【断罪】地獄の閻魔
カーバンクルは立ち上がり、転がっていた太いペンチを拾い上げた。
錆びついた金属が、ハンドライトの光を鈍く反射する。
カーバンクルはそれを片手で開閉し、噛み合わせの精度を確認するように、ゆっくりと自分の顔の前で動かした。
「これで何をするつもりだったの?」
壁際に座り込み、息も絶え絶えになっているマコトを赤い瞳が見下ろしている。
マコトは腫れ上がった顔を歪め、口の中に溜まったドス黒い血を床に吐き出した。
砕けかけた両膝は、もう自力で立ち上がる力を残していない。
しかし、彼の目の奥にはまだ完全に消えていない炎があった。
恐怖の奥底から湧き上がる「怒り」。
自分より格下の「底辺」に踏みにじられたという耐え難い屈辱感だ。
「……へっ、へへっ……」
マコトは血混じりの唾を吐き、歪んだ笑みを浮かべた。
「それを使ってよぉ……! お前の爪を一枚ずつ剥いでやるつもりだったんだよ!!」
声は震えていたが、ヤケクソのように大きかった。
廃部室のコンクリート壁に反響し、埃が微かに舞い上がる。
「一枚ずつ、ゆっくりな! お前が泣き叫んで、『許してください、なんでもします』って言うまで! あのペンチで根元から引っこ抜いてやるつもりだった! お前の派手な悲鳴を想像してワクワクしてたのによぉ……! なんでこんな、こんなわけの分かんねぇことになって……!」
最後は悲鳴に近かった。
大声で叫ぶことでしか、崩壊しかけている自分の精神を保てなくなっているのだ。
「暴力を振るう側」でしか存在価値を見出せない人間が、「暴力を振るわれる側」に転落した時の、惨めな最後の虚勢だ。
カーバンクルは黙って聞いていた。
ペンチを片手でぶら下げたまま、マコトの顔を数秒間静かに見つめた。
「……幼稚だね」
「――あ?」
声には軽蔑の温度すら無かった。
「爪を剥ぐのは確かに痛い。でもそれは、あなた自身が『知っている痛み』の延長だよね?」
カーバンクルは、ペンチの先端をマコトの顔の高さまでゆっくりと降ろした。
「子供の頃、爪を割ったことがある。だから、それを他人にすれば痛いだろうと想像できる。あなたの暴力は全部それ。自分が経験した痛みの再生産」
「……何を言って、やがる……?」
「あなたの暴力は全部、あなたが『痛いと知っている感覚』の流用。父親に理不尽に殴られた記憶を、弱い他人を使って再現しているだけなんじゃないの?」
マコトの顔が一瞬だけ凍りついた。
『父親』という単語が、彼の急所を正確に抉ったのだ。
「うるせぇ……! お前なんかに、何が分かるって――!」
「暴力の極致は、そこじゃない」
カーバンクルの声が、マコトの怒号を静かに遮った。
「本当の暴力とは、自分自身でも経験のない恐怖の領域に、相手を突き落とすこと。そして――それをする側が、何も感じないこと」
カーバンクルは、マコトの前にしゃがみ込んだ。
幾何学模様に明滅する赤い瞳が、至近距離でマコトの目を捉える。
「あなたの暴力は共感から始まってる。自分が痛いと知っているから、相手にもそれをする。それは、ただの幼稚な嫌がらせなんだよ」
ペンチの冷たい先端が、マコトの喉仏に触れた。
錆びた金属の冷たさが、薄い皮膚を通して軟骨に直接伝わる。
「私のは違う。今からやるのは、本当の暴力」
「な゛っ!? やめ゛――」
ガキンッ。
カーバンクルの手が、ペンチを容赦なく閉じた。
「――――!! ゃ……が……!!」
マコトの喉仏が、錆びた金属の顎にガッチリと挟まれ、ゆっくりと、しかし確実に圧迫されていく。
甲状軟骨がメキメキと軋む嫌な音が、マコト自身の鼓膜の内側で響いた。
「あ゛っ……!? あ゛、あ゛あ゛――!!」
悲鳴を上げようとした声が、途中でブツリと潰れた。
喉仏の軟骨が完全に変形し、声帯を圧迫して破壊する。
気道はギリギリ確保されているため呼吸はできるが、声帯がもうまともに動かなかった。
「ひゅ、ひゅっ……!」
マコトの口から漏れたのは、潰れた笛のような掠れた呼気だけだった。
