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【依頼人】カーバンクルの目的

 テラ第十一区。

 リバーサイド集合住宅、ハーロウ家。


「うっ……ぐえっ」


 ミアは洗面台に両手をつき、もう何も出るもののない胃から液を吐き続けていた。


 蛇口から流れ続ける水が排水口に渦を巻き、嘔吐物を押し流していく。

 鏡には涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにした少女が映っていた。自分の顔とは思えなかった。


 昨日、自分の身体は確かにここにあった。

 それなのに、自分のものではなかった。


 マコト・アスターに拘束されて――そこから先の記憶は霧がかかったように曖昧だ。


 でも、完全に消えてはいなかった。

 指先に残る感触。

 喉仏が潰れるときの、軟骨が崩れる独特の手応え。

 舌を引き抜くときの、根元から繊維が裂ける感覚。


 全部、自分の手が覚えていた。


「うっ……ぐ、う……おぇっ」


 また込み上げてきた。胃液の苦みが喉を焼く。


 誰か助けてほしかった。

 でも母は夜勤、父は鎮静剤で意識を落としている。

 この家にミアの嘔吐の音を聞く者はいない。


 いつものことだった。

 この家でミアの何かを聞いてくれる人間は、ずっと前からいなかった。


「は、ぁ……うぁ……」


 洗面所の床にずるずると崩れ落ちたとき、ベッドに置いた端末が震えた。


 着信表示。発信者欄は空白。ただ三桁の数字だけが点滅していた。


 404。


 ミアは震える手で端末を手繰り寄せ、通話ボタンを押した。


「もし、もし……」

『気分はどう?』


 短く、抑揚のない少女の声が耳元で響いた。

 昨日からずっと頭の奥にいるあの声だ。


「……最悪。ずっと吐いてる」

『ふーん。……身体に染み付いた記憶は私のせいじゃないよ。あなたの脳が勝手に反芻してるだけ』

「冷たい言い方だなあ……」

『事実を言ってるだけ』


 ミアは膝を抱えて壁にもたれた。涙はもう出なかった。


「ねえ、カーバンクル。あなた、本当に……一体何者なの。電脳体って言ってたけど」

『電脳体は……成り行きでね。元は普通の人間だったんだよ。見てみる?』

「……見れるの?」


 ブー、と再び端末が震える。画像が送られてきていた。

 そこに写っているのは、水色のショートヘアに赤い瞳を持つ少女だった。白いパーカーを着ている。


『どう? なかなかの美少女だよね』

「……自分で言うんだ。まぁ、たしかに可愛いね……」

『でね。これを取り戻したいんだ』


 ミアは端末を握り直した。


 この少女の声には感情の起伏がほとんどない。

 でも「取り戻したい」という言葉だけは、わずかに重みを持っていた気がした。


「……身体を、取り戻す?」

『私の意識をもう一度、肉体に定着させる。それが今の目標』

「そんなこと、できるの?」

『クローン技術と意識転送技術の両方が必要だね。ネオ・アルカディアじゃ無理だった。でもこの都市なら、ある』


 ニュー・エデン。クローン産業の総本山。


 ミアは学校の歴史の授業でも嫌になるほど聞かされてきた。

 市民の半分はクローネクス社の世話になって生まれ、死んでいくのだと。


「……でも、クローン技術って言うけど、普通の市民が触れるようなものじゃないよ。クローネクス社の中枢に入らないと……」


 そこまで言って、ミアの声が途切れた。

 頭の中で、何かが繋がった。


『……どうしたの?』

「ジュリアン。ジュリアン・ヴォスのお父さんが……」

『続けて』

「クローネクス社の下請けの、人事管理の幹部。お父さんを解雇させた人。

 ……いつもジュリアンが自慢してた。『うちはクローネクスに繋がってる』って。会社の上層部とも顔が利くって」


 通話の向こうで、わずかな間があった。

 息を吸うような音。電脳体に呼吸はないはずなのに、それでもそう聞こえた。


『人事管理か……。技術者じゃないね』

「うん。でも内部の人と繋がってるはず。社員データとか、どの部署に何があるかとか……人事ならアクセスできる情報があると思う」

『……悪くない』


 カーバンクルの声に、初めて温度らしきものが乗った。

 わずかな興味、あるいは満足。


『ジュリアンを最後まで生かしておく必要が出てきた』

「生かす……殺さないってこと?」

『いや、最終的には殺す。でも順番が大事。父親の情報を吐かせてから。それまでは生かしておく』


 ミアは小さく頷いた。どこか安心したような心の動きを無視する。

 この少女の中で、計画が組み替えられていく音が聞こえる気がした。


『だから今は、別の話をしよう』

「……別?」


 カーバンクルの声が一段下がった。


『あなたの端末に、シエラから着信が入ってるよ。12分前に受信、未読のまま放置されてる。確認した?』

「――!?」


 ミアの背筋が凍った。

 通話を取った瞬間から目に入ってはいた。でも見ないふりをしていた。


 画面を確認する。シエラ・レミントン。件名は無く、本文は短い。


『今日、生徒会室来て。放課後すぐ。バックレ厳禁。……バックレたら、あの映像をばらまく』


 指先が震え始めた。胃の底からまた何かが込み上げてくる。


 無理だ。あんなことがあった次の日に、ジュリアンとシエラの前に立てるわけがない。

 何を聞かれるかわからない。何を言えばいいかわからない。


「カーバンクル、私……!」

『行って』

「……は?」

『行って、聞き出して。あいつらが私のことをどこまで掴んでるか。マコトの件で何を疑ってるか。情報が要る』


