文烈様、もうしばらく待っていてくださいませ
劉明珠でございます。
文烈様が亡くなりました。
朝、玉珠がしばらく黙ったあと、「姉上、今日は何をすればよいのでしょう」と申しました。
珍しく真面目ですね。
そう思った瞬間、右手が鼻へ向かいました。
夫君がつかみます。
「今それをするな」
「では、いつならよいのです?」
「今聞くな」
そちらも大変ですね。
こちらでは、伯寧殿と彦雲殿が軍務を支え、肇と纂が葬送の手配を始めております。
どうやら夫が亡くなっても、世の中は止まってくれないようです。
そして先ほど、
「奥方様、そろそろ」
と声をかけられました。
何かと思いましたら――
棺の蓋を閉じるそうです。
文烈様が亡くなった翌朝、棺の蓋を閉じる話をされました。
嫌な話ですね。
亡くなったことなら、昨日もう分かっております。
医者が何も言わなくなり、文烈様の指も動かなくなり、寧珠も環珠も和珠も泣きました。
ですから、もう十分に分かっているつもりでした。
それなのに、「奥方様、そろそろ……」と言われて初めて気づきました。
棺の蓋を閉じれば、文烈様の顔は見えなくなるのですね。
「少し待ってくださいませ」
気づけば、そう申しておりました。
何を待つのでしょう。
起きるのを待つわけではございません。
私は昨日、自分の手で最後まで握っていたのですから。
それでも、少しだけ待ってもらいました。
文烈様の顔を見ます。
熱に苦しんでいた時より、ずいぶん穏やかでした。
「文烈様」
返事はありません。
もう、それにも少し慣れてしまいました。
慣れたくなどなかったのですが。
「このあとは、どうなるのでしょうね」
もちろん返事はございません。
「元仲様へも知らせが行っております。大司馬ともあろう方ですから、妻の好きなようにはできないのでしょうね」
生きていた頃なら、
「そうだな」か、「仕方ない」くらいは返したでしょう。
それだけで私が、「もう少し妻との会話を楽しんでは?」と嫌味を申し上げるところです。
今日は、嫌味を申し上げても終わりません。
「……閉じてくださいませ」
ようやく申しました。
蓋が閉じられていく間、私は最後まで見ておりました。
文烈様の顔が見えなくなっても、しばらくその場を動けませんでした。
どうやら人は、一度死んだだけでは足りないようです。
顔が見えなくなり、使っていた物が片づけられ、いつもの場所から姿が消えるたび、残された者は何度も死を教え直されるのでしょう。
実にしつこい話でございます。
その頃には、寿春でも別のことが動き始めておりました。
満伯寧殿と王彦雲殿が参りました。
彦雲殿は棺を見てから、長いこと黙っております。
石亭では、文烈様を包囲から救い出した方です。
あの時は間に合いました。
今回は、誰も間に合いませんでした。
「奥方」
先に口を開いたのは伯寧殿でした。
「洛陽へ急報を出しております。大司馬薨去の報です」
薨去――
嫌な言葉ですね。
身分が高くなると、死ぬことにまで立派な名前が付きます。
私には、文烈様が死んだ。
それだけで十分なのですが。
「東の軍務はこちらで支えます。そこはご心配なく」
「止めたら文烈様が怒りますよ」
彦雲殿が鼻をすすりました。
「俺は特に怒られそうだな」
「日頃の行いでしょう」
「奥方、今その返しが出ます?」
「出ましたね」
伯寧殿が横を向きました。
笑ったのでしょうか。
失礼ですね。
数日後、元仲様から正式な通達が届きました。
文烈様の棺は洛陽へ送ること。
葬礼も洛陽で行い、遺族も共に戻るようにとのことでした。
華美にせよとは書かれておりません。
魏王様以来、葬送をむやみに飾り立てることは慎まれておりますし、文烈様自身も、金銀を山ほど積まれて喜ぶ方ではございません。
ただ、警護の兵は付けられることになりました。
伯寧殿と彦雲殿が手配してくださいました。
「母上」
肇が私へ尋ねます。
「寿春から持って帰りたい物はありますか?」
私は部屋を見回しました。
文烈様の佩刀があります。
机には軍書が残り、寝台の脇には、もう使われることのない水の椀があります。
少し前まで、そんな物を見ても何とも思いませんでした。
