【断罪】目覚める始末屋
――鏡の中に、知らない顔があった。
焦げ茶色の髪。泥と涙で汚れ、腫れ上がった頬。無残に引き裂かれた制服。
どこにでもいる十五歳の少女の顔。
だがその瞳に宿る冷酷な光は、決してこの少女のものではない。
「はぁ……久々の生身の身体がこんなザマとはね……」
口から出た声は、間違いなくミア・ハーロウのものだった。
しかし、その声帯を震わせている意思はミア・ハーロウではない。
彼女――ダウンロードされた「カーバンクル」は、借り物の両手を顔の前に持ち上げ、ゆっくりと開閉させた。
握力が足りない。関節の可動域も狭い。
栄養状態が悪く、筋肉の密度はおそらく一般的な少女の半分以下だ。
何より、脳と身体の接続が鈍い。
体内に埋め込まれた管理チップを「踏み台」にして間接的に身体を操っているため、自前の体とは比較にならないほど反応速度が遅かった。
それでも、動く。
普通の人間を殺す程度には、十分に。
カーバンクルは鏡から視線を外し、トイレの個室の状況を確認した。
監視カメラはない。ここは学校のシステムから見捨てられた旧校舎だ。
(状況を整理しよう)
自分は今、ネオ・アルカディアから遠く離れた別のドーム都市「ニュー・エデン」のネットワーク領域にダイブしている。
彼女が作り出したサイト「404号室」にアクセスしてきた、この少女のSOSを受信した。
少女の脳内チップに自分の「戦闘データ」と「意識」をダウンロードし、一時的に身体の制御権を乗っ取った状態にある。
ただし、制限は多い。
この脆弱な生身の脳に格納できたデータはごく一部。
しかも、AIチップの処理限界を超えた「憑依」は長く維持できない。
長時間の接続は、器であるミアの脳を焼き切ってしまう。
「……まずは、服か」
鏡に映る制服は使い物にならなかった。
男たちに乱暴に引き裂かれ、ボタンは弾け飛び、胸元や肩が剥き出しになっている。
スカートも泥まみれで、破れた隙間から青痣だらけの太ももが見えていた。
この格好で外を歩けば、街を巡回する警察に「不審者」と評価される可能性が高い。
すでに評価スコアが底辺にあるこの少女の身体で、これ以上システムに目をつけられるわけにはいかなかった。
「服、服と……」
カーバンクルは個室を出て、トイレの扉を押し開けた。
静まり返った旧校舎の廊下。
足音を完全に消す歩法は彼女のデータに染みついているが、学校指定の安っぽいローファーでは限界があり、わずかに足音が鳴る。
階段の踊り場を曲がろうとした時、二つの影と鉢合わせた。
「あ」
女子生徒が二人。階段に座り込んで雑談していたらしい。
カーバンクルの脳内で、ミアの記憶データが自動的に検索・照合される。
――クラスメイト。シエラ・レミントンの取り巻きの末端にいる生徒たち。
直接暴力を振るうわけではないが、見張りをしたり、いじめの様子を笑いながら録画したりする「共犯者」だ。
二人は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにミアの姿を認識した。
引き裂かれた制服、泥だらけの肌、赤く腫れた頬。
それを見た二人の顔に、下劣な嘲笑が浮かぶ。
「うわっ、びっくりした。まだいたんだ底辺女ぁ。みんな帰ったと思ってたのに」
背の高い方の少女が、ガムを噛みながら鼻で笑った。
「ていうか、何その酷い格好。ジュリアンたちにヤられちゃったわけ? マジで終わってんね」
もう一人の小柄な少女が、ニヤニヤしながら端末を取り出し、カメラのレンズを向けた。
「これシエラさんに送ろっと。『底辺の末路』って――」
カシャッ、とシャッター音が鳴った瞬間。
カーバンクルは無造作に一歩を踏み出した。
まるで空間をスキップしたかのような速度で距離を詰め、カメラを構えていた小柄な少女の手首を掴む。
「……え?」
少女の顔に困惑が浮かんだ。
ミア・ハーロウが、人の手首を掴む。今までの三ヶ月間で一度もなかったことだ。
殴られても蹴られても泥水を被せられても、この少女は一度も反撃しなかった。
できるはずがない。そう全員が知っていた。
「な、なによ。汚い手で触んないで……痛っ!?」
ギリッ、とカーバンクルが指先に力を込める。
急所である手首の神経の束を正確に圧迫され、少女は悲鳴を上げて端末を取り落とした。
カーバンクルは落ちていく端末を空中でキャッチすると、そのまま壁の角に投げつけ、液晶ごと粉々に砕き割った。
「なっ……何すんのよ! 私の端末!」
小柄な少女が金切り声を上げた。
隣にいた背の高い少女も、目を丸くして半歩後ずさる。
「服を脱いで」
カーバンクルが口を開いた。
感情の一切こもっていない、氷のように冷たい声だった。
ミアの声帯から出ているはずなのに、二人が知っているミアの声とは次元が違った。
脅しでも、怒りでもない。絶対的な「命令」だと感じた。
「は……? あ、あんた、頭おかしくなったの?」
背の高い少女が、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「底辺のくせに調子乗ってんじゃないわよ!」
彼女は振りかぶって、ミアの顔を平手打ちしようとした。
(遅い……)
カーバンクルは半歩だけ軸をずらし、伸びてきた腕の手首を掴むと、そのまま相手の突進する力を利用して前方へ引き倒した。
「あっ!?」
前のめりにバランスを崩した少女の顎の下に、手刀を軽く当てる。
