【断罪】生き残った者たち・Ⅵ
ネオ・アルカディア、イースト区。
その最も薄暗い裏通りの奥に、ムネーモシネー・クリニックはひっそりと佇んでいた。
ホログラム看板すら出していない、サイバネティクス技術からこぼれ落ちた貧困層だけが頼る、小さな闇診療所だった。
剥げかけたコンクリートの外壁。
だが重い鉄扉の内側だけは、最新の医療施設に劣らないほど無菌で清潔に保たれている。
デイヴィッドが、待合室の硬いベンチにゆっくりと腰を下ろした。
折られた右腕は、粗末な合成樹脂のギプスで不格好に固定されている。
臓器ブローカーにえぐられた脇腹の縫合痕は未だに熱を持ち、彼から抜き取られた右目の代わりには、サイズすら合っていない安物のガラス玉の義眼が嵌め込まれていた。
全身が、使い古されたボロ布のようだった。
だが彼はここまで、這いつくばるようにして自分の脚で歩いてきた。
「マクレガーさんですね?」
奥から姿を見せたのは、白髪まじりの小柄な女性医師だった。
白衣の胸元には『ドクター・サエキ』と印字された古い名札。
彼女はデイヴィッドの凄惨な状態を一目見ても、眉を顰めることも、安っぽい憐れみを向けることもなく、ただ淡々と診察室の椅子を引いた。
「中へどうぞ。まず、あなたの脳の状態を正確に診ます」
■
診察室の壁面モニターに、デイヴィッドの脳の断層スキャン映像が投影された。
前頭前皮質から側坐核にかけて、異常な輝度のネットワークが毒々しい赤色で浮かび上がっている。
「報酬系の過活動。ドーパミン受容体の感受性は、同年代の正常値の四分の一まで低下しています。端的に言えば、今のあなたの脳は『普通の幸福』を物理的にほとんど感じ取れない状態です」
サエキ医師は映像を拡大しながら、静かで冷徹な声で続けた。
「幸福を……感じない……?」
「ギャンブルの極限の興奮以外では、快楽物質が出ない。だから食事の味も、妻や子供との温かい時間も、何もかもが灰色で無価値なものに感じられる。それが、あなたの脳を蝕んでいた依存症の正体です」
デイヴィッドは、モニターに映る自分の脳の残骸をただ見つめた。
自分を狂わせ家族を地獄に突き落としたものの正体が、こんなにも鮮明に可視化されている。
言い訳の余地は微塵もない。
同時に、あの狂気の沙汰が単なる「意志の弱さ」だけではなかったという事実が、ほんの僅かにだけ彼の胸の圧迫を緩めた。
「……治るん、ですか」
デイヴィッドの掠れた声が、静かな診察室に響いた。
「完治はしません」
サエキ医師は、残酷なまでに嘘をつかなかった。
「損傷した受容体の一部は、医療用ナノマシンの投与で徐々に修復できます。ただし、ギャンブルへの衝動を生み出す神経回路そのものは、あなたの脳に一生残る。引き金に指をかけるかどうかは、最終的にはあなた次第です」
「……そう、ですか」
「治療は長期戦です。週に二回の通院、最低でも一年。……費用は、あなたの現状を考慮して分割で構いません」
サエキ医師はホロパッドを置き、デイヴィッドの目を真っ直ぐに見据えた。
彼の、左右で色の違う、傷だらけの目を。
「……続けられますか?」
「……続けます」
デイヴィッドは、深く頷いた。
■
最初の三ヶ月は、文字通りの地獄だった。
ナノマシンが脳の報酬系を強制的に修復していく過程で、麻薬の禁断症状にも似た激しい離脱症状が彼を襲った。
止まらない手の震え、強烈な不眠、冷や汗、そして悪夢。
カジノのギラギラとしたホログラムの煌めきが幻覚となって視界を埋め尽くし、脳味噌を掻き毟りたくなる夜があった。
スロットのリールが回る機械音が、どこからともなく耳の奥で鳴り響く日があった。
デイヴィッドは何度も壁を殴りかけて、何度もエミリーに八つ当たりしかけ、そのたびにギプスで固められた自分の右腕を見て、拳を下ろした。
あの夜、感情のない瞳の少女に折られた腕。そして告げられた言葉。
その痛みの記憶だけが、彼を狂気から引き戻す唯一の錨だった。
エミリーは、福祉局が斡旋する日雇いのパート職を見つけた。
給与は最低水準だが、雇用主は事情を知った上で採用してくれた、サエキ医師の患者の一人だった。
家はとっくに借金のカタとして差し押さえられた。
四人の家族はサウス区の最底辺にあるカプセルホテル同然の共同住宅に移り、隙間風の入る六畳一間で身を寄せ合うように暮らし始めた。
長男のトーマスは、学校で「父親がギャンブルで臓器を売られ、家を失った子」と陰口を叩かれるようになった。
娘のソフィアは、環境の変化のストレスで夜中に泣き叫ぶようになった。
