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【依頼人】女帝の手

「任せて。知り合いをあたってみる」


 最初に動いたのはリサだった。

 彼女はかつて物流業界で培った人脈から、「独立系ジャーナリスト」たちのリストを呼び出した。


 三人は数日かけて、銀行による不正な遅延工作の証拠をまとめた。


 入金エラーのタイムスタンプ、銀行側の不自然な回答ログ、そして理不尽な遅延損害金の請求書。

 それは、エリザベスという「聖母」の仮面を剥ぎ取るのに十分な、血の滲むような告発ファイルだった。


「これを見せれば、街は黙っていないわ。どんなに大きな銀行だって、世論を敵に回せばタダじゃ済まないはずよ」


 リサは震える指で送信ボタンを押した。


 反応は早かった。

 イースト区を拠点とする二つの独立系ニュースサイト――巨大資本の息がかかっていない、骨のあるメディアが食いついた。


 だが、その「真実」がネットワークを駆け巡ることはなかった。


 翌日、一つ目のサイトはリサとの連絡の一切を断った。二つ目のサイトに至っては、ドメインごと消滅していた。


「なんなのよ、これは! どういうことなの!?」


 そうしてリサが強い剣幕で電話をかけると、友人は震える声で囁く。


『……ごめんなさい、リサ。もう連絡してこないで』

「……何があったの!?」

『私の全資産が「不審な取引」として凍結された。上層部は、これ以上銀行に触れるなら私の記者ライセンスを剥奪するって……。悪いけど、私はヒーローじゃない。ただの、生きていかなきゃいけない人間なのよ』


