文烈様、私はここにおります
劉明珠でございます。
医者から、
「今夜は、誰も帰さないでください」
と言われました。
部屋へ戻って皆に伝えますと、玉珠が、
「では、今夜はみんな一緒ですね。賑やかです」
と申しました。
夫君が隣で黙り込みます。
「違うのですか?」
玉珠が首を傾げ、そのまま右手を鼻へ向けました。
「違う。あと、それもやめろ」
夫君、本日もお疲れ様でございます。
寧珠も環珠も和珠も、肇も纂もおります。
誰も帰るつもりはございません。
文烈様も、ここにおります。
ですから今夜は、皆で過ごします。
そして、とうとう朝になりました……
「今夜は、誰も帰さないでください」
医者がそう申しました。
意味を尋ねる必要はございませんでした。
聞けば言葉になってしまいます。
言葉になれば、もう「もしかしたら」という逃げ道がなくなる気がしました。
「……分かりました」
それだけ答えて、私は部屋へ戻りました。
文烈様は眠っております。
寧珠も、環珠も、和珠もおります。
肇と纂、玉珠と夫君も残っております。
子初殿は寧珠の少し後ろに座り、何も言わず寝台を見ておりました。
「誰も帰さないでください」と言われなくても、帰る者など一人もいなかったでしょう。
「姉上」
玉珠が小声で呼びました。
「何でしょう」
「お医者様は、何と?」
「今夜は皆でいなさい、と」
玉珠は少し考えてから、
「では、賑やかですね」
と申しました。
夫君が何か言おうとして、やめました。
私も何も言いませんでした。
寝台の脇には、和珠が何日も守ってきた菓子があります。
「まだ食べていないのですね」
玉珠が見ると、八つの和珠がすぐに答えました。
「父上のだから。母上にも食べさせないように見てるの」
「まだ私を疑っていたのですか?」
「うん」
即答しないでくださいませ。
環珠は笑いをこらえるように肩を震わせましたが、すぐ文烈様の顔を見ます。
笑ってよいのか、迷ったのでしょう。
その時、文烈様がわずかに目を開けました。
「……何の話だ?」
「菓子でございます」
「またか」
「またです」
和珠がすぐに菓子を持ち上げます。
「父上、食べる?」
文烈様はしばらくそれを見ておりました。
「……和珠。それは、お前が食え」
「父上のだよ?」
「なら、俺がやる」
「もらっていいの?」
「ああ」
和珠は頷きました。
ですが、食べません。
「どうしたのです?」
私が尋ねると、菓子を両手で包んだまま、
「あとで食べる」
と申しました。
今度は和珠がそう言うのですね。
文烈様の口元が、ほんの少しだけ動きました。
それが笑ったのだと分かったのは、十七年一緒にいたからでしょう。
しばらくすると、文烈様はまた眠りました。
呼吸は浅く、時折ひどく長い間が空きます。
そのたびに私は、握っている手へ力を入れました。
すると、まだ返ってきます。
弱くても、確かに。
その手を見ながら、私はふと、あの夜のことを思い出しました。
石亭から帰ってきた文烈様を、いつものように迎えた夜です。
長いこと夫婦をしておりますから、いちいち遠慮するような間柄ではございません。
いつものように触れ、いつものように文烈様の背中へ手を回した時、指先に知らないものが触れました。
何千回も触れてきた背中でしたから、すぐに分かりました。
こんなものは、昨日までなかった。
「少し止まってくださいませ」
「今か?」
「今です」
あれが最後になるなど、その時の私は知りませんでした。
知っていたところで、どうしたでしょう。
おそらく同じように止め、同じように医者を呼び、同じように文烈様へ寝ていろと怒ったのでしょう。
私は、そういう妻です。
あの夜、背中へ回したこの手で異変を見つけました。
そして今は、同じ手で文烈様の手を握っております。
見つけられたのに、治して差し上げることはできませんでした。
そこだけは、どうしても考えないことにしました。
寧珠が寝台の反対側に座りました。
十六になった娘は文烈様の額へ触れ、
「母上、熱い」
と申しました。
「ずっとですよ」
「お医者様は?」
「できることはしてくださっています」
それ以上は聞かれませんでした。
