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【断罪】生き残った者たち・Ⅴ

 時間の概念など、とうの昔に崩壊していた。

 電脳の煉獄。何千回目の目覚め。


「……あ……ぁ……」


 ケヴィンは冷たいコンクリートの床に頬を擦り付けたまま、口から涎を垂らし、虚ろな声を漏らした。


 もはや立ち上がる気力もない。

 喉は擦り切れ、悲鳴はとうに枯れ果てていた。


 隣ではアマンダが胎児のように丸まり、ガタガタと痙攣し続けている。

 現実世界の肉体を反映した、ひび割れた唇。栄養失調で散大した瞳孔。

 彼女は時折壊れたおもちゃのように、意味をなさない呟きを繰り返していた。


「……アバター……カワイイ……ワタシ、カワイイ……ミンナノアイドル……」


 それは自己暗示だった。

 崩壊しかけた自我が、最後の尊厳の残骸に縋りつくための悲しい呪文。


 かつては愛を囁き合ったその声を聞いても、今のケヴィンの胸には同情も、苛立ちも、嫌悪すらも湧かなかった。


 何度死んだだろう。

 悪魔の群れに生きたまま内臓を引きずり出され、処刑執行人の錆びた戦斧に両断され、底なしの毒沼にゆっくりと溶かされ、空腹と凍えるような寒さで衰弱死した。


 そして死の苦痛を100%のリアルで味わい尽くした後、再びこのコンクリートの部屋で目覚め、また絶望の荒野へと強制的に放り出される。


 ギャアアア……! キシャアアア……!


 遠くから、あの耳障りな鳴き声が聞こえてきた。

 悪夢の死のループが始まる、次の合図だ。


「……また、来るよ、アマンダ」

「嫌ぁ……もうやだ……もう、やだ……痛いのは、もう……」


 だがその時。

 灰色の荒野の上空で、突然空気が白く軋むような音が響いた。


 突如、天を裂くように一条の光の柱が降り注いだのだ。


「な……!?」


 電流めいた衝撃が、二人の惨めな肉体を細胞レベルで「書き換え」ていく。


 ケヴィンは思わず瞼を固く閉じ――次に恐る恐る目を開いた瞬間、視界の高さが劇的に変わっていたことに気づいた。


「こ、これ……は……」


 見下ろした先にあるのは、見苦しい脂肪の塊ではない。

 黄金比で彫刻された鋼のような筋肉。装飾の施された純白の聖鎧。

 そして腰には、青く神々しい光を放つ伝説の剣《エターナル・ブレイド》。


「何が……起きて……?」


 ケヴィンは震える両手を見つめた。

 太い血管が浮き、どんな硬い骨でも砕けそうな握力。

 かつて自分が何千時間も愛用した「英雄」の手だった。


 隣を見ると、そこには輝く白と聖青のローブを纏った《聖なる賢者アマンダ》がいた。

 艶やかな黒髪、宝石のように透き通る瞳。

 男たちが羨望の眼差しを向けた完璧な女神の肢体がそこにあった。


「ケヴィン、見て! 私……私、戻ったわ!」


 アマンダは信じられないといった様子で、滑らかな自分の腕や頬を、しなやかな指で何度も何度も確かめるように撫で回した。


 それは紛れもなく、《Neo-Paradise》の仮想空間で、現実の娘の食事代を削ってまで育て上げた愛おしい「本当の私」だった。


 視界の右下、システムメッセージが赤い文字で流れる。


【FAIL-SAFE PROTOCOL #2 ACTIVATED】

【Auth: SHOW_404】

【Next trigger: randomized / 0.3〜5.7% per session】

【特殊条件クリア(ウェーブ全撃破)でログアウト可能】


「勝てる……勝てば、出られる……!?」


 ケヴィンの顔に、体感で何千時間かぶりの笑みが戻った。


 だがそれは、かつての堂々たる「英雄の笑み」ではなかった。

 溺れる者が最後の藁を掴むような、醜く浅ましい引きつり笑いだ。


 地平線の向こうから、悪魔の群れが砂塵を上げて押し寄せてくる。

 黒い津波のようにうごめく、千を超える大群。


 だが今の二人の手には伝説級の武具がある。

 ステータスは、このサーバーで設定可能な最強の数値を刻んでいる。

 雑魚が一万匹いようが、無傷で蹂躙できるはずの力だ。


「行くぞアマンダ! 今度こそ……今度こそ、あのクソガキどもをぶっ倒すチャンスだ」

「ええ、ダーリン! 私たちが世界最強だってこと、もう一度証明してやりましょう!」



 最初の一太刀「は」完璧だった。


 ケヴィンが放った《剣聖奥義・疾風剣》が、先頭を走っていた巨大な悪魔を唐竹割りに両断する。

 青い閃光が走り、黒い肉体がポリゴンの粒子となって空高く消し飛んだ。


 背後ではアマンダの《神罰の雷光槍》が幾本も空を裂き、群れの中央を鮮やかに薙ぎ払う。


 マナは無限。クールダウンも瞬時。

 この空間においては、二人のアバターは間違いなく「神」だった。


「おおっ! いけるぞ! どんどん来い!」

「私の魔法……ちゃんと動いてる! あはははっ!」


 歓喜の声を上げながら群れの中ほどまで斬り込んだ、その時だった。


 一匹の小柄な悪魔がケヴィンの剣をすり抜け、彼の足首を浅く引っ掻いた。

 チリッとした感覚。鎧の表面についた、ほんのかすり傷。

 視界の端のHPバーは、1%すら削れていない。


「――ひっ」


 しかしケヴィンの全身が、まるで氷漬けにされたように硬直した。


 引っ掻かれたほんの小さな箇所から、脳の奥深くに刻み込まれた「あの痛み」の記憶が、濁流のように逆流してきたのだ。


(あ――あ、まずい……)


