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【依頼人】夢が折れる博覧会

 地下への階段は、世界から色彩を剥ぎ取っていくような道程だった。


 両腕を屈強な男たちにねじ上げられたまま、マルクは石造りの回廊を引きずり下ろされた。


 セントラル区の豪奢なビルの地下に、これほど広大で、原始的な闇が広がっているとは誰も想像しないだろう。


(なん……なんだ、ここは……?)


 一段下るごとに気圧が変わり、鼓膜が痛む。

 空調の音は獣の呼吸のように響き、空気にはカビと消毒液、そして焦げたタンパク質の臭いが混じり始めていた。


「……何の音だ?」


 マルクは問うたが、警備兵は答えない。


 静寂ではない。壁の向こうから微かに、だが絶え間なく聞こえる音がある。

 啜り泣きではない。壊れた機械が軋むような、あるいは人間が人間でなくなる瞬間に漏らす音。


 重厚な防音扉の前で、スタッフが網膜スキャンを行った。

 重い金属音が響き、扉が内側へと開く。


「入れ」

「ぐっ……!」


 マルクは部屋の中へと突き飛ばされた。

 床に手をついた瞬間、強烈な腐臭が鼻腔を突き刺した。

 排泄物と嘔吐物、そして甘ったるい香水の匂いが混ざり合った、狂気の香りだ。


 顔を上げると、そこは「展示室」だった。


「……!?」


 高い天井からは、外科手術用の無影灯が青白い光を投げかけている。

 壁に沿って、ガラスと鉄格子で仕切られたケージが並んでいた。

 その中に、かつて人間だったモノたちがいた。


「な……な……っ。人間……!?」


 七つのケージ。七人の展示物。


 全員が全裸に近い状態で、首には太い金属製の首輪が嵌められている。

 その首輪からは無数のコードが伸び、天井のサーバーラックへと直結していた。


「素晴らしいでしょう? 私のプライベート・コレクションです」


 背後から、エリザベスの陶酔した声が響いた。


 振り返ると、彼女はハンカチで鼻を覆うこともなく、むしろこの汚濁に満ちた空気を深呼吸するように吸い込んでいた。

 その頬は興奮で微かに紅潮し、瞳は濡れたように輝いている。


「彼らは、この都市の敗者ではありません。かつて誰よりも高く飛ぼうとした、夢想家たちの成れの果てです」


 エリザベスはハイヒールの音を響かせて歩き出した。あるケージの前で立ち止まる。

 中には痩せこけた中年男が、胎児のように丸まっていた。


「彼は三年前まで、再生医療ベンチャーのCEOでした。サウス区の貧民街に、無償のクリニックを作ろうとしていましたね。……見てごらんなさい、今の彼を」


 エリザベスが優雅な手つきで、ガラス面にあるタッチパネルを操作した。

 ピ、と電子音が鳴る。


「あ、あ……あが……ッ!」


 男の首輪が青白く発光した。

 瞬間、男の体が魚のように跳ねた。筋肉が異常な収縮を起こし、関節がありえない方向に曲がる。


 喉からは言葉にならない絶叫が漏れるが、首輪が声帯の振動すら制御しているのか、音は「ヒュッ、ヒュッ」という空気の漏れる音にしかならない。


 男は白目を剥き、口から泡を吹いて痙攣した。失禁した尿が床に広がる。


「電圧レベル3。脳の痛みの中枢を直接刺激しています。肉体的な損傷を与えずに、魂だけを削り取るのに最適な強さよ」


 エリザベスはうっとりとその光景を眺め、パネルを操作して電流を止めた。

 男は糸が切れた人形のように崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。焦げ臭い匂いが漂う。


「やめろ……! 何のためにこんなことを!」


 マルクが叫ぶと、エリザベスは心底不思議そうに首を傾げた。


「何のため? フフ……そうね。私は、夢が嫌いなの」

「は……!?」

「夢に向かっている人々が持つあの、キラキラとした輝き。アレが本当に嫌いでね。だから、それを全部折ってあげたいの」


 彼女は次のケージへ歩みを進めた。

 そこには長い髪の女性が、虚空を見つめて座っていた。


「彼女は反体制派のミュージシャンでした。私の銀行を『吸血鬼』と呼んで批判した。……けれど、人間は脆い。夢も、思想も、電気信号に過ぎないのですから」


 エリザベスはガラス越しに、女性に向かって微笑みかけた。


「07番、何か歌ってみなさい」


 女性は反応しなかった。焦点の合わない瞳はどこか遠くを見ている。

 エリザベスは溜息をつき、再びパネルに指を伸ばした。今度は躊躇なく、スライダーを最大まで上げた。


 バチバチバチッ!!