そこにあって当然だったからです。
文烈様も同じでした。
ここにいて当然でした。
だから私は、医者が何度来ても、熱が下がらなくても、「今は朝か」と尋ねられても、どこかで本気にはしていなかったのでしょう。
最後まで。
「……佩刀は持って帰ります」
「はい」
「軍書は伯寧殿へ」
「分かりました」
「ほかは、肇に任せます」
全部持って帰りたいとは、もう申しませんでした。
全部持って帰ったところで、文烈様は戻りません。
それくらいは分かるようになりました。
和珠は、あの菓子をまだ持っております。
「和珠、それも持っていくのですか?」
「うん」
「そろそろ食べませんと、本当に食べられなくなりますよ」
「父上にもらったから、食べない」
困りました。
食べればなくなり、食べなければ腐ります。
どちらにしても、ずっと同じ形では残りません。
そんなことを八つの娘へ教えるには、今は少し早い気がしました。
「では、洛陽まで持っていきましょう」
「うん」
環珠が和珠の頭を撫でました。
少し前なら、姉ぶる環珠を見て笑ったでしょう。
今は、その手が震えていることに先に気づきます。
寧珠はもう子初殿の妻ですが、父親を洛陽まで送ると譲りませんでした。
子初殿も、「寧珠を一人で行かせるわけにはいきません」と当然のように同行します。
文烈様が聞いたら、きっと睨むでしょうね。
まだ婿殿を睨むのですか。
そこまで考えたところで、胸の奥が妙なふうに止まりました。
もう、睨まないのですね。
子初殿が寧珠の隣に立っていても、環珠に男が近づいても、和珠がいつか誰かを連れてきても、あの恐ろしい父親はもう出てこない。
「母上?」
寧珠に呼ばれました。
「何でもありません」
嘘です。
ですが、今はそれでよいのです。
寿春を出る日、文烈様の棺は兵に守られて城門へ向かいました。
派手な音はありません。
兵たちは騒がず、ただ道を開け、棺が通る時には静かに頭を下げます。
私は車の中から、その光景を見ておりました。
文烈様は私の夫でした。
寧珠と環珠と和珠の父親であり、肇と纂の父親でもありました。
ですが、それだけではありません。
魏の大司馬だったのです。
何万もの兵を動かし、東の守りを任され、石亭で敗れても責任を人へ押しつけなかった男です。
その人が、今は棺の中におります。
「母上」
和珠が私の袖を引きました。
「父上も洛陽に行くの?」
「はい」
「私たちも?」
「行きますよ」
「じゃあ、一緒だね」
和珠は少し安心したように笑いました。
私は、
「そうですね」
と答えました。
棺に入っていても、一緒は一緒です。
そんな理屈を八つの娘から教えられるとは思いませんでした。
道中、玉珠は妙に静かでした。
あの朝から鼻へ向かわなかった右手が、ようやく少し動き始めた頃です。
夫君がじっと見ております。
「あなた」
「何だ?」
「私の手ばかり見ていますね」
「癖になった」
「私のせいですか?」
「誰のせいだと思ってる」
玉珠が考えているうちに、右手が鼻へ向かいます。
夫君がつかみました。
二人とも止まりました。
「……しましたね」
「……したな」
「久しぶりです」
「感動するところじゃない」
玉珠が笑いました。
夫君も笑いました。
私も少し笑いました。
笑ったあと、なぜか涙が出ました。
困りますね。
どちらか一つにしていただきたいものです。
ですが、それでよいのでしょう。
文烈様が死んだからといって、私たちまで笑うことをやめる必要はありません。
むしろ文烈様なら、
「うるさい」
と言いそうです。
その声を思い出せるうちは、まだ大丈夫な気がしました。
洛陽へ着きました。
向かったのは、今では肇の屋敷と呼ばれている場所です。
門前まで来たところで、先導していた者が「曹肇様のお屋敷でございます」と申しました。
「存じております」
と答えました。
私はここに住んでいたのですから。
文烈様と。
門をくぐった瞬間、足が止まりました。
庭も廊下も、見覚えがあります。
あの角を曲がれば、文烈様が座っていた部屋があります。
