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【依頼人】ありふれた光景

 朝七時三十分。ドーム都市ニュー・エデン。

 下層民が暮らすテラ居住区、第七ブロック。


 ミア・ハーロウは薄暗くカビ臭い集合住宅の通用口から、人工的に作られた朝日の中へと重い足を踏み出した。


 頭上遥か上空には、富裕層や特権階級が住む巨大な空中都市「アルミナ」が浮かんでいる。

 その巨大な人工地盤の影が、今日も貧しい下層の街を薄暗く覆い隠していた。


 学校指定の制服スカートの下で、右足にある大きな青痣が一歩ごとにズキズキと痛んだ。昨日蹴られた場所だ。


 ミアが俯きながら通学路を歩いていると、すれ違う同じ学校の生徒たちは決まって彼女の二メートル手前で不自然に道を開け、避けていく。


 彼らの視界には、網膜に直接投影されるAIからの警告メッセージが赤々と点滅しているのだ。


『警告:対象生徒のスコアは最下層レベルです。接触するとあなたのスコアも低下する恐れがあります』


 生徒たちの体内に埋め込まれた管理チップが、ミアを「関わってはいけない汚物」として自動判定しているのだ。


 ほんの三ヶ月前までは、こんな風に避けられることはなかった。


 ミアの家は決して裕福ではなかったが、両親の愛情を受け、平穏に暮らしていた。

 週末には家族で安いレストランに外食に行き、「いつか上の都市に行きたいね」と笑い合える余裕があった。


 だが、すべてはある朝届いた一通の「解雇通知」から崩れ去った。


 工場で22年間、真面目に働き続けてきた父親の仕事が、新たに導入された新型AIロボットに奪われたのだ。

 人間が22年かけて培った職人の技術を、冷たい機械の腕はたった三日で完全に学習し、追い抜いてみせた。


『人間はもう不要です。明日から来なくて結構です』


 それが、会社からの無慈悲な宣告だった。

 この都市では、仕事を失い評価スコアが底をつけば、電気も水もろくに出ない最下層の貧民街「アンダー」へと真っ逆さまに転落する。


 そして一度落ちた者が這い上がってきた前例は、歴史上ひとつもない。


「ミアの家はもうすぐ最下層に落ちる。あいつはもうすぐ貧民窟のゴミになる」


 その噂は、あっという間に学校中に広まっていた。



 校門のセキュリティゲートを通る際、ミアの管理チップを読み取ったゲートのランプが「黄色」に点滅した。

 スコアがギリギリの警告レベルであることを示している。


 校舎に入り、教室へ向かう廊下で、担任のワイルド先生とすれ違った。


「おはようございます、先生……」


 ミアが小さな声で挨拶すると、四十代の女性教師は一瞬だけ足を止め、ミアの頬に残る昨日の擦り傷を見た。

 だがすぐに能面のような無表情を作り、視線を逸らした。


「……おはよう。遅れないように席に着きなさい」


 それだけ言うと、逃げるように足早に去っていく。


 学校のAI管理システムの下では、「自分のクラスでいじめが起きている」と報告した瞬間に、教師自身の「指導力スコア」が下がってしまう。

 だから教師たちは、生徒が目の前で血を流していようが「見て見ぬふり」を徹底するのだ。


 三年A組の教室の扉を開けると、騒がしかった室内が一瞬で静まり返った。


 28人分の冷酷な視線が一斉にミアに突き刺さり、汚いものを見るようにすぐに逸らされた。


 ミアは俯いたまま自分の席に向かう。

 彼女の席の周囲だけ、まるで伝染病患者を隔離するように机が不自然に離されていた。


「へぇ……来たんだ、貧乏神さん」


 窓際の席で、クラスの中心にいる金髪の少女、シエラがわざと聞こえる声で呟いた。

 彼女は成績優秀で、将来は上層階級へのエリートコースを約束されているグループのリーダー格だ。


「ねぇ、見た? あの子の評価スコア、今朝の更新でまた一段下がってたって」

「えー、マジでやば。もう底辺の貧民レベルじゃん」

「先生に頼んで席替えしてもらえないかな。あんなのと同じ教室の空気吸ってるだけで、私たちのスコアまで悪影響受けそう」

「それな。貧乏って絶対うつるよ」