 青白いスパークが首輪から弾け飛んだ。

 女性の身体が弓なりに反り上がり、頭が壁に激突する。

 ゴン、ゴン、と鈍い音が響く。彼女は自分の舌を噛み切りそうな勢いで顎をガクガクと震わせ、両手で床を掻きむしり、爪が剥がれて血が滲んだ。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 今度は声が出た。人間の声ではない。獣の断末魔だ。


 マルクは嘔吐感を堪えきれず、その場に膝をついた。

 目の前で、人間が壊されていく。物理的にではなく、精神の根幹から焼き切られていく。


「ふふ……あははは!」


 エリザベスが笑った。上品なクスクス笑いではない。腹の底からの、愉悦に満ちた哄笑だ。

 彼女は痙攣する女性を見つめながら、恍惚の表情で自分の胸元を掻き抱いた。


「いい声だわ。希望が絶望に変わり、最後には『無』へと焼却される音! これ以上の音楽が、この世にあるかしら?」


 数秒の後、電流が止まった。女性はもはやピクリとも動かず、ただ煙を上げていた。


 エリザベスは乱れた髪を直すと、ゆっくりとマルクの方へ向き直った。

 その目は、獲物を品定めする怪物のそれだった。


「さて、マルク・チェンバレンさん。次はあなたの番です」


 警備兵たちがマルクを立たせ、空いている「検体番号08」のケージへと引きずっていく。

「嫌だ、放せ……! ケヴィン、リサ! 誰か!」

「ああ、安心なさい。お仲間二人は解放しています」


 エリザベスはマルクの顎を指先で持ち上げ、その目深くに視線をねじ込んだ。


「あなたがここで良い声を上げ続ける限り、彼らは生かしておいてあげます。……もっとも、あなたの会社も技術も全て奪いましたから、彼らは路頭に迷うでしょうけれど」

「貴様……悪魔か……ッ!」

「銀行家、と呼んでくださいな」


 エリザベスはスタッフから黒い首輪を受け取ると、自らの手でマルクの首に装着した。


 カチリと冷たい金属音が響き、首筋に鋭い端子が食い込む感触が走った。


「あなたには期待していますよ。何度も裏切られ、それでも立ち上がり、ここまで来た。その『不屈の魂』こそが、最高のスパイスになる。……じっくりと時間をかけて、あなたのその輝く瞳が、ドブ色に濁っていく様を堪能させてもらうわ」


