文烈様、今は朝ではございません
劉明珠でございます。
文烈様の熱が上がりました。
本人は、
「寒い」
と申しております。
この暑さの中でです。
玉珠へ知らせましたら、
『では、姉上が抱いて差し上げればよいのでは?』
と返ってきました。
その下には夫君の字で、
『ここで右手が鼻へ向かったので止めた。なお、余計な助言も止めたかった』
とございます。
そちらは二方面作戦なのですね。
こちらでは今、医者を夜中に呼び戻しております。
文烈様は相変わらず、
「大したことはない」
と申しておりますが――
その言葉を、私はそろそろ信じないことにいたしました。
夜中に呼び戻された医者は、文烈様の額へ触れ、脈を確かめ、背中のおできまで見直してから、たいへん難しい顔をいたしました。
その顔はやめていただけませんか。
こちらまで悪いことを考えてしまいます。
「熱が上がっております」
「それは私にも分かります」
文烈様の額など、触れた私の手まで熱くなりそうでした。
ところが本人は掛け物を増やせと申します。
「寒い」
「これ以上掛けたら、今度は蒸し上がりますよ」
「なら一枚だけだ」
「交渉なさらないでくださいませ」
病人になってまで条件を詰めてくるとは思いませんでした。
医者は薬を替え、夜が明けたら背中の癰をもう一度詳しく見ると言いました。
すると文烈様は横になったまま、
「今やればいい」
と申します。
「夜ですよ」
「さっき、お前は『だから何です』と言っただろう」
覚えていたのですか。
そういうところだけ妙にお元気ですね。
「私は医者を呼ぶ話をしていたのです。あなたの背中を今すぐ切れとは申しておりません」
「同じようなものだ」
「まったく違います」
医者まで笑いそうになっております。
笑ってください。
その方が、私も安心できますから。
結局、その夜は熱を抑えるための手当てだけをし、文烈様はほとんど眠れないまま朝を迎えました。
私も同じです。
それでも空が明るくなると、少しだけ安心しました。
夜というものは嫌ですね。
同じ病でも、暗い中で見ているだけで余計に悪くなったように思えます。
朝になれば何とかなる。
私はまだ、そう考えておりました。
医者が薬を外すと、昨日まで丸く盛り上がっていた部分はさらに腫れ、中央には膿がたまっているとのことでした。
「出した方がよいでしょう」
「やれ」
文烈様は即答しました。
「昨日からそればかりですね」
「早い方がいい」
「では、途中で『やめろ』などとおっしゃらないでくださいませ」
「誰に言っている」
「ついこの間まで軍を率いていたのに、今は妻に寝台へ押し戻されている方です」
文烈様が私を睨みました。
はい。
そのくらいのお顔ができるなら大丈夫です。
処置の間、私は文烈様のそばにおりました。
詳しく申し上げる必要はございません。
おできというものは、見るより聞くだけの方がまだ幸せです。
医者が膿を外へ出し、きれいにして薬を当てている間も、文烈様は声を上げませんでした。
ただ、私の手を握る力だけが途中から強くなります。
「痛いのでしょう?」
「別に」
「私の手が痛いのですが」
そこで少し力が緩みました。
認めるくらいなら妻の指を折るおつもりだったのでしょうか。
処置が終わると、文烈様は長く息を吐きました。
顔色はよくありませんが、昨夜より楽になったように見えます。
医者も、
「これで熱が引けばよいのですが」
と申しました。
私は都合よく後半を聞かなかったことにしました。
これで熱が引く。
そこだけで十分です。
環珠が入ってきたのは、少ししてからでした。
十四になった娘は寝台の父上を見てから、私の顔を見ました。
「終わった?」
「終わりましたよ」
「痛かった?」
文烈様が答える前に、私が申しました。
「たいへん立派に我慢なさいました」
「明珠」
「褒めております」
環珠が笑いました。
「父上、子供みたい」
「誰がだ」
「母上に褒めてもらってるから」
「環珠」
「はいはい」