そして空いたもう片方の手で。
少女の鳩尾に短く、重い一撃を打ち込んだ。
「がっ……! げほっ……!!」
声にならない激痛の呻きとともに、背の高い少女は白目を剥いて崩れ落ちた。
腹を抱え、エビのように丸まって床を転げ回る。
横隔膜の神経を麻痺させられ、呼吸ができないのだ。
「ひぃっ……!?」
残された小柄な少女が、腰を抜かして床にへたり込んだ。
「な、なんなの……あんた、ふ、ふざけんじゃないわよ……!?」
少女が後ずさりしようとするが、カーバンクルはその足首を無造作に踏みつけた。
「痛っ! やめなさいよっ……!?」
「やめなさい? ……誰に命令してる?」
「……っ!?」
「あなたが私にしてきたことは覚えてる」
「ご、ごめっ……ごめんなさい! 違うっ、私はシエラさんに言われて見張りしてただけなの!」
「そう。なら、見張りの責任は取ってもらう」
カーバンクルは床にうずくまる背の高い少女の襟首を掴み、無理やり引き起こした。
そして、ブレザーのボタンを引きちぎるように外し、制服の上着を剥ぎ取った。
少女は息を詰まらせたまま、抵抗する力すら残っていない。
続けて、足元で震えている小柄な少女を見下ろす。
「上着はこれでよし。次は、あなたのスカートをもらう」
「えっ……い、嫌っ! そんなことしたら、私が下着で帰らなきゃ……」
「嫌なら、今ここで腕の骨を三本に折る。どっちがいい?」
カーバンクルの赤い瞳に見下ろされ、少女はヒッ、と短い悲鳴を上げた。
この目の前の「何か」は、本気で自分の骨を折る。本能がそう告げていた。
少女は泣きじゃくりながら、震える手で自らスカートのホックを外し、カーバンクルに差し出した。
カーバンクルは自分の破れた制服を脱ぎ捨て、奪い取ったブレザーとスカートを身に着けた。
サイズはミアの身体より少し大きかったが、引き裂かれたボロ布よりは遥かにマシだ。
「家族にどう言い訳するかは、あなたたちが勝手に考えなさい」
カーバンクルは、下着姿で泣き震える二人を一瞥し、階段を降り始めた。
「あ、あんた……シエラさんに言うから……! 絶対言うから!」
壁に張り付いたままの少女が、震える声で叫んだ。
カーバンクルは振り返らなかった。
■
学校を出て、テラ居住区の通路を歩きながら、カーバンクルはミアの記憶を辿っていた。
帰路のルートは身体が覚えていた。
一歩踏み出すたびに、ミアの悲しい日常の記憶が靴底から染み上がってくるように浮かんでくる。
すれ違う生徒たちは、相変わらず管理チップの警告に従ってミアを避けていくが、今のカーバンクルにとっては道が開くので歩きやすいだけだ。
頭上五百メートルに浮遊する富裕層の都市『アルミナ』の巨大な影が、下層の街を斜めに切り取っている。
(ふーん。同じドーム都市でも光景がかなり違う……。ここは縦長なんだね)
夕方の時間帯。
人工太陽の光が届く西側の通りだけが、毒々しいオレンジ色の人工夕焼けに染まっていた。
物理的な高低差によって阻まれた、残酷な階級社会。
しかし、権力者に踏みにじられる弱者の痛みはどの都市でも同じだった。
リバーサイド居住区。
ひび割れた人工河沿いにある、古びた集合住宅の二十七階。
エレベーターの中で、カーバンクルは鏡代わりの金属壁面に目をやった。
赤い光は消えかけており、ミアの目は本来の焦げ茶色に戻りつつあった。
チップを介した強引な接続が限界を迎えようとしている。
意識の奥底で、気を失っていたミア本人の人格が揺らめき、浮上しようとしているのを感じた。
「……やれやれ」
ドアの前に立ち、ミアの右手をロックパネルに触れさせる。
チップ認証が通り、薄い金属扉がスライドした。
部屋の中は暗かった。
キッチンの隅に、安物の合成調味料の瓶が出しっぱなしになっている。
母親は夜勤に出たらしい。
奥の寝室からは、ドラッグで眠る父親の重い寝息だけが聞こえてくる。
カーバンクルは靴を脱ぎ、音を立てずに廊下を進んだ。
突き当たりの小さな個室。ドアを閉め、鍵をかける。
(これがミアの部屋、か)
狭くて、貧しい部屋だった。
使い古された学習机、スプリングのへたった簡易ベッド。
壁には、このドーム都市の外にある「本物の自然」を写した、古い風景写真が一枚だけ貼られていた。
ミアがどこかのスクラップ置き場で見つけて、大切にしていたものだろう。
カーバンクルはそれを一瞥し、ベッドの端に腰を下ろした。
制限時間が近い。
この身体の制御をミアに返す前に、やるべき準備がある。
カーバンクルはミアの端末を取り出し、学校のネットワークの裏口へと静かに侵入した。
ターゲットの情報の洗い出し。
ジュリアン・ヴォス、シエラ・レミントン、他五名の詳細な個人データ。
そしてクローン警官の巡回ルート。街のAI監視カメラの死角。
(……時間かな)
ミアの意識が水面下から完全に浮上してくるのを感じた。
もうすぐ目が覚める。
目が覚めた時、この少女はただトイレで気を失い、気がついたら自分の部屋のベッドで着替えていた――それだけの認識になるはずだ。
カーバンクルは端末の画面を閉じ、ミアの身体をゆっくりとベッドに横たえた。
借り物の目を閉じる直前、脳内で眠る少女の意識に向けて、小さく呟いた。
「おはよう、ミア。あなたには、『色々と』手伝ってもらうからね……」
その不敵な宣告とともに、少女の赤い瞳は静かに閉じられた。
闇のゲームが始まるぜ