寧珠が小さかった頃に走って転んだ場所も、環珠が生まれた頃、文烈様が意味もなく何度も寝顔を見に行った部屋も残っています。
何も変わっていないように見えました。
だから、私は一瞬だけ思ってしまったのです。
このまま中へ入れば、文烈様がいるのではないか、と。
「遅い」とでも言って。
馬鹿ですね。
文烈様は、私たちより先にこの屋敷へ戻っております。
棺の中で。
その時でした。
『いたな』
最後にそうおっしゃった声が、一度だけ耳の奥へ戻ってきました。
あの朝、私は「おりますよ」と答えました。
今も私はおります。
けれど、文烈様はもうおりません。
そこでようやく、寿春で起きたことが胸の中まで降りてきました。
私は門の内側で動けなくなりました。
肇が何も言わず、隣に立ちます。
「母上」
「はい」
「ここは、母上の家でもあります」
「……そうでしたね」
声が少し変でした。
肇は気づいたでしょう。
何も言いませんでした。
ありがたいことです。
私は泣きながら慰められるのが、あまり得意ではございません。
環珠と和珠も、ここで私と暮らします。
寧珠は葬礼が済めば子初殿との家へ戻りますが、いつでも来ると申しました。
纂も当然のように出入りしております。
文烈様がいなくなっても、家族は消えませんでした。
それが嬉しくて、同時にひどく悲しかったのです。
数日後、肇と纂から墓所の話を聞かされました。
図には文烈様を納める場所があり、その隣にも、もう一つ場所が取られております。
「肇」
「はい」
「ここ、余っていますよ」
肇と纂が顔を見合わせました。
嫌な間ですね。
「余っているのではありません」
纂が申しました。
「では?」
肇が答えました。
「母上の場所です」
私は図を見ました。
次に肇を見ました。
もう一度、図を見ます。
「……私、まだ生きておりますよ?」
「知っています」
「では、なぜ私の墓まで造るのです?」
「父上と一緒に入るでしょう?」
ものすごく当然の顔で言われました。
「相談は?」
「必要ですか?」
「普通はするのでは?」
「嫌なのですか?」
私は答えませんでした。
嫌ではありません。
それが一番困るのです。
あの朝から、顔が見えなくなり、寿春を出て、洛陽へ着き、昔の屋敷へ戻るたび、私は何度も「もういない」と教えられました。
けれど今、図の上で文烈様の隣が空いているのを見て、初めて少しだけ別のことを考えました。
私はいつか、あそこへ行くのですね。
文烈様がいなくなっても、私はまだこちらに残っております。
やるべきことを全部終えてから――その時は、文烈様の隣へ行く。
「母上?」
肇が呼びました。
「何でしょう?」
「嫌なら、変えます」
私は図を指で軽く叩きました。
「変えなくて結構です」
纂が笑いました。
「父上も安心します」
「勝手に安心させないでくださいませ」
「では、怒りますか?」
「少しだけ」
「母上が?」
「文烈様がです」
二人が笑いました。
私も笑いました。
文烈様――
どうやら、私はまだあなたのところへ行けないようです。
環珠と和珠を嫁に出すまでは、まだ母親をやめられませんし、寧珠とはあなたの悪口をもっと言いたいのです。
肇と纂にも、あなたの代わりにまだまだ困らせてもらわなければなりません。
それに玉珠の右手も、相変わらず目を離せません。
ですから――
もうしばらく、待っていてくださいませ。
あなたの隣は、もう私の場所だそうですから。
劉玉珠でございます。
姉上から、
「文烈様の隣に、私の場所も用意されるそうです」
と聞きました。
「よかったですね」
と申しましたら、姉上に睨まれました。
「私はまだ生きておりますよ?」
「ですが、隣なのでしょう?」
「そういう問題ではありません」
難しいですね。
夫に話しますと、
「お前は自分の墓まで探すなよ」
と先に言われました。
まだ何も申していないのですが?
考えながら右手を鼻へ向けると、いつものようにつかまれます。
「では、私はどこへ入るのでしょう?」
「今決めるな」
「あなたの隣では?」
「……それはまあ、そうだが」
なるほど。
私も、場所だけは決まっていたようです。
姉上共々、まだ入りませんけどね。