十四にもなると、父親の扱いが上手になってまいりますね。
少し遅れて和珠も顔を出しました。
八つの娘が最初に見たのは父上ではありません。
寝台の脇です。
昨日置いた菓子が、まだそこにある。
「父上、食べてない」
そこですか。
ですが、私も同じものを見ておりました。
「今日は食べる?」
和珠が菓子を持ち上げます。
文烈様は少し迷ってから、
「あとでな」
と答えました。
また、あとで。
和珠は不満そうです。
「昨日もあとでって言ったよ」
「今日は食べる」
「ほんと?」
「ああ」
「約束ね」
文烈様は頷きました。
和珠もようやく安心したようです。
私も安心したかったので、その約束を信じることにしました。
処置をしたのです。
膿も出しました。
あとは熱が下がり、食欲が戻ればよい。
そう思っておりました。
昼前、私は寧珠へ新しい便りを書きました。
昨日は、『今すぐ寿春へ来なくてもよい』と書きましたが、今日は少し違います。
『都合がつくなら、こちらへ来てください』
筆を止めた私を、文烈様が見ておりました。
「何と書いている?」
「寧珠に来てもよいと」
「呼び戻すなと言っただろう」
「昨日は聞きました」
「今日は聞かないのか?」
「はい」
「明珠」
「熱のある方の命令は、都合よく聞こえないことにいたしました」
「そんな法があるか」
「今できました」
文烈様が目を閉じました。
呆れたのでしょう。
それとも、少し疲れたのでしょうか。
そこを考え始めた自分が嫌でした。
洛陽の肇と纂にも、もう一度便りを書きました。
昨日は、『急いで来る必要はありません』でした。
今日の文には、『可能ならば寿春へ来てください』と書きます。
たったそれだけです。
けれど、その一文を書くまでに、ずいぶん時間がかかりました。
「肇と纂にもか?」
「はい」
「大げさだ」
「そうですね」
私は笑いました。
「あとで二人に、母上は心配性だと笑われればよろしいでしょう?」
それなら、いくらでも笑われます。
肇にも纂にも寧珠にも、何なら環珠と和珠にまで笑われればよろしいでしょう。
家族全員に笑われるくらいで済むなら、安いものです。
この時の私は、肇がすでに動いていたことを知りませんでした。
後になって知りましたが、最初の便りを受け取った時点で、肇は元仲様にも父上の病状を知らせていたそうです。
やがて届いた肇の便りには、こうありました。
『父上は大したことではないと申しておられるそうですが、母上が医者を呼び、なお私どもへ知らせてくる以上、本当に大したことがないとは思えません』
どういう意味ですか。
私は普段、そんなに大げさなのでしょうか。
いえ、今回は褒めて差し上げます。
元仲様も、寝台にいる文烈様へ無理に東の軍務を背負わせるおつもりはなかったのでしょう。
満伯寧殿を寿春へ向かわせ、石亭のあと再び軍務へ戻っていた王彦雲殿にも、こちらを支えるよう命じたとの知らせが入りました。
文烈様が動けないからといって、東の軍まで止めておくわけにはまいりません。
それだけのことなのだと、私は自分に言い聞かせました。
「伯寧まで来るのか?」
文烈様が寝台の上で眉を寄せました。
「来てくださるそうですよ」
「そこまでしなくていい」
「その台詞、この数日で何度目です?」
「俺はまだ軍務を見られる」
「寝台の上からですか?」
文烈様が黙りました。
「彦雲も来るのか?」
「はい」
「……そうか」
王彦雲殿については、それ以上何もおっしゃいませんでした。
夾石で命を助けられたばかりですから、さすがに文句も言いにくいのでしょう。
「元仲様は、あなたを見限ったのではございませんよ」
「分かっている」
「でしたら、大司馬らしく部下へ任せてくださいませ」
文烈様は目を閉じたまま、しばらく何も言いませんでした。
やがて、
「……少しだけだ」
と申しました。
そこまで譲るのに、どれだけかかるのですか。
けれど私は笑いました。
「はい……少しだけです」
