【依頼人】ダウンロード
いつもですが、今回あんまり良くない性的表現もあるのでお気をつけください!!
午後六時十二分。
テラ居住区、リバーサイド。
ミア・ハーロウは、集合住宅のガタつくエレベーターの中で制服の襟元を整えた。
昼休みにかけられた泥水の匂いは、旧校舎のトイレで三十分かけて必死に洗い落とした。
だが冷たい水で濡れた髪はまだ重く、湿った布地が肌に張り付いて、嫌な冷たさを伝えてくる。
エレベーターの鏡に映る自分は幽霊のように青白かった。
二十七階。
薄い金属扉が耳障りな音を立てて開くと、廊下の奥から合成調味料の焦げた匂いが漂ってきた。
母親がもう帰っている。それは今の家にとって、珍しいことだった。
「ただいま……」
「おかえり、ミア。今日は早番だったの。久しぶりにご飯を作ったわよ」
キッチンに立つ母の背中は、父が解雇されてからの三ヶ月で、驚くほど小さくなっていた。
夜勤をいくつも掛け持ちし削られた肉体が、チカチカと明滅する蛍光灯の下で頼りなく揺れている。
テーブルの上には、安価な合成食品『エデン・バー』を砕いて炒めただけの、味気ない焼き飯が二人分。父親の分はどこにもなかった。
「お父さんは……?」
「……奥の部屋よ。今日は、そっとしておいてあげて」
母の声には、疲労の奥に深い諦めが滲んでいた。
奥の寝室からは何の音も聞こえない。
父は現実の苦痛から逃れるため、安価な鎮静ドラッグを打ち、意識を泥の中に落としているのだ。
ミアは黙って頷き、席に着いた。
「学校はどうだった? 変わりはない?」
「……普通だよ。テストが近いから、みんなピリピリしてるけど」
嘘を吐く瞬間、心臓が跳ねる。
だがその動揺を察する余裕さえ、今の母親には残されていない。
ミアは無理やり笑顔を作り、焼き飯を口に運んだ。
味はほとんどしなかった。ただ人工的な旨味成分だけが舌の上を滑り、喉の奥へ消えていく。
「ミア、あんた腕……どうしたの、その痣」
母の視線が、制服の袖口から覗いた大きな青痣で止まった。
ミアは反射的に腕を引き、テーブルの下に隠した。
「……体育でっ、ちょっとぶつけただけ。ドジだからさ、私」
「そう……? 最近、怪我が多くない? 心配だわ」
「大丈夫だって。お母さんこそ、ちゃんと寝てよ」
ミアは笑い、母も笑った。
どちらの笑顔も作り物で、目は少しも笑っていなかった。だが、二人ともそれに気付かないふりをした。
嘘を共有することでしか、この家の最後の均衡は保てなかった。
■
翌朝。
校門をくぐった瞬間、ミアは学校全体の空気が「昨日までとは違う」ことに気付いた。
廊下ですれ違う生徒たちの視線が、これまでの「無視」や「回避」ではなく、執拗な「追跡」に変わっていたのだ。
ニヤニヤとミアを指差して囁き合っている。
教室に入ると、中央の席でシエラが待ち構えていた。
金髪を高く結い上げ、いつもより機嫌が良さそうに口角を吊り上げている。
「おはよう、ハーロウ。見た? 今朝のスコア更新」
ミアはゆっくりと自分の手元の端末に視線を落とした。
管理チップが算出した「信用スコア」の数値が、昨日からさらに大きく下落し、真っ赤な警告色に染まっていた。
その数値の下に、これまでにはなかった一行の注記が添えられている。
『家庭環境リスク指数:深刻な上昇。保護者の違法薬物使用、および精神衛生指標の著しい悪化を検知。周辺のスコアへ悪影響を及ぼすものとして警告します』
隠していたはずの、父のドラッグ使用がAIシステムに検知されたのだ。
それは単なる貧乏とは訳が違う。
この家族が「社会のゴミ」として正式に分類されたことを意味していた。
その残酷な情報は、クラス全員のチップにリアルタイムで配信されていたようだ。
「ヤク漬けの親父に、売春婦まがいの母親か」
ジュリアンが教室の後方から声を上げた。
その場にいた生徒全員が、一斉に下品な笑い声を上げた。
「もう一家心中するしかねえな!」
笑い声が津波のようにミアを襲う。
ミアは何も言わず、ただ拳を握りしめた。
教壇に立つ担任の教師は、手元のホロパッドを見つめたまま置物のように動かない。
システムが「不適格」と認めた生徒に、救いの手を差し伸べる人間はこの教室には存在しなかった。
■
「はぁ、はぁっ……!」
昼休み。
ミアは逃げるように旧校舎へと向かった。
そこがもはや危険な場所だと分かっていた。だが、他に身を隠せる場所がどこにもなかった。
崩れかけの階段を上った瞬間、背後から荒々しく腕を掴まれた。
「今日も来たな、逃げ場のないネズミが」
ジュリアンだった。その背後には取り巻きの男子が三人。
昨日よりも連中の目は血走っており、そこには単なる「いじめ」を超えた、どす黒い加害の意欲が渦巻いていた。
「……は、離して。昨日で、満足したでしょ……!」
「満足? まさか。面白かったけど、刺激が足りないんだよ」
「こっちに来い!」
「あ……!?」
ジュリアンがミアの髪を掴み、無理やり奥の「閉鎖された備品室」へと引きずり込む。
カビと埃の匂いが充満する狭い部屋。
一人の男子が生徒用端末のジャミングを起動した。これでここでの出来事は、校内の監視AIにも、管理チップのログにも記録されない。
