【依頼人】痛みの記憶
翌朝。
集合住宅の二十七階、ミアの部屋。
安物の合成皮革のローファーに足を通しながら、彼女は玄関の鏡の前で立ち止まった。
鏡の中の自分は、昨日より顔色が少しだけマシだった。
目の下の隈は変わらない。腕や太ももに刻まれた無数の青痣も消えていない。
しかし視線の芯だけが、昨日までとは違っていた。
(……行ってくる、カーバンクル)
『気をつけてね。緊急時だけ出る』
頭の内側から氷のように冷たく、抑揚のない声が返ってきた。
誰にも聞こえない、ミアとカーバンクルだけの秘密の回線。
脳の奥に棲みついた冷酷な「同居人」が、一日の始まりにそう告げた。
「う……うぅ」
半開きのドアから、父親が床に丸まって眠っているのが見えた。
昨夜カーバンクルに殴られたあと、壁に凭れたまま落ちたのだろう。
ミアはその横を、足音を忍ばせて通り過ぎ、玄関の薄い金属扉を閉めた。
■
テラ居住区の通学路は、昨日までより一層冷たかった。
歩道橋を渡りきった瞬間から、周囲の空気が変わっていることにミアは気づいた。
(……っ)
すれ違う同じ学校の生徒たちが、二メートルどころか五メートル手前から露骨に道を空けていく。
視線の種類も変わっていた。
昨日までの「汚いものを避ける視線」から、明らかな「警戒」や「恐怖」へ。
生徒たちの網膜に映るエデン・チップのネットワーク上を、何か新しい情報が駆け巡っている。
『ああ、なるほど。データが出回ってるみたいだね』
昨日の旧校舎でカーバンクルに叩きのめされ、制服を奪われたシエラの取り巻きたちが報告したのだ。
『あのハーロウが反撃した』。
『ジェシーが腹を殴られ、リンが制服を剥ぎ取られた』。
その情報はあっという間に、クラス内のゴシップ回線を伝播していた。
校門のセキュリティゲートをくぐった瞬間、ミアの情報端末が微かに震えた。
差出人不明の暗号化通信。しかし、内容を見れば差出人は明白だった。
『放課後、旧校舎の裏。来ないと、お前の家を焼き払う。マコト』
「……っ!」
ミアは画面を見つめ、ゴクリと唾を飲んだ。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。
――マコト・アスター。
ミアをいじめている七人のグループの中で、最も直接的な暴力を好む男子生徒だ。
ジュリアンが「指揮官」や「スポンサー」だとすれば、マコトは汚れ仕事を楽しむ「実行犯」だった。
彼自身は特権階級ではないが、父親が治安維持組織の幹部であることを笠に着て、クラス内で「暴力による序列」を誇示している危険な男だ。
『来たね』
脳内の同居人が、ひどく冷静に呟いた。
『行くの?』
(……行くしかない。無視したら、あいつら本当に家に火をつける。父さんが寝てる状態で、そんなことされたら……)
『分かった。万が一の時は、私が代わる』
ミアは震える息を吐き出し、端末をポケットの奥にねじ込んだ。
■
一時限目から六時限目まで、ミアは人形のように息を殺して座り続けた。
昼休みも彼女はトイレにも行かず、机の前に固まっていた。
シエラは一瞥もくれなかった。
ジュリアンは時折ミアの方を見ては、薄気味悪い笑みを浮かべて視線を外した。
教室の空気は昨日までと同じように見えて、決定的に違っていた。
誰もが「放課後にマコトがミアをどう料理するか」を知っている。
そして全員が、いつも通り「見なかったふり」をする準備を整えている。
クラスの調和を保つために。
放課後のチャイムが、無機質に鳴り響いた。
生徒たちが一斉に鞄を抱え、逃げるように教室を出ていく。誰もミアを振り返らない。
ミアは震える膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
■
旧校舎裏、崩れかけた用具倉庫の陰。
監視カメラは壊れており、AIドローンの巡回ルートからも外れた、埃と湿気の溜まる死角。
「よう――」
マコトは、一人で壁に寄りかかって立っていた。
背は高く、制服の袖を捲り上げた腕には太い筋肉が浮き出ている。
その後ろには、彼の「舎弟」である男子生徒が二人、ニヤニヤしながら立っていた。
「来たな、底辺女」
マコトの声には圧倒的な暴力の余裕と、苛立ちが混じっていた。
「は……話って、なに」
ミアは俯いたまま、掠れた声で聞いた。指先が小刻みに震えている。
「話? そんなもんねぇよ」
マコトがカツ、カツ、とゆっくり距離を詰めてきた。
「お前さぁ、昨日ジェシーとリンを殴ったんだって? シエラさんから聞いて驚いたぜ。男に回されてボロ雑巾みたいになってたくせに、急にイキりやがってよ」
「わたしは……っ!」
「俺の知ってるハーロウはな、殴られたら黙ってヒィヒィ泣いてるだけのおもちゃだ。それが急に生意気になってんのが気に食わねぇ」
マコトはミアの顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。
「痛っ……!」
指の力が異常に強く、顎の骨がミシミシと軋む。
ミアは反射的に身を引こうとしたが、背後から別の手が伸びてきた。舎弟の一人だ。
甘ったるい薬品の染み込んだ布が、ミアの口と鼻を強引に覆い塞いだ。
