【依頼人】権力の女王
セントラル区。
そこは選ばれた者たちが、人工知能が管理する完璧な空気を吸い、高度な医療ナノマシンで永遠の若さを享受する場所だ。
ネオ・バンク・アルカディアの本店は、その中心地で「聖域」のようにそびえ立っていた。
ミラーガラスに反射する陽光は攻撃的なまでに白く、エントランスの大理石は塵一つなく磨き上げられている。
「……なんだよ、ここ。空気が薄すぎて吐き気がするぜ」
ケヴィンが慣れないネクタイを指で弄りながら毒づく。
リサは無言で、手にしたタブレットの暗号化設定を何度も確認していた。
マルクもまた、胃を握り潰されるような緊張感を押し殺し、自動ドアの向こう側へと足を踏み入れた。
「チェンバレン様ですね。お待ちしておりました」
受付の女性は、人間かアンドロイドか判別がつかないほど完璧な笑みを浮かべた。
「32階、頭取室へご案内いたします」
「よ、よろしくお願いします……」
専用エレベーターは、重力を感じさせない滑らかさで上昇した。
32階。扉が開くと、そこにはイースト区の雑踏とは無縁の静寂があった。
深海のような深い藍色のカーペット。
壁を飾るホログラム・アートは、見る者の感情に合わせて色彩を変える。
「どうぞ、お入りください。若きパイオニアの皆さん」
秘書に促され足を踏み入れた先、広大なデスクの後ろに「彼女」はいた。
エリザベス・ヴァンダービルト。
データ上は50代だが、目の前にいる女性は――熟れきった果実のような妖艶さと、氷のような理知を兼ね備えた――30代にしか見えない。
彼女が立ち上がると、仕立ての良いスーツの生地が微かに衣擦れの音を立てた。
「ようこそ、マルクさん。ケヴィンさんに、リサさんも。お会いできて光栄だわ」
彼女は三人の名前を愛おしそうに呼び、一人一人の目をじっと見つめて握手を交わした。
その手は驚くほど柔らかく、そして不気味なほど温かかった。
「事業計画書、隅々まで拝見しました。素晴らしい……いえ、感動したと言ってもいいでしょう」
彼女は三人を最高級の革製ソファへ促すと、自ら紅茶を淹れ始めた。
「スカイランナー・ロジスティクス。大手が切り捨てたスラムの毛細血管を、あなたたちのドローンが繋ぐ。それは単なるビジネスではなく、この都市への救済よ。私は、そういった『魂のある事業』に投資したいの」
「こ、光栄です、ヴァンダービルト頭取」
マルクは背筋を伸ばした。彼女の言葉には、不思議と人を酔わせる香気がある。
「融資額300万、金利5パーセント……条件はこれで? 本当にいいんですか?」
慎重なリサが問いかけると、エリザベスは慈母のような微笑みを浮かべた。
「ええ。私たちはパートナーですもの。銀行家というのは、数字を数えるだけの機械じゃない。未来を信じる冒険者の、背中を押す風であるべきなのよ」
その言葉に、ケヴィンの顔からも警戒の色が消えた。
三人は、空中に投影されたホログラフィック・ディスプレイの契約書に電子署名を刻んだ。
エリザベスは満足げに目を細め、「成功を祈っています」と三人を送り出した。
あっという間に銀行を出た三人は、セントラル区の眩い日差しの中で、拳を突き合わせた。
「やったな! これで俺たちの天下だ!」
ケヴィンが叫び、リサも少しだけ頬を緩めた。
マルクは空を見上げた。あんなに遠かった空が、今はすぐ手の届く場所にあるように感じられた。
■
300万クレジットの重みは、劇的な変化をもたらした。
翌週には、最新のセンサーを搭載した『ハミングバード型』ドローンが十五台、オフィスのラックを埋めた。
増強されたサーバーが低く唸り、イースト区の隅々にまで「スカイランナー」のロゴが躍るようになった。
「新規採用のサラです! よろしくお願いします……!」
新しく加わったカスタマー担当のサラ・トンプソンが、太陽のような明るさでオフィスを活気づける。
「……リムだ。機体の整備は任せろ」
寡黙な元軍用整備士ジョー・リムも、その卓越した腕でドローンの稼働率を限界まで引き上げた。
売上は爆発した。月商は百万を突破。返済計画も完璧。
(……やった。やったんだ、俺たち)
マルクは確信していた。
自分たちは選ばれたのだと。この街の地獄から、抜け出せるのだと。
――だが。
運命の歯車が狂い始めたのは、融資を受けて四ヶ月目のことだった。
「マルク、ちょっと来て……これ、変なのよ」
月曜の朝。
リサの声が、冷たい緊張を帯びていた。
「どうした? 何事だ?」
「入金データが反映されてない。顧客側からは決済完了の通知が出てるのに、うちの口座がカラのままなの」
「……システムエラーか? ケヴィン、サーバーを見てくれ」
マルクが指示を飛ばすが、ケヴィンは頭を抱えて唸っている。
