皆様、今夜は誰も帰しません
劉明珠でございます。
昨夜、文烈様が、
「今は朝か?」
とお尋ねになりました。
真夜中でございます。
玉珠へ知らせましたら、
『では、朝になれば文烈様の正解ですね』
と返ってきました。
その下には夫君の字で、
『そういう問題ではない。なお、ここで右手も止めた』
とございます。
そちらは相変わらずですね。
こちらでは、環珠も和珠も父上のそばを離れようとしません。
寧珠も、肇も、纂も寿春へ向かっております。
少し大げさなくらいでよいのです。
あとで皆に笑われれば、それで済みますから。
……そう思っておりました。
「……今は朝か?」
文烈様がそうお尋ねになった時、窓の外は真っ暗でした。
私はすぐに答えられませんでした。
朝と夜を間違えただけです。
熱もありますし、石亭から戻ってまだ日も浅く、疲れてもおります。
理由なら、いくらでも見つけられました。
ですが、十七年一緒に暮らしてきた夫が、夜を朝と間違えた理由を必死に探している自分には気づきたくありませんでした。
「夜でございますよ」
ようやく答えると、文烈様はしばらく天井を見つめ、
「……そうか」
と申しました。
「朝にしてほしければ、明るくなるまでお待ちになりますか?」
「お前は何を言っている」
よかった。
その返しは、いつもの文烈様です。
「文烈様がお困りでしたので、朝を用意できないものかと思いまして」
「できるのか?」
「できません」
「なら言うな」
そうですね。
これだけ話せるなら大丈夫でしょう。
私はまた、自分に都合のよいものだけを拾いました。
夜が明ける頃、文烈様はようやく眠りました。
窓から薄い光が入ってきたので、私は灯りを消そうとしました。
手を伸ばしてから、なぜか止めました。
文烈様が目を覚ました時、また朝か夜か分からなくなったらどうしましょう。
灯りを残しておけばよいのか、消した方がよいのか。
そんなことを考えている自分が馬鹿らしくなり、結局消しました。
朝は朝です。
灯り一つで変わるものではありません。
しばらくして文烈様が目を覚ましました。
「明珠」
「はい」
「……朝か?」
「今度は正解です」
文烈様が眉を寄せました。
「昨夜、俺は何か言ったか」
「朝か、とお尋ねになりました」
「俺が?」
「私が夫を取り違えていなければ」
嫌そうなお顔をなさいました。
「誰かに聞かれたか?」
「私と医者だけです」
「ならいい」
そこなのですか。
大司馬の威厳とは、朝と夜を間違えた程度で失われるものなのでしょうか。
その話をどこからか聞きつけた環珠が部屋に入ってきて、文烈様の顔を見るなり、
「父上、今日は朝だよ」
と申しました。
「環珠」
「何?」
「誰に聞いた」
「母上」
売った覚えはございません。
「文烈様、私は事実を述べただけです」
「余計な事実だ」
「では次から虚偽を?」
「そういう意味ではない」
環珠が笑いました。
「父上、元気じゃない」
そうなのです。
こんなふうに言い返せるのです。
だから大丈夫。
私も笑いました。
少し遅れて和珠が入ってきました。
八つの娘が抱えているものを見て、私は嫌な予感がしました。
菓子です。
まだ持っていたのですか。
「父上」
和珠は寝台の脇まで行くと、菓子を差し出しました。
「今日こそ食べる?」
文烈様はそれを見ました。
昨日も、一昨日も、「あとで」と言っております。
「……寄越せ」
和珠の顔が明るくなりました。
文烈様が手を伸ばします。
指が菓子に触れました。
ところが、持ち上がりません。
一度指先が滑り、もう一度つかもうとして、結局手を引きました。
「あとでな」
和珠の顔から、笑みが消えました。
「また?」
「ああ」
「昨日も言ったよ?」
「すまん」
私は文烈様を見ました。
この人が、菓子一つ食べられないことで娘に謝りました。
元気な頃なら、
「食えるようになったら食う」
で終わっていたでしょう。
和珠はしばらく父上を見ていましたが、菓子をいつもの場所へ戻しました。
「置いとくね」
「ああ」
「母上、食べないでね」
「まだ私を疑うのですか?」
「だって母上だもん」
環珠が吹き出しました。
「和珠、それは正しいよ」
