【依頼人】空を翔ける希望
「龍鳳酒楼」の個室には、重苦しい沈黙と冷めた油の匂いが満ちていた。
円卓には三つの皿が並んでいる。
肉汁のない小籠包、パラつきを失った炒飯、そしてどす黒いソースが糸を引く青椒肉絲。
イスラは箸を置き、刺繍入りの白いナプキンで口元を丁寧に拭った。
彼の純白のスーツには、この不潔な街の塵ひとつ、ソースの一滴すら付着していない。
「二人目は、エリザベス・ヴァンダービルトだ」
イスラの透き通るような声が、静寂を切り裂く。
対面に座るカーバンクルは微動だにせず、彼を見つめていた。
「ネオ・バンク・アルカディア頭取。公称年齢52歳。だがアンチエイジングのナノマシンを全身に循環させ、外見は三十代のまま固定されている。表向きは、この歪な経済圏を支える聖母のような銀行家。だが、その実態は――」
イスラは一度言葉を切り、無機質な炒飯の山を見下ろした。
プラチナブロンドの髪が、天井の明滅するホログラム照明を反射して冷たくきらめく。
「債務という名の鎖で人間を繋ぎ、利息という名の鞭で皮を剥ぎ、最後にはその『生体機能』すら商品に変えて売り捌く――美貌の皮を被った高利貸しさ」
■
イースト区、スラムの熱気と排気ガスが混ざり合う雑居ビルの三階。
マルク・チェンバレンは、熱暴走寸前のサーバーラックが発する唸り声の中で、ディスプレイに映し出される数字を追っていた。
26歳。慢性的睡眠不足で痩せこけた体に、サイズの合わない型落ちの防刃ジャケット。
茶色の髪は乱れ、指先はキーボードを叩きすぎたせいで震えている。
画面上の折れ線グラフは、前月比12パーセントの成長を示していた。
この弱肉強食の都市において、それは奇跡に近い右肩上がりだった。
「マルク、プロトタイプの実機テスト、終わったぞ」
奥の作業ブースから、相棒のケヴィン・ラウが、太い腕を振りながら現れる。
度の強い丸眼鏡の奥の目は充血し、"Code is Poetry"とスローガンが書かれたTシャツは、汗とエナジードリンクのシミで変色していた。
「まったく……何日風呂入ってないわけ、あなたたち? 臭いんだけど」
その隣には、チームの紅一点、リサ・カワムラが控えている。
黒髪をタイトなポニーテールにまとめ、最新のタブレットを抱えた彼女の表情は、呆れと笑いが混ざっていた。
「しょうがないだろ? そんな時間がなかったんだよ」
「でもそのおかげで、ついにできたぞ! カメラと地図データ、両面から軌道を自動調整するドローンだ」
「よし、見せてくれ。僕たちの『翼』を」
マルクは椅子を回し、二人のもとへ歩み寄った。
三人が拠点とするこの狭いオフィスは、ハイテクなゴミ溜めだった。
壁際には冷却液が漏れ出した中古サーバーが並び、床には神経接続用のケーブルが蛇のように這い回っている。
窓の外では、イースト区のネオンサインが、毒々しい色彩で夜の帳を塗り潰していた。
ケヴィンが端末を操作すると、中央のプロジェクターから青白いホログラムが展開された。
それは、複雑に入り組んだドーム都市の「隙間」を縫うように飛ぶ、小型ドローンの視点映像。
企業の看板を巧みに回避し、違法な増設建築の合間をすり抜け、正確無比に指定されたバルコニーへと荷物を届ける。
「平均配送時間、12分14秒。誤差、コンマ数ミリ。独自の適応型AIが、都市の気流と違法建築、電磁ノイズを完全に学習したわ」
リサが淡々と、だが誇らしげにスペックを読み上げる。
彼らが立ち上げた『スカイランナー・ロジスティクス』は、巨大資本が無視する――地図に載らないようなスラムの深部まで、荷物を届けるサービスだった。
いつジャンキーが自爆するかわからないこのネオ・アルカディアにおいて、家の外に出ず買い物ができるメリットは大きい。
だがサウス区のほとんどやイースト区では、その輸送ルートが整っていないのが現実だった。
「完璧だ。これなら勝てる」
マルクは胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
一年前、彼らは何者でもなかった。
大企業の使い捨ての歯車になることを拒み、中古の配送ドローンを五台、ジャンク屋から買い叩くことから始めた。
寝る間も惜しんでコードを書き換え、センサーの感度を極限まで高め、一軒一軒、路地裏の飲食店を回ってテストに協力してもらってきた。
「だがここが限界だぞ。マルク」
ケヴィンが眼鏡を押し上げ、現実という名の冷水を浴びせかける。
「今のサーバーじゃ処理落ちが酷い。ドローンもあと三十台は追加しなきゃ、需要に追いつけない。何より、このビル自体の電力が足りねえ。次は産業用のバッテリーが必要だ。……ざっと見積もって、三百万クレジットはかかる」
「人手もそうよ」
リサが補足する。
「24時間体制のメンテナンス要員、それにカスタマーサポート。今の私たちじゃ、もう一秒も余裕がない」
マルクは沈黙し、窓の外を見つめた。