 クスクス、ゲラゲラとあからさまな嘲笑が教室のあちこちから連鎖する。

 ミアは何も聞こえないふりをして、カバンから教科書を取り出した。


 しかし表紙を見た瞬間、息が止まった。


 余白という余白に、赤い油性ペンで『寄生虫』『クズ』『早く死ね』と、おびただしい数の落書きがされていたのだ。


 昨日の放課後、誰かがミアの机を漁って書き殴ったに違いない。

 消しゴムを持った手が小刻みに震える。


「おい、ハーロウ」

「っ……!」


 突然名前を呼ばれ、顔を上げる。

 クラスで一番羽振りの良い男子、ジュリアンがミアの机の前に立っていた。

 大企業の重役を親に持つ彼は、制服の着こなしからして特権階級のオーラを出している。


「お前の父ちゃん、うちの親父の会社がクビにしてやったんだってな」


 ジュリアンは白い歯を見せて、意地悪く笑った。ミアは唇を噛みしめる。


「……でもお父さんは、まだ会社と再雇用の交渉をしてるって……」


 ミアが絞り出すように言うと、ジュリアンは鼻で大きく笑った。


「親父が昨日の夕飯食いながら言ってたぜ。『あの世代のジジイはもう、工場用ロボットの足元にも及ばない。さっさとゴミ箱に捨てて正解だった』ってさ。無能な親から生まれたお前も、どうせ遺伝子レベルで無能なんだろ?」

「やめて……! お父さんのこと、悪く言わないで!」

「はっ、口答えすんのかよ!」


 ガンッ!!

 ジュリアンが思い切りミアの机を蹴り上げた。机が跳ね上がり、ミアの腹にドンッとぶつかる。


「うっ……!」


 ミアは痛みに顔をしかめ、体を丸めた。

 周囲の生徒たちは誰一人助けようとしない。むしろ面白そうにニヤニヤと眺めている。


 ミアは心拍数が跳ね上がるのを感じた。

 怒りで言い返したかった。だが、喉の奥で必死にその感情を押し殺した。


 ここで彼女が怒りに任せて叫べば、体内の管理チップが「情緒不安定で危険な生徒」と判断し、すべての責任をミアに押し付けてくるだろう。

 AIが支配するこの街では、感情を爆発させた側が「悪」にされるのだ。


「無視かよ? 早く最下層に落ちて消えてくれよ。目障りなんだよ、ゴミが」

「……っ」


 ジュリアンは吐き捨てるように言うと、あくびをしながら席に戻っていった。

 教室の空気は何事もなかったかのように平穏に戻り、授業開始を告げる無機質な電子チャイムが鳴り響いた。



 昼休み。ミアは息を潜めるようにして教室を抜け出した。


 監視カメラが老朽化して壊れている「旧校舎」。

 誰も寄り付かない薄暗いその場所だけが、ミアにとって唯一息を吸える隠れ家だった。


 ――だが、今日はそこにも先回りされていた。


「やっと来た。遅せえよ」

「え……!?」


 旧校舎の薄暗い廊下で、壁にもたれかかったジュリアンが待ち構えていた。

 その後ろにはシエラと、彼女の取り巻きの男女が四人。


 全員、教室にいた時とは違う、獲物をいたぶるような冷酷な目をしていた。


「……どいてよ」


 ミアが後ずさろうとすると、背後に回り込んでいた男子にガシッと両腕を掴まれた。


「ちょっと話があるんだ。来いよ」

「嫌っ! 離して! 触らないで! ちょっ……と!」


 無理やり引きずられ、ミアは抵抗して叫んだ。

 だが男子の強い力には敵わず、旧校舎の奥、使われていないトイレ前の踊り場へと連れ込まれた。


「嫌って言える立場だと思ってんのぉ?」

「やっ! やめてよ!」


 シエラが、カツカツと足音を響かせながらゆっくりと歩み寄ってきた。

 その両手には、掃除用具入れから持ってきたらしい大きなプラスチックのバケツが握られていた。


 中には床掃除に使われた後の真っ黒な汚水が入っており、古い油とカビ、腐ったヘドロのような悪臭が漂っている。


「……ひっ……」

「ねぇハーロウ。今朝、私の評価スコアが0.2ポイントも下がってたのよ」

「なに、それ……私に、関係ない……っ!」

「関係あるのよ。あんたみたいな底辺と同じ教室にいて、空気を汚されてるせいなんだから」


 シエラが顎で合図をした瞬間。

 ドンッ!