 彼女はマルクの耳元に唇を寄せ、恋人に囁くように言った。


「テスト、しましょうか」


 彼女の指が、マルクの首輪にある小さなボタンを押した。


「――――!!!」


 ――視界が、白く弾けた。


 熱いのではない。冷たいのでもない。脳髄に直接、溶けた鉛を注ぎ込まれたような衝撃。


 思考が一瞬で蒸発し、マルクは悲鳴を上げる間もなく床に崩れ落ちた。

 全身の神経が焼き切れ、自分の体が自分のものでなくなる感覚。


「が、ぁ……ぐ、ぅ……ッ」


 床に転がり、涎を垂らして痙攣するマルクを見下ろしながら、エリザベスは満足げに頷いた。


「フフフフッ! 合格よ。素晴らしい『素材』だわ」


 重い電子ロックの音が響き、ガラスの扉が閉ざされた。

 エリザベスはヒールの音を響かせ、上機嫌で部屋を出て行く。


 後に残されたのは低い空調の音と、マルクの荒い呼吸、そしてどこかで響く、壊れた人間の啜り泣きだけだった。


 マルクの意識は、暗黒の中へと沈んでいった。



 エリザベス・ヴァンダービルトがその地下室を訪れるのは、月に一度と決めていた。


 彼女の多忙なスケジュールにおいて、この時間だけは神聖不可侵の領域だった。

 株主総会の準備があろうと、市長との会食があろうと、全てキャンセルさせる。


 秘書には「定期健診」と伝えてある。あながち嘘ではない。

 彼女にとって自身の精神の乾きを癒やし、明日への活力を補給するための、不可欠な儀式なのだから。


 専用エレベーターを使わず、彼女はあえて長い階段を下りていく。


 カツン、カツン、とヒールの音が冷たいコンクリートに反響する。

 一段下るごとに、空気の味が変わる。

 上層階の無菌的な空調の匂いが消え、鉄錆とカビ、そして排泄物と恐怖が発酵したような、独特の甘ったるい悪臭が漂い始める。


 午後8時17分。

 重厚な防音扉の前で、エリザベスは立ち止まり、深く息を吸い込んだ。

 まるで最高級のワインのコルクを開ける前のように。


 生体認証が通り、プシューッという圧縮空気の抜ける音と共に、扉が開いた。


 エリザベスは恍惚とした表情で足を踏み入れた。

 壁際に並ぶガラス張りのケージ。その一つ一つに、彼女の「作品」が収められている。


 彼女はゆっくりと、回廊を歩き始めた。


「ごきげんよう、04番」


 かつての医療ベンチャーの社長だった男は、ケージの隅で自身の排泄物を壁に塗りたくっていた。

 エリザベスが近づくと彼はビクリと震え、脱兎のごとく部屋の反対側の隅へ逃げ、頭を抱えて蹲った。


 パブロフの犬。

 電気ショックへの恐怖だけが、彼に残された唯一の知性だった。


「07番。新しい歌はできたかしら?」


 隣のケージでは、ミュージシャンの女が仰向けに倒れていた。

 瞳孔は開ききり、口元からは泡混じりの涎が垂れている。


 彼女は天井の染みを見つめながら、「ア……ウ……」と壊れたスピーカーのようなノイズを漏らし続けていた。

 かつて民衆の心を揺さぶった歌は、今や言語野を焼き切られ、ただの呻きしか出せない。


 エリザベスは満足げに頷き、さらに奥へ進む。


 一番奥。

 そこには、マルク・チェンバレンがいた。


 彼は壁に背を預け、膝を伸ばして座っていた。


 一年前、ここへ引きずり込まれた時の面影はない。

 頬はこけ、肋骨が浮き出し、伸び放題の髪と髭が顔を覆っている。

 首には、肉に食い込むほどきつく締められた黒い首輪。


 エリザベスはガラスの前に立ち、愛おしそうに手を触れた。


「一周年おめでとう、マルク」


 返事はなかった。

 反応すらなかった。


 一年前の彼は、まだ燃えていた。

 怒号を上げ、ガラスを叩き、必ずここを出て復讐してやると叫んでいた。


 電気ショックのたびに悶絶し、それでも睨みつけてくるその瞳には、鮮烈な「生」の色があった。


 三ヶ月目までは、食事を拒否した。

 六ヶ月目には、独り言を繰り返すようになった。

 八ヶ月目の夜、彼は一晩中仲間の名前を泣き叫び続け――翌朝、プツリと糸が切れたように黙った。


 それ以来、彼は人形になった。


 今の彼の目は、この部屋の照明と同じだった。

 白く、均一で、深さがない。

 焦点は合っているように見えるが、網膜に映る像を脳が処理していない。

 カメラのレンズが、ただ虚空を記録しているだけだ。


 エリザベスは手元のコンソールを操作した。

 ピ、という電子音と共に、給餌口から固形食が転がり落ちた。

 ドッグフードのような乾いた音。


 マルクはのろりと動いた。

 四つん這いになり、ゆっくりと餌に近づく。手を使わず、直接口をつけて咀嚼を始めた。


 そこには屈辱も、抵抗も、悲哀すらない。

 ただカロリーを摂取するという生物学的反応だけがあった。


「……ふふっ」


 エリザベスの喉から、抑えきれない笑みが漏れた。

 美しい。あまりにも美しい崩壊だ。


 人間が壊れる瞬間。

 夢が摩耗し、希望が腐り落ち、最後に残った「自我」という芯がポキリと折れる音。


 彼女は長年その瞬間を収集してきたが、マルク・チェンバレンは最高傑作だった。


 あれほど高く飛ぼうとした若者が。

 あれほど人を信じ、未来を信じた魂が。


 今、床に這いつくばり、家畜のように餌を食んでいる。


「ねえ、覚えているかしら?」


 エリザベスはマイクのスイッチを入れ、ケージ内に声を響かせた。


「スカイランナー・ロジスティクス。あなたの会社よ。……今では私の傘下で、軍事用ドローンの最大手に成長したわ。あなたの愛した技術が、あちこちで効率よく人を殺しているの。素晴らしいと思わない?」


 マルクは咀嚼を止めなかった。

 言葉の意味を理解していないのか、あるいは「音」としてすら認識していないのか。


 彼の世界はもう一メートル四方の床と、時折与えられる餌と、首輪からの電流で完結しているのだ。


 エリザベスはため息をつくように、うっとりと目を細めた。


 完全に、空っぽだ。

 かつてそこにあった情熱も、怒りも、友情も、全てがきれいにくり抜かれている。


 がらんどうの器。夢の死骸。


「ああ……完璧だわ」


 彼女はガラス越しに、マルクの虚ろな瞳を覗き込んだ。

 そこには、彼女自身の歪んだ笑顔が反射しているだけだった。


「あなたは私の最高のコレクションよ、チェンバレンさん。一生、ここで飼ってあげる」


 エリザベスは踵を返した。

 ヒールの音が遠ざかっていく。


 重い防音扉が閉まる直前、彼女はもう一度だけ振り返った。

 マルクは食事を終え、また元の位置に戻っていた。


 壁に背を預け、膝を抱え、虚空を見つめる。

 ピクリとも動かない。瞬きもしない。


 そこにあるのは、もはや人間ではなかった――。

急にアクセル踏むな

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