「おい、服脱がせろ。どうせアンダーで脱ぐことになるんだ。予行練習させてやるよ」
「やだ……っ! やめて! 助けて、誰かっ……!!」
ミアは必死に抵抗した。壁を蹴り、ジュリアンの手に爪を立てた。
だが、その抵抗は男たちの興奮を煽るだけでしかなかった。
ジュリアンがミアの頬を思い切り叩く。
「いっ……!」
「静かにしろよ。ま、誰も来ないけどな、こんなトコ」
「自分から来てくれてありがとよ〜!」
制服のボタンが弾け飛び、床を転がる音がした。
乱暴な手つきで服が引き裂かれ、剥き出しになった肌に冷たい空気が触れる。
「前から見た目『は』いいと思ってたんだよな」
「さぁ、楽しませろよ……!」
――そこからの記憶は、断片的な痛みの連続だった。
重い体重がのしかかり、嫌な脂の匂いと、荒い吐息が首筋にかかる。
何人もの手による蹂躙。
心の中で何度も「死にたい」と叫んだ。
だが助けも、死も、訪れはしなかった。
■
――どれくらい時間が経っただろうか。
笑い声と足音が去り、重い静寂が部屋を包んだ。
ミアは冷たい床の上で、ボロボロになった布切れを必死にかき集めた。
震える指で制服の残骸をまとい、剥き出しになった肩と腕に刻まれた、どす黒い手形や痣を隠そうとした。
体中が熱を持ち、内側から壊れてしまったような感覚があった。
「あはは! あいつ、マジで死んだような目してたな」
「明日から学校来ねえんじゃね?」
廊下の向こうから、談笑しながら去っていく連中の声が聞こえてくる。
ミアは隅のトイレへと這うように移動し、個室の鍵をかけた。
鏡は見なかった。
見れば、自分の中に残っている「何か」が完全に消えてしまう気がした。
(――もう、嫌だ)
(――殺してやる。あいつら全員、絶対に、殺してやる)
憎悪。
それはこの都市で最も低い評価を受ける感情だが、今のミアを支えているのは、その汚れた熱だけだった。
涙で滲む視界の中、床に落ちていた情報端末を拾い上げた。
画面は割れていたが、バックライトはまだ生きていた。
そこには、昨夜から開きっぱなしになっていた暗号化掲示板――いわゆる裏サイトが表示されている。
『絶対に許せない奴がいるなら、ホテルの「404号室」を予約しろ』
『そこは存在しないはずの部屋。だけど、本当に絶望している奴がアクセスすると、水色の髪をした復讐代行者が現れるらしい』
『どんな相手だろうと、必ずぶっ潰してくれるってさ』
「……嘘でも、いい……」
掠れた声で呟きながら、ミアの指は書き込みの最後に貼られたリンクアドレスをタップした。
表示されたのは、何の変哲もない、古いホテルの宿泊予約サイトだった。
「……助けて……」
祈るように、ミアの指が「予約確認」のボタンを押した。
画面が一瞬、真っ赤に染まった。
『予約完了。404号室』
直後、端末が激しく震動した。
「っ!?」
端末を激しく押さえ、バイブの音が響かないようにする。
着信。発信元は表示されていない。
ただ三桁の数字『404』が画面の中で静かに明滅している。
ミアは息を呑み、震える指で応答ボタンに触れた。
耳元で、激しい電子ノイズが弾けた。
その奥から氷のように冷たく、どこか無機質な少女の声が聞こえてきた。
『……予約を確認した。依頼内容は』
「ぇ……あ……」
ミアは唇を震わせた。声を出そうとしても、喉が焼けたように熱くて言葉にならない。
沈黙が数秒続いた。少女の声は、急かすこともなくただミアの決断を待っていた。
「……わたし、を……。いじめた人たち、を……殺して……」
『わかった』
少女の声には、迷いも同情もなかった。それが今のミアには、感じたことのない頼もしさを感じさせた。
『ただし……一つだけ確認する』
「え……?」
『依頼には代償が伴う。一度復讐に手を染めればこれ以降、あなたは普通の人間としては生きられない。……覚悟はあるの』
ミアの脳裏に、ボロボロになった自分の体と、崩壊した家庭の光景がフラッシュバックした。
日常?
そんなものは、とっくに粉々に砕け散っている。
「……そんなもの、最初から持ってない……!」
絞り出すようなミアの返答を聞くと、電話の向こうの少女は短く言った。
『契約成立だね』
その瞬間、ミアの視界が真っ白に弾けた。
こめかみの奥に埋め込まれた管理チップがかつてないほどの高熱を発し、彼女の神経回路を焼き切らんばかりに駆動し始めた。
「あ、ああぁぁぁっ……!!?」
頭蓋骨を直接ハンマーで殴られているような凄まじい衝撃。
本来の処理能力を遥かに超える「大量のデータ」が、ミアの脳幹に直接注ぎ込まれていく。
思考が書き換えられ、筋肉の制御権が自分ではない何かに奪われていく感覚。
ミアはトイレの個室でのたうち回り、声を限りに叫んだ。
ダウンロードは、十数秒で終わった。
静寂が戻る。
端末の画面は真っ黒になり、通話は切れていた。
ミアはゆっくりと立ち上がった。
そのままフラフラと個室を出て、鏡の前で立ち止まる。
トイレの鏡に、その顔が映っていた。
汚されたボロボロの少女の顔。
だが、その瞳は――鮮烈な「紅い光」を放っていた。
あの目だ…