「きゃあっ!」


 背後から膝の裏を強く蹴られ、ミアは硬いタイルの床に無防備に倒れ込んだ。


「痛っ……!」


 すかさずジュリアンがミアの上に馬乗りになり、両手首を床に強く押さえつける。


「暴れるなよ。制服が破れても、もう新しいの買う金なんてないだろ?」

「いやっ、離して! やだっ、助けてっ!」


 必死に身をよじって逃げようとするミアを見下ろし、シエラは冷たい笑顔を浮かべた。


「あんたみたいなゴミには、これがお似合いよ」


 バシャアッ!!


「う、ああっ……!?」


 シエラがバケツを傾け、真っ黒なドブ水がミアの頭の上から容赦なくぶちまけられた。

 冷たくて粘り気のある泥水が、髪から額、目や鼻を伝って制服の奥へと流れ込んでいく。


「ごぼっ……! げほっ、ごほっ、うぇっ……!」


 鼻と口に容赦なく入り込んできた泥水を、ミアは激しく咳き込みながら吐き出した。

 ヘドロの強烈な悪臭が鼻を突き抜け、胃酸がせり上がってくる。


「あはは! やばい、マジでドブの匂いがする!」

「底辺の貧民街に落ちたら、毎日こんな感じなんだってさ。今のうちに慣れとけよ!」


 取り巻きの生徒たちが腹を抱えて笑い声を上げる。


「動画撮ろうよ。スコア底辺の末路として、裏のネットに晒してやろうぜ」

「やぁっ! 撮らないで……お願い、やめてっ!」


 顔を隠そうと身をよじるミアの腹部を、ジュリアンが容赦なく蹴り上げた。


「ぐはっ……!」


 肺から空気が抜け、ミアはヒュッと情けない音を立てて床にうずくまった。


「うるせえな! お前はもうただのゴミなんだよ! 大人しく撮られてろ!」


 ガンッ! ドガッ!

 ジュリアンと他の男子たちが、丸まったミアの背中や太ももを何度も靴の先で蹴りつける。


「ああっ! ……っ!」


 痛みに耐えきれず、ミアは悲鳴を上げた。

 泥水と涙が混ざり合い、顔中がぐちゃぐちゃになる。


 殴られるたび、体内の管理チップの心拍計は淡々と彼女の身体的ダメージを記録している。

 だが、システムは絶対に助けに来ない。加害者たちが特権階級だからだ。


 AIは「弱者」を切り捨てるようにプログラムされている。

 それがこの都市の絶対的なルールだった。


「あーあ、制服ドロドロじゃん。汚ねぇ。近寄りたくねえな」

「もういいでしょ。そろそろ昼休み終わるし」


 十分な屈辱を与えて満足したのか、シエラたちはバケツを投げ捨て、笑いながら廊下を引き返していった。

 足音が遠ざかり、旧校舎には静寂だけが残される。


「うぅっ……ひぐっ、あぁ……!」


 ミアは泥水まみれの体を這うようにして動かし、一番奥のトイレの個室へと逃げ込んだ。

 震える手で鍵をかけ、冷たい便器の横で膝を抱える。

 全身が鈍く痛み、口の中にはヘドロの味が残っていた。


「なんで……私が、こんな……っ!」


 声を殺して泣きながら、ミアはカバンから薄型の情報端末を取り出した。


 すがるような思いで、市の「AI市民相談窓口」に緊急ヘルプのメッセージを送る。

 いじめられていること、暴力を振るわれていることを必死に書き込んだ。


 しかし、画面にはすぐに無機質なシステム通知が返ってきた。


『お申し出のトラブルは、監視カメラの記録で確認できませんでした。よって、いじめの事実は存在しません。あなたの申請は「学校の調和を乱す虚偽申告」として却下されました』


 その冷酷な一文を見て、ミアは乾いた笑いを漏らす。

 警察も、学校も、絶対的であるはずのAIシステムでさえもいじめっ子たちを擁護し、絶望に落ちゆくミアを完全に見捨てたのだ。


「……誰も、助けてくれない……。わかってたよ……」


 ミアは泥水に塗れた震える指で、市の公式システムからログアウトした。

今回の都市はネオ・アルカディアと構造がちょいちょい違います! まぁでもそこはね 真剣に追わなくて大丈夫ですよ

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