 骨を砕かれる鈍い音。生肉を噛み千切られる熱と激痛。

 生きたまま内臓を引きずり出され、咀嚼される絶望。


 何千回と反復された死の痛覚データが、条件反射となって全身の神経を貫いた。


「あ、ああ……」


 剣を握る手が、痙攣したようにガタガタと震える。

 次の一撃が、どうやっても振り下ろせない。

 筋肉は無敵の英雄のそれなのに、魂が、怯えきった小動物のように竦み上がっていた。


 その一瞬の致命的な硬直を、悪魔の群れは見逃さなかった。


「ギャアアアアアッ!」


 黒い群れが殺到する。

 一匹目が肩の肉を抉る。二匹目が太腿の腱を噛み切る。

 三匹目が――無防備な喉笛に深く牙を突き立てた。


「アマ――ッ」


 助けを呼ぶ声は、喉を食い破る鮮血と牙によって断ち切られた。


「ケヴィ……!?」


 アマンダもまた、恐怖で杖を取り落としていた。

 次に詠唱しようとした《狂炎の咆哮》。

 しかし、その炎のエフェクトを視界に捉えた瞬間、「本物の業火に生きたまま焼かれた記憶」が蘇る。


 身を竦め、悲鳴を上げた一秒後、背中に無数の牙が食い込んだ。


「嫌ッ! やめてやめてやめてぇぇぇ! 痛いッ、痛いぃぃっ!」


 アマンダは魔法を捨てるどころか、最強の武器を手放し、両手で顔を覆って地面にうずくまった。

 美しき女神の肉体が、次々と群がる悪魔の牙に蹂躙されていく。


 スキルは使えた。ステータスは最強だった。

 ただ、戦うために必要なたった一つのもの――痛みと恐怖を押し殺し、前に進むための「意志」――二人には、そんなものはなかった。


 彼らはいかに強大なアバターを着込んだとしても、ただの臆病な肉塊に過ぎなかったのだ。


【PROTOCOL #2 TERMINATED】

【Result: DEFEAT】



 再び、悪臭漂うコンクリートの部屋で二人は目を覚ます。


 重く苦しい、見苦しい脂肪の塊の体。

 栄養失調で骨と皮だけになった体。

 元通り。何一つ、救いはなかった。


「……そう、か」


 ケヴィンは、乾いた笑いを漏らした。

 ヒヒッ、ヒヒヒッ、という、気が狂ったような薄く高い笑い声だった。


「そういう、ことか……あのクソガキ……!」


 ついに理解した。

 あれは希望ではない。慈悲でもない。

 「絶対に勝てない条件で、希望だけを無限に供給する」ための悪魔の装置だ。


 痛みの記憶が染みついたこの精神では、どれほど最強のアバターを与えられようと、傷一つ負った瞬間に恐怖で動けなくなる。


 設計者はそれを完全に理解している。

 知った上で、気紛れな確率で「助かるかもしれない」という甘い餌をぶら下げ続けるのだ。


 いっそ絶望し、完全に諦めてしまえば、精神はある意味で平穏を保てる。

 ただ機械的に食われ続ける肉塊であることを受け入れてしまえばいい。


 だが、この牢獄のシステムはそれを許さなかった。


 何百回に一度、「勝てるかもしれない」「自分は英雄なんだ」という一瞬を挿入する。

 そして二人は、必ずその甘い餌に飛びついてしまう。


 なぜなら――現実の娘を殺してまで守り抜きたかった「英雄でいられる自分」こそが、彼らがこの無間地獄に堕ちた原因そのものだったからだ。


 遠くから、また鳴き声が聞こえてきた。

 ギャアアアア……!


「……なんで……なんでなのよぉぉ……!」


 アマンダは胎児のように丸まる。

 ケヴィンも四つん這いのまま、涙と涎を垂らしながら震えるだけの動物になっていた。


 だが、二人は知っている。

 次に光の柱が降ってきたら――自分たちはまた浅ましい希望にすがり、あの剣を取ってしまう。あの杖を構えてしまう。

 結末がどうなるか分かっていようと。それが何万回目だろうと。


 ポッドの電源が落ちるか、現実の肉体が腐り落ちて完全に死ぬその日まで。

 彼らは英雄の幻影を追いかけながら、永遠に無様に食い殺され続けるのだった。



 シェルター《ホープ・ハウス》。

 朝の人工光が、ふんわりと降り注いでいた。


 食事を終えた子供たちが庭に出ていく。

 リナはトビの手を引いて、玄関先へ足を向けた。

 洗濯物を取り込む籠をカイから頼まれたのだ。


 ドアを開け、路地に一歩踏み出した時。


 ――なんでなのよぉぉぉ……。

 ――誰か助けてくれぇぇ……。


 風の隙間に、微かに、そんな声が混ざった気がした。


「……ッ」


 リナは反射的に振り返った。

 そこには誰もいなかった。

 ただサウス区の乾いた風が、路地のゴミを転がしていくだけだった。


 幻聴だ。

 あるいは風に乗って届いた、遥か彼方の誰かの絶叫。


 リナは少しの間、その風の先を見つめていた。

 何かを思い出そうとして、何も思い出さないことに決めた。


「お姉ちゃーん!」


 背後から子供たちの声が響いた。

 振り返ると、トビが庭先で手を振っている。その隣で新しくできた友達が笑っていた。


「早く早く! 花壇のとこ、一緒に見ようよ!」

「……今行く!」


 リナは洗濯物の籠を抱え直し、駆け出した。足取りは軽かった。

 路地の向こうの風の声は、やがて完全に聞こえなくなった。

子供たちは幸せそうなのでよかったね

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