デイヴィッドはそのたびに、痛む体で這うようにして娘の枕元に行き、何も言えずにただ隣に座り続けた。
慰めの言葉など見つからなかった。
けれど逃げ出さず、ただそこにいることだけは決してやめなかった。
■
六ヶ月が経った頃、デイヴィッドは片目と片腎の肉体労働者として、イースト区の劣悪な廃材処理場で働き始めた。
かつて保険営業マンとしてスーツを着こなしていた男が、油まみれで悪臭のする防護服を着て、錆びた瓦礫を一日中運んでいる。
腎臓が一つ足りない体は異常なほど疲れやすく、ガラスの義眼は遠近感を狂わせた。
何度も瓦礫の山で転倒し、若い現場監督から何度も怒鳴られた。
日当は、かつて彼がカジノで一秒で溶かした額にも満たない800クレジット。
その半分が闇金の残債の返済に消え、残りの端金で四人が食いつなぐ。
計算するまでもなく、莫大な借金の完済には数十年かかるだろう。
それでも彼は毎朝、歯を食いしばって起き上がった。
――ある日の帰り道。
サウス区とウエスト区の境界を通りかかった時、ネオンの海の中に見慣れた光が混じった。
《ルビー・パレス》。
彼を地獄へ誘った巨大カジノの赤い看板が、路地の奥で蠱惑的に明滅している。
足が、ピタリと止まった。
「――あ――」
心臓が不自然に跳ねる。掌が脂汗でじっとりと濡れる。
脳の奥で、修復されたはずの回路が微かに発火し、甘い囁きが聞こえた。
――あと一回。
一回だけ勝てば、今の苦しい生活から抜け出せる。
デイヴィッドは三秒間、その光を吸い込まれるように見つめた。
そして、作業着のポケットの中のものを、力強く握りしめた。
それはくしゃくしゃに折れ曲がった、小さな紙切れ。ソフィアが学校で描いてくれた絵だった。
四人の人間が手を繋いでいる。
下手くそなクレヨンの文字で『かぞく』と書いてある。
……自分のせいで、父親の絵だけ、やけに端っこに小さく描かれていた。
デイヴィッドは目を固く閉じ、大きく息を吐き出した。
過去の自分をすべて吐き出すような、長い、長い吐息だった。
そして歩き出した。ネオンの光に背を向けて、家族が待つ狭くてカビ臭い共同住宅の方へ。
足を引きずる歩みは決して速くない。けれど、もう止まらなかった。
■
一年が経った。
ムネーモシネー・クリニックの静かな診察室。
モニターに映し出されたデイヴィッドの脳は、一年前のそれとは明らかに異なっていた。
毒々しく赤く燃え上がっていた報酬系のネットワークが、穏やかな青みを取り戻しつつある。
「受容体の回復率、62パーセント。……上出来です」
サエキ医師は初めて、その生真面目な口元を僅かに緩めた。
「まだ道半ばですが、再発の最も危険な時期は越えました。あなたは自分に打ち勝ったんです」
「……ありがとうございます」
デイヴィッドは深く、深く頭を下げた。
診察室を出ると、待合室のベンチにエミリーとソフィアが座っていた。
ソフィアは父親の顔を見るなり、ぱっと立ち上がった。
「パパ、おわった?」
「ああ。終わったよ」
デイヴィッドは屈み込み、娘と目線を合わせた。
右目のガラス玉は、相変わらず光を反射するだけで何も映さない。
だが左目は、娘の笑顔をはっきりと見つめている。
「パパ、今日ね、学校でね――」
ソフィアが嬉しそうに話し始める。
デイヴィッドは、その声を静かに聞いた。
狂おしいスロットのリールが回る音ではない。
万札の束が当たるファンファーレの音でもない。
ただの、七歳の女の子の、たどたどしい日常のお喋り。
それが今のデイヴィッドには、世界で一番美しく価値のある音に聞こえた。
エミリーが立ち上がり、無言で左手を差し出した。
薬指には何もない。あの日質屋に叩き売ってしまった銀の結婚指輪は、もう二度と戻ってこない。
デイヴィッドはその傷だらけの手を、自分の手で包み込むように取った。
愚かな自分のせいで取り戻せないものは、山ほどある。
一生消えない罪の傷は、確かにある。
それでも、まだ握れる手があった。
三人はクリニックを出て、サウス区の雑踏の中へと紛れていった。
上空のドームに設置された人工太陽が、煤けた街並みを薄い金色に優しく照らしている。
どこかの路地裏で、スロットマシンのけたたましい電子音が微かに聞こえた。
デイヴィッドの指先が、一瞬だけビクッと強張る。
「パパ、早く早く!」
ソフィアが彼の手を強く引く。
彼は笑った。ぎこちなく、不器用に。
虚勢を張ったエリートの笑みでも、狂気に満ちたギャンブラーの笑みでもない。
ただの、家族を愛する一人の父親の笑みだった。
エリザベスさんは今もビリビリやってるだけなのでスルーして、次回から新章突入予定です!