叫ぼうとしている。助けを呼ぼうとしている。
しかし、声にならない。
壊れた楽器のように、喉の奥で無惨に空気が割れるだけだった。
カーバンクルはペンチを喉から離し、血と唾液で汚れた先端を無造作に制服の裾で拭った。
「さて。次は舌を出して」
「……っ!! ……!?」
淡々とした死刑宣告。
マコトは首を激しく横に振った。恐怖で顔面が蒼白になり、涙と鼻水にまみれながら、必死に両手で自分の口を覆おうとする。
しかし彼の両腕はすでに先ほどの戦闘で完全に神経を麻痺させられており、上がらない。
指先がピクピクと痙攣するだけで、顎の高さまで持ち上がらなかった。
カーバンクルは、マコトの顎を左手でガシッと掴んだ。
親指と人差し指で、下顎の関節を外側から強烈に押さえ込む。
「はっ、はっ、はっ……!!」
「ほら、動かないで。……ま、動かなかったら死ぬんだけどね」
マコトの口がゴキッという音と共に、本人の意思に反して強制的にこじ開けられた。
「あ゛……あ゛っ……!!」
声にならない絶叫が、開いた口腔から漏れる。
マコトの舌が恐怖で引き攣りながら、本能的に喉の奥へ逃げ込もうとしている。
だがカーバンクルは迷うことなく、ペンチの先端を開いた口の中に深く差し入れた。
「ひがぁぁぁ……!?」
金属の冷たい顎が、マコトの舌の根元をガッチリと掴んだ。
マコトの巨体が、高圧電流を受けたようにビクンッ! と跳ねる。
背中が壁に何度も叩きつけられ、両脚が無秩序にバタバタとのたうち回る。
しかしカーバンクルの左手は顎を、右手はペンチを、一切ブレることなく固定していた。
「爪を剥ぐなんて、幼稚な想像をしてたね」
「ヒ……ひゃめ……」
赤い瞳が、恐怖で見開かれたマコトの目を、真っ直ぐに射抜いていた。
「これが本当のペンチの使い方だよ」
――ブチィッ!!
カーバンクルの手が、ペンチを力任せに引き抜いた。
引き裂かれたのは、舌だけではなかった。
舌根の奥、喉の奥の組織ごと強引に抉り取ったのだ。
ドクンッ。
頸動脈に近い主要な太い血管が破裂し、マコトの口から大量の鮮血が噴水のように溢れ出した。
「――――!!!」
声は出ない。
喉仏は潰され、舌は根元から引きちぎられ、大量の血が気道へと逆流していく。
マコトは自分の血で溺れながら、ゴボッ、ゴボッと絶望的な音を立てて、床でのたうち回った。
目は限界まで見開かれ、白目の血管が破裂しそうに浮き上がり、涙と血と絶望が区別なく顔を流れ落ちている。
カーバンクルは立ち上がり、ペンチに挟まれた赤黒い肉塊を、足元でもがくマコトの顔の横にポイと捨てた。
「あぁ……もしかして、殺されないと思ってた? 自分は殺したわけじゃなくて、いじめただけだから?」
マコトの動きが、徐々に鈍くなっていく。
気道が血で完全に塞がり、痙攣が止まりかけていた。
「残念だけど、私はそういう容赦はしない。形はともかく誰かに死を与えた者には、死を持って対応する」
限界まで開かれた目は、カーバンクルの冷たい赤い瞳を最期まで見つめたまま、ゆっくりと光を失っていった。
「あなたはもう、|どこにも存在しない《404 Not Found》」
カーバンクルは血に濡れたペンチを工具箱の中に投げ戻した。
背後でマコトの身体が完全に力を失い、ズルリと壁際から横倒しになる音が響いた。
ミアの身体を借りた小柄な影が、ハンドライトの置かれた壁の方へ歩いていく。
カーバンクルはライトの電源を切り、廃部室を完全な暗闇に戻した。
「記念すべき、この都市の一人目か……」
暗闇の中で、赤い瞳の光だけが一度だけ鋭く明滅する。
復讐代行者は、血の匂いが充満する密室を後にした。
■
旧校舎から三ブロック離れた、テラ居住区の廃棄コンテナ倉庫。
「あ、あの……あの、カイル、さん」
「すみませんでした……そのっ」
二人の男子生徒が、コンクリートの冷たい床に正座させられていた。
マコトの舎弟――旧校舎で、ミアの口を麻酔布で塞ぎ、外で見張りをしていた二人だ。