「――っ!? んーっ!!」
化学臭。喉の奥が焼けつくように痺れ、視界が急速にぼやけていく。
麻酔ガスの簡易版――アンダーの街で出回っている違法な密造品だ。
抵抗しようともがく間もなく、ミアの身体から急速に力が抜け、膝から崩れ落ちた。
(カーバン……クル……助け……)
だが、脳内の回線は応答しなかった。
■
――意識が、鈍い痛みとともに戻ってきた。
口の中に苦い薬品の味が残っている。
手首が後ろに回され、硬い結束バンドで縛り上げられていた。皮膚に食い込む痛みが走る。
足首も同じように、座らされたパイプ椅子の脚にきつく固定されていた。
視界が少しずつ明瞭になるにつれ、ミアは自分がいる場所を認識した。
旧校舎のさらに奥。改築工事の途中で放棄された廃部室棟。
窓は板で塞がれ、床にはコンクリートの破片や錆びた釘が散らばっている。
マコトが持ち込んだ作業用のハンドライトが一つだけ、壁際からミアの姿を不気味に照らし出していた。
ここは完全に「EDENシステム」の監視網の外だ。
工事用の電磁遮断シートが張られているせいで、管理チップの通信電波は一切外に届かない。
つまり。
ここでミアがどれだけ悲鳴を上げようが。
心拍数が異常な数値を示そうが。
AIの記録上は「何も起きていない」。
「お、起きたな」
「ひっ……」
正面の廃ロッカーに凭れていたマコトが、ニヤリと笑って立ち上がった。
舎弟の二人は見当たらない。外で見張りをしているのだろう。
この密室には、マコトと拘束されたミアの二人きりだ。
「シエラさんからさ、お前のこと『壊していい』って許可もらってんだ」
マコトはポケットから革製のグローブを取り出し、ゆっくりと両手に嵌め始めた。
「あいつもマジで腹立てててさ。『目障りだから片付けて』って。まぁ俺は、スコアとかそういう面倒くさい理屈はどうでもいいんだけどな」
「……やめて。お願い……」
ミアの声は震え、恐怖で涙がこぼれ落ちた。
「俺はただ、お前が昔みたいに、俺の前でちゃんと泣くのを見たいだけなんだよ」
「……!!」
――ミアの脳裏に、マコトによって刻まれた「記憶」がフラッシュバックした。
旧校舎の地下ボイラー室。
ミアの服を水でずぶ濡れにさせた上で、マコトは工業用の高圧スタンバトンを彼女の腹に押し当てた。
『い、ぎああぁぁぁ!! やめでぇぇぇ……!』
内臓が焼き切れるような激痛と痙攣。
ミアが泡を吹いて失神するまで、彼は何度もスイッチを入れ続けた。
『お前の泣き顔、ブサイクで最高だなハーロウ!』
理科実験室の裏。
廃棄予定だった工業用の酸性溶剤を、マコトはスポイトで吸い上げ、ミアの腕や背中の皮膚に直接一滴ずつ垂らして遊んだ。
『熱い! 熱いぃぃぃ!!』
肉がジュッと音を立てて焼け焦げる不気味な匂い。
ケロイド状になった深い火傷の痕は、今も肩甲骨の下にどす黒く残っている。
『ほら、声出せよ。もっとデカい声出さないと次は目玉に垂らすぞ』
――記憶が閉じる。
ミアは耐えきれず、ガタガタと震えた。
「ジュリアンやシエラはさ、お前を『アンダー行きのゴミ』って扱ってるだけだ。でも俺は違う」
マコトは、椅子に縛られたミアの正面にしゃがみ込んだ。
グローブを嵌めた手で、ミアの頬を撫で回す。
「俺はお前のこと、ちゃんと『俺のおもちゃ』として見てる。だからもう一度、一から調教し直してやるよ」
ミアは顔を背けようとしたが、顎を強く掴まれ、固定された。
「ひ……」
「昨日までの、ちゃんと泣いて怯えるハーロウに戻してやる。今日一日かけて、ゆっくりな」
マコトは壁際に置いていた工具箱を、椅子の横まで引き寄せた。
錆びたペンチ。ハンマー。錆びついたカッターナイフ。
マコトはその中から一番太い結束バンドを取り出し、ミアの首に回そうとした。
――その時。
カチリ、と微かな音がした。
ミアの後ろで、手首を拘束していた硬い結束バンドが、静かに「二つに割れた」。
「……ん?」
マコトが首輪を回そうとした手の動きが、ピタリと止まった。
彼の目の前で、震えていたはずのミアがゆっくりと顔を上げていた。
俯いていた焦げ茶色の前髪の奥。
そこから静かに――赤い光が二つ、マコトを射抜いていた。
左右の瞳孔が幾何学模様に変化し、暗闇の中で明滅している。
「……は?」
マコトの声が、間抜けに漏れた。
ミアの両手はすでに自由だった。
右手が無造作に膝へ伸び、足首を縛っていた結束バンドを掴んでこともなげに外す。
強靭なプラスチック繊維が、パンッ! という乾いた音を立てて弾け飛ぶ。
カーバンクルはゆっくりと立ち上がった。
ミアの小柄な身体が、ハンドライトの逆光の中で黒い影となって長く伸びる。
「あなたは三番目の予定だった」
絶対零度の死神の声。
それが廃部室の埃っぽい空気を一瞬で凍りつかせた。
「だけど――」
カーバンクルは、ミアが着ているブレザーの袖をゆっくりと捲り上げた。
そこにはマコトたちによって刻み込まれた、無数の痛々しい青痣と火傷の痕が剥き出しになっている。
「仕掛けてきたからには、少しだけ優先順位を上げてあげる」
「……な、何なんだ、お前。……誰だ!?」
マコトの表情が恐怖で引きつる。
グローブを嵌めた拳が握りこまれ、構えた。
やれーッ