「おかしい……こっちのログは完璧だ。銀行側の受取ゲートウェイで、データが『未処理』のまま凍結されてやがる。アクセスしようとしても、プロトコルエラーで弾かれるんだ」
嫌な予感が、マルクの背筋を這い上がった。
彼は即座に銀行のカスタマーサポートを呼び出した。
だが画面に現れた担当者の顔は、以前の親切な微笑みを失い、冷淡な事務用アンドロイドのようだった。
「なぁ、どうなってんだよ? こっちはたしかに振り込んだぞ!」
『お問い合わせの件ですが、現在、銀行システム全体でセキュリティアップデートを行っております。お客様の口座への反映には、今しばらくお時間をいただく可能性がございます』
「そんな悠長なこと言ってられないんだ! 従業員の給料、ドローンの維持費、今週中に払わなきゃいけない金があるんだよ!」
『ご理解はいたしますが、技術部門の回答を待つほかございません。あしからず』
通信が一方的に切られた。
数日が経っても状況は変わらなかった。
マルクは焦燥に駆られ、支店の窓口に乗り込んだが、返ってくるのは「調査中」「本店確認中」という、壁に向かって喋っているような無機質な言葉だけだった。
そして。
その日の深夜、マルクの個人端末に一通の「通知」が突き刺さった。
『警告:返済遅延に関する最終通告』
「な……んだって?」
画面の文字が、血の色のように赤く点滅している。
『本日、融資第4回分の引き落としが実行できませんでした。残高不足による履行遅滞。契約書第十二条に基づき、年利二十パーセントの遅延損害金を加算。また、貴社の信用スコアを「D」にランクダウンいたします』
「おいふざけるな……ふざけるなよ!」
マルクは叫び、デスクを叩いた。
「入金が反映されないのは、そっちのミスだろうが! 自分の銀行で止めておいて、残高が足りないから損害金だと!?」
「……ねえマルク、これを見て」
リサが震える指で、契約書の詳細画面を開いた。
「第十二条の注釈……『いかなる理由であれ、当行のシステム処理の遅延は、債務者の返済義務を免除するものではない』。……これ、まさか最初から……」
「わざとか?」
ケヴィンが低い、唸るような声を出した。
「俺たちの金を、銀行の入り口で止めて、意図的に『滞納』を作り出してるのか?」
「まさか。天下のヴァンダービルトが、そんなケチな真似を……」
マルクは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
彼女が握手の時に見せた、あの吸い付くような温かい手。あの微笑み。
あれは「パートナー」を見る目ではない。
屠殺場に並ぶ「家畜」の成長を喜ぶ、商人の目だったのではないか。
(……まさか。違う。俺たちは成功した。そのはずだ……)
■
翌週、ようやく入金が反映された。
だが、そこからは「遅延損害金」と「システム調査手数料」として莫大な額が自動的に差し引かれていた。
抗議の電話をかけても、担当者は冷たく言い放つだけだった。
『お客様。すべては契約書に基づいた適正な処理です。文句があるのなら、法廷でお話ししましょうか?』
……三ヶ月続いた好景気の利益は、一瞬で消えた。
サラには給料を待ってもらい、ジョーは無言で中古の部品を拾い集めて修理に充てている。
オフィスは再び、熱暴走するサーバーと暗い溜息に包まれた。
「弁護士を……弁護士を雇おう」
マルクが絞り出すように言ったが、リサは力なく首を振った。
「無理よ。大手銀行を相手に戦える弁護士の着手金は、今の私たちの全資産より高いわ。……それに、あの契約書には、裁判地さえも銀行側に指定する条項が入ってる。……詰んでるのよ、マルク」
「……ちっくしょう! ふざけるなよ! なんだこれは!? なんのつもりなんだッ!」
その慟哭のような叫びに、答えるものは誰もいなかった。
唸りを上げるサーバーの音以外には。
外では、イースト区の暴力的なネオンが嘲笑うように明滅していた。
あんなに美しく見えたドローンのライトが、今は自分たちを監視する死神の目のように見える。
マルクは暗闇の中で、エリザベス・ヴァンダービルトの美しい顔を思い浮かべた。
(くそっ……あの、女……!)
彼女は今頃、セントラル区の最上階で自分たちの「絶望」を肴にワインを嗜んでいるのだろうか。
「……まだだ」
マルクは拳を握りしめた。
「まだ、終わってない。……何か、方法があるはずだ」
法律。メディア。市民の声……なんでもいい。
あるはずだ。絶対的な権力者に抗う方法は、必ず。
そこで真っ先に404号室が出てこないから君はだめなのだ
まぁこの段階でカーバンクルさんが動いてくれるかはぶっちゃけ怪しいんですけどね…




