 悲鳴を上げる暇すらなかった。強い力で室内に引きずり込まれる。

 バタン! と重い音がしてドアが閉まり、内側から施錠される高い音が響いた。


「……っ!?」


 薄暗い室内。埃っぽい空気。

 サラの腕を掴んでいたのは、二軍の男子生徒だった。


 ジュリアンやカイルの周囲にいつも金魚のフンのようにくっついていた取り巻きの一人だ。

 もう一人、別の男子がドアの前に立ち、腕を組んで退路を塞いでいる。


 彼らの顔は、どこか怯えているように引きつっていた。


 教室の奥。

 教壇の上に、シエラ・レミントンが腰かけていた。


「はぁ……」


 長い脚を組み、窓からの逆光を背に受けている。

 いつもなら完璧にセットされているはずのブロンドの髪を、彼女は苛立たしげに指に巻きつけては、何度も強く引っ張っていた。


 カリッ、カリッ、と美しく手入れされたネイルを噛む音が、静かな空き教室に不気味に響く。


 シエラが顔を上げた。

 サラは息を呑んだ。


 シエラの瞳には、普段の「女王」としての余裕は微塵もなかった。

 目の下には薄暗い隈が浮かび、血走った眼球がギラギラと異様な光を放っていた。


(マコトが舌を引き抜かれて殺された。カイルは両耳を削ぎ落とされ、全身に文字を彫られて発狂した)


(……次は、私かもしれない)


 その見えない恐怖と焦燥が、シエラを追い詰めているのだと、サラは本能で理解した。


「……サラちゃん。最近、お友達を選び直したみたいねぇ?」


 シエラが教壇から降りた。

 カツン、カツンとヒールが床を叩く音が反響する。


「マコトが死んで、カイルがあんな肉塊にされた。あのゴミみたいな女の周りで、あり得ないことが起きてる」


 シエラはサラの目の前まで歩み寄ると、その細い首を無造作に、だが確かな力で鷲掴みにした。


「ひっ……!」

「教えてちょうだい。あの女の裏に、一体誰がいるの?」


 シエラの顔が鼻先まで近づく。その声は氷のように冷たく、狂気を孕んでいた。


「誰がマコトを殺したの? 誰がカイルをやったの? あなた、さっきあの女と何を話してたの? 全部吐きなさい」

「か……は……っ!?」


 首を絞められ、サラは息ができずにあえいだ。


 知るはずがない。

 ミアの背後にいる存在なんて、何も。


 だが、今のシエラに「知らない」という言葉は通用しない。

 犯人を見つけ出さなければ自分が殺されるかもしれないという恐怖が、シエラからすべての理性を奪っていた。


「答えなさい、サラ。一秒でも黙ったら……ここであなたの指を一本ずつへし折るわよ」


 サラの心臓を、恐怖と絶望が鷲掴んでいた。

もう学級閉鎖しろよ

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