彼らの目の前に置かれたパイプ椅子には、一人の少年が足を組んで座っている。
「んー? 二人共、何に対して謝ってるわけ?」
カイル・ドレイク。
ミアをいじめていた七人の中で、「制裁」を担当する生徒だ。
痩身で、色素の薄い金髪。眼鏡の奥の目は常に糸のように細められている。
ジュリアンが「指揮」、マコトが「直接的な暴力」だとするなら、カイルは「精神の破壊」だった。
クラス内でジュリアンたちの決めた規律を乱した者、序列を逸脱した者に対して、カイルが「矯正」を施すのだ。
「状況は聞いたよ」
カイルは、手元の小さなガラス瓶を指先で弄びながら、教師のように穏やかな声で言った。
瓶の中には、どす黒い赤色の液体が並々と入っている。
それは軍事用の催涙スプレーの主成分――カプサイシンの純度を極限まで高め、アンダーの闇市場で流通している「食用とは呼べない」劇薬に近いソースだった。
「マコトが死んだ。舌を根元から引き抜かれて、自分の血で溺れ死んだんだってね。で、君たちは見張りだったのに、彼が死ぬまで何も気づかなかった」
二人の顔が、死人のように蒼白に強張った。
ガチガチと歯の鳴る音が、静かなコンテナ内に響く。
「ち、違うんです、カイルさん……! 俺たちは外にいて、中の音なんて本当に何も聞こえなくて……!」
「それに、マコトさんが入ってくるなって言って……!」
「聞こえなかった。想定外だった」
カイルは微笑んだ。眼鏡の奥の目が、細く、楽しそうに弧を描いた。
「うん、分かるよ。君たちが悪いわけじゃない。本当に不幸な事故だったと思う。でもね」
カイルは小瓶の蓋をカチリと開けた。
強烈な化学的な刺激臭が、密閉されたコンテナの中に一瞬で広がった。
匂いを嗅いだだけで二人の目からボロボロと涙が溢れ出し、喉が焼けるように痛む。
「失敗には、罰が要るんだ。それが『秩序』ってものでしょ? 君たちが罰を受けないと、他の生徒への示しがつかない」
カイルは立ち上がり、右側にいた舎弟の髪をガシッと掴んで強引に上を向かせた。
「ひぃっ……! か、カイルさん、やめ……!」
「二人とも、これを一本ずつ飲み切ったら許してあげる。簡単だよね。マコトが味わった痛みに比べたら」
抵抗する舎弟の頬の筋肉を強く指で挟み込み、無理やり口を開かせる。
そして小瓶のドロリとした赤い劇薬を、喉の奥へ直接一気に流し込んだ。
「あ゛っ!? ごふっ、が、あああぁぁぁっ!!?」
男は床を転げ回り、喉を掻きむしって絶叫した。
食道と胃壁の粘膜が直接焼かれる激痛。
口から泡と胃液を吹き出し、目は白目を剥いている。
悲鳴はコンテナの分厚い壁に反響し、外には一切漏れることはなかった。
カイルはのたうち回る一人目を面白そうに見下ろした後、もう一本の小瓶を取り出し、もう一人の舎弟へ視線を向けた。
「さぁ、次は君の番だ。自分で飲む? それとも飲ませてあげようか?」
「ひっ……ああ、あああぁぁっ……!!」
失禁し、這って逃げようとする二人目の背中を革靴で踏みつけ、カイルは自分の情報端末に目を落とした。
画面には、警察内部のネットワークからハッキングして抜き取った、マコトの遺体の検死レポートが表示されている。
『頸動脈付近の主要血管破裂による失血死』。
『気道の血液閉塞による窒息』。
『舌の完全欠損、および甲状軟骨の粉砕』。
それは明らかに、プロの拷問か処刑の手口だった。
「……面白いな」
「――アアアア! アアアアァァァ……!!」
二人目の口に劇薬を流し込み、絶叫をBGMにしながらカイルは呟いた。
恐怖ではなかった。
声の底にあったのは、新しい玩具を見つけた子供のような好奇心だ。
「マコトは直前までミア・ハーロウといたそうだが……まさかあのハーロウがこれをやった? それともハーロウに協力者でもいるのか?」
眼鏡を押し上げ、カイルは歪んだ笑みを深くした。
「どっちにせよ……正しい『罰の与え方』を知ってる相手と会うのは、初めてだ――」
すげえ殺し方するよね