需要はある。技術もある。だが、資本……エンジンがない。
自分たちの貯金はとっくに底をつき、リサは夜に闇スロットの店番、ケヴィンは違法チップの製造で、なんとか会社を維持するための小銭を稼いでいる。
マルク自身、ここ数ヶ月、まともな固形物を口にしていない。
「……融資を、受けるべきか」
その言葉に、室内の温度が一度下がった気がした。
自分たちの腕一本でやっていく。それが彼らの矜持だった。
だが、目の前には「飛躍」か「腐敗」かの二択しかない。
「……マルク、それは」
「ネオ・バンク・アルカディアなら、スタートアップ向けの『特別育成枠』があるわ」
「リサ!」
リサが、少し躊躇するような声音で提案した。
「金利は年5パーセント。他所の銀行の半分以下よ。審査スピードも速い。私たちの成長率なら、無担保で通る可能性がある」
「でも、銀行だぞ!」
ケヴィンが顔を顰めた。
「あいつら、血の代わりに利息が流れてる連中だぜ。担保だ何だと言って、最後には魂まで持っていかれるんじゃねえか?」
「だがこれ以上、立ち止まっている余裕はないんだケヴィン。僕たちの技術が他所にコピーされる前に、市場を獲らなきゃならない」
マルクは決意を込めて言った。
「……ったく。わかったよ。なら、急いでやるぞ。俺は何をすればいい?」
「そう来なくちゃな! ケヴィンは説明資料を作ってくれ!」
「じゃ、私は収支の資料ね。よろしく!」
――その夜、三人は汚れたデスクを囲み、事業計画書を磨き上げた。
リサは一円単位の収支予測を弾き出し、ケヴィンはアルゴリズムの優位性を証明し、マルクは未来への情熱をプレゼン資料に変えた。
朝、人工太陽がドームを白く染める頃……彼らは完成したデータを銀行のゲートウェイへ送信した。
■
――その回答は、驚くほど迅速だった。
三日後の午後、マルクの網膜にゴールドの通知アイコンが点滅した。
『融資審査:承認。契約手続きを開始してください』
「え……!?」
マルクはとても信じられなかった。口元に手を当て、そして弾かれたように二人を呼ぶ。
「おい……おい、通ったぞ! 三百万クレジット全額だ!」
マルクの叫びに、居眠りしていたケヴィンが椅子から転げ落ち、リサの手から合成コーヒーのカップが滑り落ちた。
融資額、300万。金利5パーセント。返済期間、5年。
それは地獄で見つけたクモの糸のように、あまりにも美しく、完璧な条件だった。
「マジかよ……神様ってのは本当にいたんだな」
ケヴィンの声が震える。リサは言葉を失い、ただ静かに涙をこぼした。
これで、最新型の『ハミングバード型』ドローンが買える。
冷却効率の高い新型サーバーを導入できる。
まともなオフィスに引っ越し、エンジニアを雇える。
スカイランナー・ロジスティクスは、本当の意味で空を飛べるのだ。
「よっしゃ……! 祝杯を上げよう!」
「まったく、金がないってのに! でもやるしかねぇな!」
「もう……予約入れるわ。いつもの店でいい?」
マルクの提案に異論はなかった。
三人は近所の、重金属の味がする安酒を出す居酒屋に駆け込んだ。
一杯30クレジットの合成ビール。
普段なら一日の食費にも相当する額だが、今日だけは別だ。
「スカイランナー・ロジスティクスの未来に! ネオ・アルカディアの空に!」
「「乾杯!!」」
マルクが傷だらけのグラスを掲げた。
ガチンと三つのグラスがぶつかり、安っぽい気泡が弾ける。
合成ビールは不快な後味を残したが、マルクにはどんな高級シャンパンよりも甘美に感じられた。
リサは少女のように笑い、ケヴィンは将来の野望を大声で語り、マルクはただ、報われた努力の重みを感じていた。
■
その夜、マルクは深い眠りについた。
夢の中で、数千台のドローンが夜空を埋め尽くし、星のように輝いていた。
自分たちは勝ったのだ。
この冷酷な都市で、自分たちの価値を証明したのだと、彼は信じて疑わなかった。
「……夢か」
翌朝、マルクはかつてない全能感とともに目を覚ました。
枕元の端末には、銀行からの正式な契約書一式が届いている。
彼は迷わず承認コードを入力した。
だが、彼は読み飛ばしていた。
一万行を超える電子契約書の、スクロールしなければ見えないほど深い階層。
記述された特約条項に。
『第128条:返済が一日でも遅延した場合、全資産の差し押さえに加え、契約者の生体パーツ(臓器・義体・記憶データ)の所有権はネオ・バンク・アルカディアに譲渡されるものとする』
その契約書の末尾には流麗なフォントで、一人の女性の名が刻まれていた。
――Elizabeth Vanderbilt。
そんなこととは露知らず、マルクは軽い足取りでオフィスへ向かった。
イースト区の汚濁に満ちた朝日でさえ、今日の彼には祝福の光に見えた。
夢は叶う。未来は自分たちの手の中にある。
そう信じて疑わない彼の背中に、見えない死神の鎌が迫っていた――。
隠者たち編には夢を追う被害者がよく出てきますね…