寧珠は賢い娘です。
こういう時だけは、もう少し玉珠に似てもよかったのにと思います。
環珠は壁際で膝を抱え、和珠は文烈様からもらった菓子をまだ食べずに持っています。
三人とも自分の父親を見ているのに、その顔はまるで違いました。
寧珠は、もう何が起きているのか分かっているのでしょう。
環珠は分かってしまうことを拒むように文烈様から目を離さず、和珠だけは、明日になればまた「あとで」の続きが来ると思っているようでした。
私はどんな顔をしているのでしょう。
知りたくありませんでした。
夜半を過ぎた頃、文烈様がまた目を開けました。
「……肇」
「父上」
「伯寧は」
「軍のことを見ております」
「彦雲は」
「そちらも問題ありません」
文烈様は小さく頷きました。
「文烈様」
私が呼ぶと、視線がこちらへ戻ります。
「伯寧殿も彦雲殿もおります。元仲様もおられます。今夜くらい魏をお忘れになってはいかがです?」
「大司馬に国を忘れろと言うのか」
「妻ですので」
「無茶を言う」
「今さらでしょう?」
文烈様が少し笑いました。
肇も纂も笑います。
ほんの少しだけ、部屋の空気が戻りました。
「なら何を考えればいい」
「私でよろしいのでは?」
「お前か」
「何かご不満でも?」
「十七年も考えている」
困りました。
そう言われると、皮肉の返しが思いつきません。
「では、もう少しお願いいたします」
「欲張りだな」
「存じております」
玉珠が横で小さく頷いております。
なぜあなたが同意するのですか。
その右手が、いつものように鼻へ上がりかけました。
夫君が反射的につかみます。
「……あ」
「今日は自分で止めるんじゃなかったのか」
「忘れておりました」
「それを忘れるな」
文烈様が目を閉じたまま、
「相変わらずだな」
と申しました。
玉珠は嬉しそうに、
「はい」
と答えます。
褒められておりませんよ。
ですが、誰も訂正しませんでした。
灯りの油が減り、炎が小さくなるたび、私は新しい灯りを足させました。
文烈様の佩刀は少し離れた場所にあり、軍書は机の上です。
水の椀は寝台の脇に残っていますが、和珠の菓子はもう文烈様のものではありません。
この部屋にある物だけが、先に少しずつ文烈様から離れていきます。
私は手だけは離しませんでした。
文烈様が目を開けました。
「明珠」
「はい」
「……ここは、寿春か?」
「はい……寿春でございます」
文烈様は少し安心したように息を吐きました。
「お前もいるな」
「おりますよ」
「ずっとか?」
「ずっとです」
私は握っている手へ、少しだけ力を入れました。
「あの長坂坡では、私は何も選べませんでした。父上が走れば置いていかれ、捕まれば連れていかれました。あの時の私は、どこにいるかさえ自分で決められなかったのです」
文烈様は黙って聞いております。
「ですが、今は違います。ここにいるのは、私が決めました」
返事はありません。
眠ったのかと思った時、指がわずかに動きました。
「……嫌だと言っても?」
「聞きません」
「だろうな」
「十七年も夫婦をしておりますから」
「知っている」
「ですから最後までおりますよ」
文烈様の目が、ゆっくり私へ向きました。
「嫌とは言わん」
それだけで十分でした。
夜がさらに深くなると、言葉は少なくなりました。
寧珠は文烈様のそばを離れず、環珠は寧珠の肩へ寄りかかっています。
和珠はとうとう眠り、菓子を持ったまま玉珠の膝に頭を乗せました。
玉珠は珍しく右手を鼻へ向けません。
夫君も、もう右手を見張っておりませんでした。
肇と纂は時折医者と言葉を交わし、子初殿は寧珠の背中へ手を添えたままです。
誰も帰りませんでした。
やがて窓の外が、ほんの少し白み始めました。
朝です。
その時、文烈様の目が開きました。
「……明珠」
「はい」
「今は……朝か?」
私は笑いました。
今度は迷いません。
「はい、今度は本当に朝でございます」
文烈様は窓の方を見ました。
白い光が、少しずつ部屋へ入ってきます。
「そうか」
しばらくして、また私を見ました。
「いたな」
「おりますよ」
「……よかった」