「環珠まで何を言うのですか」
文烈様も少し笑いました。
その笑顔を見て、私は菓子のことを忘れることにしました。
昼前、水を飲もうとした文烈様が椀へ手を伸ばした時、私はいつものように見ておりました。
少し前までは、自分で何の問題もなく持てていたのです。
椀を持ち上げたところで、少し傾きました。
水が縁からこぼれそうになり、私は下から手を添えます。
「自分で持てる」
「存じております」
「なら離せ」
「嫌です」
文烈様が私を見ました。
「今日は命令を聞かない日か」
「ここ数日ずっとそうでは?」
私が支えたまま、文烈様は水を飲みました。
ほんの数口です。
飲み終えると、椀は私へ返されました。
以前なら一息で空にしていたでしょう。
ですが、それも考えないことにしました。
次に文烈様が求めたのは軍書でした。
寝台の脇に積まれていたうちの一つを指します。
「それを」
「伯寧殿に任せたのでは?」
「見るだけだ」
「見るだけですよ?」
「分かっている」
私は渡しました。
文烈様はそれを開きました。
文字へ目を落とします。
しばらく待ちました。
頁が動きません。
もう少し待ちました。
やはり動きません。
「文烈様?」
「何だ」
「……いえ」
読めておりますか?
その問いだけは、口に出せませんでした。
やがて文烈様は軍書を閉じ、
「伯寧に渡せ」
と申しました。
私は何も言わず受け取りました。
以前なら、読み終えれば指示か文句か、せめて何か一言はございました。
しかし、今日は何もありませんでした。
軍書を机へ置こうとした時、その隣に文烈様の佩刀がないことに気づきました。
誰かが少し離れたところへ移したのでしょう。
いつもなら、文烈様はすぐ気づきます。
何もおっしゃいません。
私は刀を元の場所へ戻そうとして、やめました。
何のために戻すのでしょう。
その答えも考えたくありませんでした。
昼を過ぎた頃、寧珠が到着しました。
子初殿も一緒です。
十六になった娘は部屋へ入ると、父上を見て歩みを止めました。
「父上」
返事がありません。
もう一度呼びました。
文烈様の目がゆっくり開きます。
寧珠を見ました。
けれど、すぐには何もおっしゃいません。
娘の指先が震えました。
私も息を止めました。
「……寧珠か」
その一言で、寧珠の顔がくしゃりと崩れました。
「はい」
「なぜ来た」
そこからですか。
「母上が来てもよいって」
「明珠」
「私は許可しただけでございます」
「呼び戻すなと言っただろう」
「父上がこんななのに、来ないわけないでしょう?」
寧珠が寝台の横へ座ります。
文烈様はその後ろの子初殿を見ました。
目だけが少し鋭くなります。
「……お前も来たのか」
「妻を一人で寿春まで来させるわけにはまいりません」
「そうか」
文烈様は寧珠を見て、また子初殿を見ました。
「父上」
「何だ?」
「子初殿を睨まないで」
「睨んでいない」
はい。
まだ父親です。
私は笑いました。
寧珠も笑いました。
子初殿だけが笑っておりません。
慣れてください。
この家では婿というものは、そのくらいの扱いを受けます。
もっとも文烈様は、ほんの少し話しただけで目を閉じてしまいました。
寧珠は父上の手を握ったまま、私を見ました。
「母上、いつからこんなに悪かったの?」
答えに困りました。
背中のおできに触れた時でしょうか。
寒いと言った時でしょうか。
和珠の菓子を断った時でしょうか。
水の椀を支えた今日でしょうか。
私は全部見ていたのに、どこからが「こんなに」なのか分かりません。
「少しずつですよ」
結局、それしか言えませんでした。
その日のうちに肇と纂も寿春へ着きました。
二人は父上を見たあと、なぜか私を見ます。
「母上、いつお休みになりました?」
肇が尋ねました。
「私は今、起きておりますよ」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味です?」
「最後に眠ったのはいつですか?」
失礼ですね。
私はきちんと――
いつでしょう。
纂がため息をつきました。
「母上も休んでください」
「嫌です」
二人とも黙りました。
何ですか、その顔は?