 通信が切れた後の沈黙の中で、リサは恐怖に肩を震わせた。



「メディアが腰抜けなら、直接『大衆』に叩きつけてやるまでだ」


 次に動いたのはマルクだった。


 彼はタイラー・ノックスという男に接触した。

 チャンネル登録者数百万を誇り、権力を嘲笑う動画で絶大な支持を得ている「ストリートの代弁者」だ。


 マルクから証拠を受け取ったタイラーは、ニヤリと笑って自慢の義手を鳴らした。


「最高にクールなネタだ。あのヴァンダービルトのババアに、特大の泥を塗ってやるよ。見てな、兄弟」

「ああ……! 頼むぞ!」


 ――その夜、タイラーの配信は始まらなかった。


 タイラーのチャンネルは「規約違反」として即座にBANされ、停止されていた。

 翌朝、マルクの端末に届いたタイラーからのメッセージには、前夜の威勢の良さは欠片もなかった。


『悪りぃ。俺のスポンサー契約が全部ブッ飛んだ。おまけに、妹が通ってる学校の奨学金まで打ち切られちまった。……悪いが、これ以上は無理だ。二度と連絡するな』


 ケヴィンが端末を壁に叩きつけた。火花が散り、プラスチックの破片が床に転がる。


「あいつ……! 家族を盾に取られて、あっさり尻尾を巻きやがった!」

「責められないわよ……」


 リサが顔を覆った。


「エリザベスは、相手の『急所』がどこにあるか把握してるのよ」


 その後も、協力者たちの周囲で「偶然の不幸」が相次いだ。


 協力を申し出た市民団体は、活動資金の不透明さを理由に強制捜査を受けた。


 勇気を持って立ち上がったはずの老弁護士は、過去の些細な事務手続きのミスを突かれ、弁護士会から「資格一時停止」の勧告を受けて沈黙した。


 エリザベス・ヴァンダービルト。


 彼女は銃を使わない。兵士も送らない。

 ただ相手の足元を支えている地面を、静かに、そして確実に削り取っていくのだ。


 仕事、家族、資格、信用。

 彼女という「システム」に刃を向けた者は、戦いのリングに上がる前に、呼吸をするための酸素すら奪われる。


 そして、追い打ちをかけるように銀行から新しい契約書が届いた。


「なんだよこれ……!? もうメチャクチャだぞ!」


 累積した損害金と調査費用は、今や150万クレジットという絶望的な数字に膨らんでいた。


 『債務履行能力の著しい低下』。

 その冷酷な診断書とともに突きつけられた新条件は、もはや契約ではなく「奴隷宣告」だった。


「金利30パーセント……? 返済期間を二年に短縮して、さらには『事業運営権』の委託だと……?」


 ケヴィンが震える声で読み上げる。


「これにサインしたら、この会社はもう、俺たちのものじゃなくなるぞ……!」

「でも、拒否したらどうなるの?」


 リサが枯れた声で聞く。


「……即時全額返済だ。できなければ、法的手続き――つまり、僕たちは『債務奴隷』として施設送りになる」


 マルクは静かに言った。


 三人はかつて夢を語り合った狭いオフィスで、自分たちの「翼」がもがれていくのをただ見守ることしかできなかった。



 それから三ヶ月。

 破滅は事務的に、淀みなく進行した。


 最初にやってきたのは、銀行が派遣した「経営アドバイザー」という名の監視員たちだった。


 彼らは無機質な灰色のスーツに身を包み、全ての決断に「承認」という名のストップをかけた。

 ドローンのバッテリー一個の購入でさえ、彼らの冷たい目が光る。


 マルクの情熱も、ケヴィンの技術も、リサの几帳面さも。

 全てが「コスト削減」という大義名分のもとに管理される。


「おい、それは俺のプログラムだぞ……!」

「いいえ。こちらは差し押さえさせていただきます」


 次に消えたのはケヴィンの「魂」だった。


 彼が血を吐く思いで書き上げた『配送最適化アルゴリズム』。

 それは「債務の担保」として銀行の資産管理部門に接収された。


 特許申請の欄に記載された開発者の名は、ケヴィン・ラウではなく『ネオ・バンク・アルカディア知的財産管理部』。


「俺の名前がない……俺が生んだコードなのに、なんで俺の名前がどこにもないんだ……!」


 ケヴィンの叫びは、銀行が雇った一流の弁護士たちの「契約通りです」という一言にかき消された。


 そして最後の日が来た。


 月曜日の朝、オフィスに向かった三人を迎えたのは、電子ロックの不吉な拒絶音だった。


『ERROR。認証されていません』

「は……? おい、待て。このロックはなんだ!?」

「マルク! 見て、プレートが……!?」


 扉には、昨日まではなかった冷たい真鍮のプレートが掲げられていた。


『スカイランナー・ロジスティクス株式会社――ネオ・バンク・アルカディア、フィナンシャル・グループ傘下』


「は――」


 自分たちの居場所だったはずの部屋の鍵を、自分たちが持っていない。


 扉の向こうからは見知らぬ社員たちの話し声と、聞き慣れたサーバーの唸り声が聞こえてくる。


「……終わったんだな」


 ケヴィンは力なく呟くと、一度も振り返らずに階段を下りていった。

 リサはその場にへたり込み、音もなく涙を流した。


 マルクは、その新しいプレートをじっと見つめていた。


 一年前、この部屋で三人で合成ビールを飲み、「世界を変えよう」と誓い合ったあの夜。


 あの時の熱気だけは、誰にも奪えないはずだと信じていた。

 だが現実はそれさえも上書きし、無慈悲な数字へと書き換えてしまった。


(…………)


 ビルを出ると、イースト区の濁った空をドローンが飛んでいた。


 スカイランナーのロゴを背負い、正確に、効率的に、人々の荷物を運んでいる。

 それはかつて、彼らが夢見た光景そのものだった。


 だがそのドローンが稼ぐ一銭一銭は、今や自分たちを地獄へ叩き落としたエリザベスのワイン代へと消えていく。


「……まだだ」


 マルクは、爪が食い込むほどに拳を握りしめた。


 法も、銀行も、世論も彼を見捨てた。

 ならば、残された道はただ一つ。


「絶対に許さないからな……!」


 ――「力」によって、奪い返すだけだ。



 マルクの脳裏には、もはや論理的な「計画」など存在しなかった。


 強いて言えば、魂の叫びをぶつけること。それだけが、彼を動かす唯一の燃料だった。


 証拠。これまでの不当な取引、システム操作のログ、仲間たちの血を吸い上げるようにして奪われた権利の記録。

 それら全てを網膜ディスプレイに投影し、エリザベスという女の正体を公衆の面前で暴き立てる。


(……うまくいくわけがない)