握っていた指から、少しずつ力が抜けていきました。
「文烈様?」
指はもう動きませんでした。
「朝ですよ」
返事はありません。
医者が静かに近づいてきても、私は手を離しませんでした。
寧珠はすぐには泣きませんでした。
文烈様の顔を見たまま唇を噛み、
「父上」
と一度だけ呼びました。
次に呼ぼうとした時には、もう声になりませんでした。
子初殿が肩へ手を置いた瞬間、寧珠は初めて顔を伏せました。
環珠は違いました。
「父上、朝だよ」
少し前まで文烈様をからかっていた時と、ほとんど同じ声でした。
「今度は本当に朝だから」
文烈様の目は開きません。
「父上?」
そこで十四の娘は初めて、文烈様ではなく医者を見ました。
医者は何も言いません。
環珠の顔が歪みました。
それでも泣くまいとしたのでしょう。
「……父上、母上がまた変なこと言ってるよ」
私は何も言っておりませんよ。
いつもなら、そう返したでしょう。
今日は返せませんでした。
環珠も、それ以上続けられませんでした。
和珠は玉珠の膝の上で目を覚ましました。
皆の顔を見回してから、寝台へ目を向けます。
まだ、何が起きたのか分かっておりません。
「父上、寝たの?」
誰も答えられませんでした。
和珠は手の中の菓子を見て、それを持ったまま寝台へ近づきます。
「父上」
菓子を文烈様の顔の近くまで持っていきました。
「お菓子、まだ食べてないよ」
返事はありません。
和珠は待ちました。
本当に、返事を待っていたのです。
「父上?」
また待ちます。
「あとでって言ったのに」
その一言で、玉珠が顔を覆いました。
右手でした。
夫君は止めませんでした。
玉珠はしばらくそのままでしたが、やがて鼻ではなく目元を拭いました。
「文烈様は、嘘をついたのですか?」
和珠が玉珠へ尋ねます。
玉珠は何度か口を開きました。
けれど答えられません。
天然な妹が、答えを思いつけない。
私は初めて見ました。
肇は医者から小さく頷かれると、目を閉じました。
ほんの一瞬です。
次に目を開けた時には、文烈様ではなく私を見ておりました。
「母上」
その一言で分かりました。
この子は今、父親を失ったばかりなのに、私がどうなるかを先に心配したのです。
「大丈夫ですよ」
私は答えました。
何が大丈夫なのでしょうね。
自分でも分かりません。
肇は何も言わず、ただ私のそばへ膝をつきました。
纂は寝台の脇まで来ると、文烈様の手に触れようとしました。
ですが、その手を私が握っていることに気づき、途中で止めます。
私は少しだけ指をずらしました。
「どうぞ」
纂は文烈様の指先へ触れました。
何か言うのかと思いましたが、何も言いません。
ただ深く頭を下げました。
肩だけが、一度大きく揺れました。
誰も大声では泣きませんでした。
だからこそ、和珠の声だけが部屋の中にはっきり残りました。
「父上、起きないの?」
私は文烈様の手を握ったまま、和珠を見ました。
答えなければなりません。
私はこの子の母親ですから。
けれど、その言葉だけはまだ口にできませんでした。
あの夜、文烈様の背中へ回したこの手を、私は最後の朝まで離しませんでした。
あの長坂坡では、私は置いていかれました。
今度は違います。
私は、置いていかれませんでした。
最後まで、ここにおりました。
窓の外では、朝日が寿春の空を明るくしております。
文烈様はもう、
「今は朝か?」
とは、お尋ねになりませんでした。
劉玉珠でございます。
朝になりました。
ですから私は、
「文烈様、朝ですよ」
と申しました。
昨日までなら、何か返してくださったはずです。
今日は、何もおっしゃいませんでした。
夫が私の右手を見ております。
「今日は止めなくてよいのですか?」
「……お前が鼻へ持っていかないからな」
「そうでしたか」
言われて気づきました。
右手はずっと膝の上にあります。
代わりに、涙ばかり落ちております。
「玉珠」
「はい」
「無理に止めなくていい」
「何をですか?」
「泣くのをだ」
止め方が分かりません。
文烈様……
朝になれば大丈夫だと思っていたのに――
朝になってしまった方が、ずっと悲しいではありませんか……