 ミアは端末を強く握りしめた。


「無理、無理だよ……! あいつらの前で、私……何を言ったら」

『普段どおりでいいよ』

「ふ、普段って……!」


 ミアは唇を噛んだ。

 昨日まで散々ジュリアンたちに踏みつけにされてきたあの記憶が、遠いことのように蘇る。


『私は介入しない。憑依もしない。あなたが一人で行って、一人で帰ってくるんだよ』

「どうして……昨日みたいに、助けてくれないの!?」

『使いすぎるとあいつらが気づくんだよ。ミア・ハーロウは無力じゃないって。今はまだ、それは困る。あなたが無力なふりを続けられる間は、私はあなたの中で眠ってる』


 冷たい論理に、ミアは深く息を吐いた。胃液の苦みがまだ口に残っている。


「……わかっ、た」

『……でも、一つだけ覚えておいて』


 通話の向こうで、声がほんのわずかに柔らかくなった。気のせいかもしれない程度に。


『最悪の場合は、私が出る。死なせはしない』


 通話が切れた。

 ミアは端末を膝の上に置き、洗面所の天井を見上げた。


 剥がれかけた断熱材の隙間から、配管の影が走っている。

 遠くで人工太陽の調光が切り替わる、低い唸りが聞こえた。


 テラの一日が、もうすぐ夕方の影に沈もうとしていた。



 本校舎三階、生徒会室。


「はぁ……はぁ」


 ミアはドアの前で三度、深呼吸をした。

 手のひらは汗で湿り、制服のスカートの裾を握る指先は震えが止まらない。


 教室から生徒会室までの廊下は、いつもより遠く感じられた。

 途中ですれ違ったクラスメイトたちは、皆ミアから目を逸らした。


 彼らは知っているのだ。マコトが死んだことを。

 そしてそれが、ミアと無関係ではないと囁かれていることを。


 ノックする手が止まる。

 どうしても、手が動かせない。


 ……そうしているうちに、ドアが内側から開いた。


「待ちくたびれたわ」

「あっ……!」


 シエラ・レミントンが立っていた。

 ブロンドの髪を肩に流し、口元には微笑みすら浮かべている。


 しかし目は笑っていなかった。

 生暖かい湖の表面のような、奥行きのない笑顔だった。


「入って。お茶はないけど」

「あっ、あの……!」


 ミアは引きずられるように室内に入った。

 長机の奥にカイル・ドレイクが座っている。


 脚を組み、端末を膝の上に置いて、こちらを観察するような視線を寄越していた。

 それ以外には誰もいない。


「ジュリアン、は……」

「ジュリアンは今日来ないのよ」


 シエラがミアの背中を軽く押し、長机の手前に立たせた。

 椅子は勧められなかった。


「あなた、ジュリアンの顔を見たくないでしょう? 先週、随分かわいがってもらったものねぇ」

「――!」


 ミアの膝が震えた。

 先週、ジュリアンに何をされたか。あの記憶はまだ生々しすぎて、思い出すだけで吐き気がする。


 シエラはそれを知っていて、わざとその話題を擦りつけてきたのだろう。

 ミアの反応を見て、嗜虐的な笑みを深めている。


「だから今日は私たちだけ。優しいでしょう?」


 ミアは何も答えられなかった。

 ただ俯いて、スカートの裾を握りしめる。


 カイルが端末を長机に置いた。


「ミア。昨日のことを聞きたい」


 声はあくまで平坦だった。

 カイルは怒鳴らない。いつだって淡々と、こちらの返答を待つだけ。それが逆に怖かった。


「マコトに呼び出されて、廃部室棟の倉庫に行ったね」

「……はい」

「行ったあと、どうなった」

「あ……」


 ミアは唇を開いた。何かを言おうとして、声が出ない。


 昨日の記憶の中で、自分は確かに椅子に縛られていた。マコトが目の前で何かを語っていた。


 そしてカーバンクルが憑依して、その先は霧の向こうだ。

 ただ喉仏が崩れる感触だけが指先に残っている。


 ……その霧の中身を、この二人に話せるわけがなかった。


「えっと……縛られて……マコトに、その……」

「うん」

「マコトに、いろいろ……されて……」

「いろいろって?」


 ミアは目を伏せた。

 涙が滲んできた。それは演技ではなかった。


 本当に怖かった。

 声を出すたびに、自分が何かを取り返しのつかない方向に転がしている気がした。


「叩かれたり、蹴られたり……それで、私、気を失って……」

「気を失った?」

「は、はい……気がついたら、家にいて……だから、マコトがどうなったかは知らないんです……本当に……」


 声が震えて途切れた。嗚咽が漏れる。

 シエラがため息をついた。


「カイル。これじゃ埒が明かないわよ」

「待って」


 カイルはミアを観察し続けていた。

 ミアの泣き顔の奥に何があるかを、視線の角度ひとつ変えずに測ろうとしていた。


「ミア。マコトはペンチで喉と舌を潰されて死んでたんだよ」


 ミアの肩がびくりと跳ねた。

 その反応は罪悪感のそれとも、純粋な恐怖のそれとも区別がつかなかった。


 シエラが舌打ちをした。


「もう面倒。この子に聞いたって何も出てこないわよ」

「そうだね。口からはね」


 カイルは静かに端末を閉じ、立ち上がった。

 パイプ椅子が床を擦る乾いた音が部屋に響く。


 ミアの背筋に氷が走った。カイルは長机を回り込み、こちらに歩いてきた。

 一歩ずつ、急がず、しかし確実に。


「……なら、身体に聞いてみようか」


 カイルがミアの真正面に立った。

 彼の手には電磁ペンが握られていた。

カーバンクルさんは美少女だぞ

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