 ……それがどれほど無謀な特攻か、冷静な部分では理解していた。


 メディアも、法も、市民団体も、彼女が指先一つ動かすだけで音もなく消されてきたのだ。

 路地裏の若造が一人で乗り込んで何が変わるというのか。


 だが、引けなかった。

 会社は奪われ、資金は枯渇し、ケヴィンとリサの瞳からは光が消えた。


 このまま無言で「処理」されるのは、自分の存在を否定するのと同じだった。


 ネオ・バンク・アルカディアの本店は、あの契約の日と変わらず堂々とそびえ立っていた。


 空気清浄機が吐き出す無味無臭の酸素、シャンデリアが反射する計算された光。


 マルクはエントランスを無言で通り抜け、呼び止める声を無視して頭取室直通のエレベーターへと足を踏み入れた。


「お客様、少々お待ちください。入館証の確認が済んでおりません」

「うるさい! どけっ……」


 マルクは足を止めない。指先が32階のボタンを乱暴に叩く。

 だが、扉が閉まる寸前、鋼鉄のような力で肩を掴まれた。


「……っ!?」


 振り返ると、そこにはスーツの下に強化筋肉を潜ませた、警備部門の男たちが二人立っていた。

 受付スタッフの微笑みは一瞬で剥がれ、冷徹な監視者の目になっている。


「ご予約のないお客様は、一階の応接スペースにて対応させていただきます。……穏便に、願えますか?」

「くっ……エリザベス・ヴァンダービルトに会いに来た! 彼女が僕たちに何をしたか、直接問い質す権利があるはずだ!」

「頭取は多忙です。まずは、こちらのコンソールで面会申請を――」

「ふざけるな! 契約の時はあんなに愛想が良かったくせに、奪うものを奪ったらこれか!」


 マルクの叫びが、静謐なエントランスを切り裂いた。

 高価なスーツに身を包んだ来客たちが、眉をひそめて振り返る。


「あんたたちの銀行がやった、汚い工作の証拠は全部ここにある! 隠し通せると思うなよ!」


 警備の男たちは何も答えなかった。

 代わりに死角からさらに三人の男が現れ、マルクを包囲網の中に閉じ込めた。


 抵抗する暇もなかった。

 腕を捻り上げられ、冷たい壁に押しつけられる。

 一人の男が、熟練の動作でマルクの全身を走査し始めた。


「放せ! ぼっ……暴力で口を封じるつもりか!」


 男の手が、マルクの防刃ジャケットの内ポケットで止まった。

 感触を確かめるような一瞬の沈黙の後、引き出されたのは――鈍い光を放つ、黒い拳銃だった。


「……ッ!?」


 マルクは自分の目を疑った。

 そんなはずはない。自分が持ってきたのはデータ端末だけだ。


 だが目の前には確かに、マットな質感のポリマーフレームの拳銃があった。

 男がそれを透明な証拠品袋に入れ、周囲に見せつけるように掲げる。


「客人が、凶器を所持しています。……確保」


 周囲の空気が一変した。

 来客たちが悲鳴を上げて距離を取り、スタッフたちが訓練された動きで身を隠す。


「……違う、それは僕のじゃない! 誰かが入れたんだ。お前だろう!?」


 声が震え、裏返った。必死の否定が、これ以上なく惨めな言い訳に聞こえる。


 リーダー格の男が、耳元の通信機に囁いた。

 数秒の後、彼は意外な表情でマルクを見据えた。


「頭取がお会いになる。……直接、お叱りを受ける光栄を授かったようだ」


 その口調には、捕食者が獲物を弄ぶような、残忍な愉悦が混じっていた。



 両腕を固められたまま、マルクは32階へと引きずり上げられた。


 扉が開く。濃紺のカーペット、窓の外に広がるドームの絶景。

 光景は三ヶ月前と何も変わっていない。

 だが、その中心に座る人物から放たれる「圧」が、以前とは根本的に異なっていた。


 エリザベス・ヴァンダービルトは、広いデスクの前に毅然と立っていた。


 隙のないダークグレーのスーツ。控えめに輝くダイヤ。完璧に整えられた髪。


 彼女の姿は、以前と同じ「聖母」のそれだった。

 だが、マルクを見つめるその瞳には、一滴の体温も宿っていない。


「チェンバレンさん」


 エリザベスが静かに口を開いた。


「こまたお会いできるとは。ですが、再会の挨拶としては、少し物騒すぎませんか?」


 スタッフが、証拠品の銃をデスクの上に置いた。エリザベスはそれを一瞥さえせず、蛇が獲物を射抜くような眼差しでマルクを見つめた。


「凶器を隠し持ち、当行の頭取室に強行侵入を試みた。……これはもはやビジネスの範疇ではありません。直ちに当局に引き渡し、一生を更生施設で過ごさせることもできますのよ」

「……茶番はやめろ。その銃は、あんたの部下が仕込んだものだ。僕を黙らせるために!」

「証明できますか?」


 エリザベスは残酷なトーンで言い返した。


「この銀行内の全ログ、カメラの記録、警備員の証言。その全てが、あなたが『テロリスト』であることを証明するでしょう。……この都市で、私の言葉以上に正しい真実など存在しないのです」


 マルクは言葉を失った。全身の血が凍りつくのを感じた。

 彼女は隠すつもりさえない。自分の力が、世界の理そのものであると宣言しているのだ。


 その瞬間、エリザベスの表情がゆっくりと崩れた。

 それは微笑みではなかった。


「ふ、ふ……クククッ……」


 温かさという名の「皮膚」が剥がれ落ち、その下から剥き出しの捕食者の本性が覗く。


 彼女の目は、もはやマルクを人間として見ていなかった。

 利益を生むか、産まないか。ただそれだけを判別する、機械的な「査定」の目。


「正直に申し上げましょうか、マルクさん」


 エリザベスはデスクの縁に優雅に腰を預け、腕を組んだ。


「あなたの会社には、最初から目をつけていました。あのアルゴリズム。配送ネットワーク。……買収を提案しても、あなたのような理想主義者は断ったでしょう? だから、私は『効率的』な手段を選んだ。ただそれだけのこと」

「……あの入金エラーも、全てあんたが……!」

「私どものエンジニアが、少しばかり優秀すぎたようです」


 エリザベスは、くつくつと喉を鳴らして笑った。

 それは獲物を網に追い込んだ蜘蛛の、静かな満足だった。


「――――」


 マルクは立ち尽くしたまま、目の前の怪物を凝視した。


 エリザベス・ヴァンダービルトは、ゆっくりと重厚な椅子に腰を下ろした。

 足を組み、ガラスのような瞳で窓の外のセントラル区を見つめる。


「さて、チェンバレンさん。これからどうするか、一緒に考えましょうか」

おばはんヴィランはもしかして初か…?

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