子供のような答えだと分かっております。
ですが、嫌なのです。
あの長坂坡では、私は自分で何も選べませんでした。
父上が走れば置いていかれ、捕まれば連れていかれ、その先まで周りの都合で決まりました。
けれど、今は違います。
ここにいるかどうかくらい、私が決めます。
肇は何か言いたそうでしたが、
「では、せめて座っていてください」
で諦めました。
それくらいなら聞いて差し上げます。
夕方近くには玉珠たちも到着しました。
部屋へ入る前、夫君がいつものように玉珠の右手を見ています。
「今日は止めなくていいのか?」
「何をです?」
「鼻」
玉珠は自分の手を見ました。
「あ」
忘れていたのですか。
あなたが鼻をほじることを忘れる日が来るとは思いませんでした。
「姉上」
「何でしょう?」
「私、今日まだ一度もしておりません」
「偉いですね」
「褒められました」
夫君が疲れた顔をしております。
文烈様が目を開けました。
「……玉珠か」
「はい」
「鼻は?」
「今日はしておりません」
「そうか」
なぜ安心するのですか。
玉珠の夫君が頭を抱えました。
私も笑いました。
玉珠も笑いました。
文烈様も、少しだけ笑いました。
その直後でした。
文烈様が咳き込みました。
身体を起こそうとして、起き上がれません。
私と肇で支えました。
息が整うまで、ずいぶんかかりました。
笑い声は、そこで消えました。
夜になりました。
私はいつもより早く灯りをつけさせました。
文烈様が朝と夜を間違えないように。
灯りを増やしたところで、何が変わるのかは分かりません。
寝台の脇には、和珠が置いた菓子と水の椀が残っています。
頁の進まなかった軍書は机へ移り、いつもならすぐ手を伸ばす佩刀だけが、少し離れた場所に置かれておりました。
少し前まで、こんな物の置き場所をいちいち気にしたことなどなかったのです。
文烈様は眠っています。
時折、聞き取れないことを言います。
私は手を握りました。
握り返してくれました。
それだけで安心しました。
まだここにおります。
まだ私を分かっております。
そう思った時、医者が私を呼びました。
「奥方様」
「ここで聞きます」
「……少し、外へ」
その言い方は嫌いです。
私は文烈様の手を離したくありませんでしたが、医者はもう一度深く頭を下げました。
仕方なく廊下へ出ます。
扉の向こうから、和珠が父上を呼ぶ声が聞こえました。
「何でしょう」
医者はすぐには答えません。
「薬を替えるのですか?」
「……いいえ」
「また背中を?」
「それも違います」
では何です。
早く言ってください。
言わないでください。
どちらを望んでいるのか、自分でも分かりませんでした。
医者が私をまっすぐ見ました。
「奥方様」
「はい」
「今夜は――」
一度、言葉が止まりました。
その先を聞けば、何かが終わってしまう気がしました。
けれど医者は、静かに続けました。
「今夜は、誰も帰さないでください」
劉玉珠でございます。
姉上が医者から、
「今夜は、誰も帰さないでください」
と言われました。
ですので夫に、
「では、今夜はみんな一緒ですね。賑やかです」
と申しましたら、返事がありません。
「寧珠も環珠も和珠もおりますし、肇殿も纂殿も――」
「玉珠」
「はい?」
「……そういう夜じゃない」
違うのですか?
考えながら右手を鼻へ向けましたが、今日は自分で止めました。
夫が私の手を見ております。
「しないのか?」
「今は、そんな気分ではありません」
寝台のそばには、和珠のお菓子がまだあります。
文烈様、明日の朝になったら食べてくださいね。
朝になれば――
また正解になりますから。