治れば、また戻ればよいのですから。
満伯寧殿と王彦雲殿が寿春へ着く頃には、文烈様も少しは元気になっている。
そのつもりでした。
ですが、それからも熱は下がりませんでした。
膿を出したあと数日が過ぎても、文烈様は眠っている時間の方が長く、目を覚ましても水を少し飲むだけです。
食事にはほとんど手をつけません。
和珠の菓子も、そのままです。
「約束したのでは?」
私が言うと、文烈様は薄く目を開けました。
「何を」
「和珠とです」
少し黙ったあと、菓子の方を見ます。
「ああ……あとで食べる」
最初に聞いた「あとで」とは、もう同じ声ではありませんでした。
私は返事をしませんでした。
夕方、玉珠から便りが届きました。
今は正直、読む気になれませんでしたが、読まずに置いておけば、あの妹のことです。
後で何を書いてきたのか余計に気になります。
開きました。
『姉上、文烈様は寒くなくなりましたか? 私は夫に温めてもらいました』
私は便りを閉じかけました。
何を報告しているのですか。
その下には夫君の字で、
『誤解を招く書き方をするな』
とあります。
もう遅いです。
さらに玉珠が書き足しておりました。
『寝所は暖かかったです』
知りません。
本当に知りません。
右手はどうしたのですか。
いえ、それも知りたくありません。
私は便りを伏せました。
「玉珠か」
文烈様が目を開けております。
「はい」
「今日は何だ?」
「聞かない方が幸せです」
「昨日も聞いた」
「そして後悔なさいましたよね?」
文烈様は少し考えて、
「なら、いい」
と申しました。
学習なさいましたね。
こんな時なのに、少し笑ってしまいました。
けれど、その笑いは長く続きませんでした。
それから数日後、満伯寧殿と王彦雲殿が寿春へ入りました。
先に部屋へ来た彦雲殿は、寝台の文烈様を見るなり、一瞬だけ表情を止めました。
すぐにいつもの顔へ戻りましたけれど、私は見逃しませんでした。
「大司馬」
「彦雲……早かったな」
「また置いて帰ると、怖い方がおられますので」
「誰のことだ?」
「さて」
私を見ないでください。
満伯寧殿はその横で咳払いをしました。
「軍のことはこちらで見ます。大司馬は休まれよ」
「俺も――」
「休まれよ」
強いですね。
文烈様が私を見ます。
「私ではございませんよ」
「分かっている」
「では、伯寧殿には素直に従ってくださいませ」
満伯寧殿が、ほんの少しだけ笑ったように見えました。
これなら大丈夫。
軍のことは、この方たちへ任せられます。
文烈様は治ることだけ考えればよい。
そう思ったのです。
ところが、その夜になっても熱は下がりませんでした。
医者は背中を確かめ、額や首へ触れ、何度も脈を取ります。
「膿は出したのでしょう?」
私が尋ねました。
「はい」
「では、なぜ熱が下がらないのです?」
医者はすぐには答えませんでした。
その沈黙が嫌でした。
「癰だけの熱ではなくなっているのかもしれません」
「どういう意味です?」
「身体の中にまで熱が回っているのでしょう」
「身体の中」と言われても、私にはよく分かりません。
ですが、良い話ではないことくらいは分かりました。
「治るのでしょう?」
医者は文烈様を見ました。
「できる限りのことをいたします」
私は、その言葉が嫌いになりました。
治るとも、治らないとも言っておりません。
なのに、それ以上問い詰めることができない。
医者が新しい薬を用意している間、私は寝台のそばへ戻りました。
文烈様は目を閉じています。
「文烈様」
「……何だ?」
「寧珠も、肇も、纂も来ますからね」
「好きにしろ」
あれほど寧珠を呼び戻すなと言っていた文烈様なら、絶対にそうは言わなかったでしょう。
そこが何より怖かった。
私は文烈様の手を握りました。
あの夜ほど冷たくはありません。
その代わり、身体全体が熱い。
息も少し速くなっています。
それでも目を開ければ、いつもの文烈様でいてくださる気がしました。
「明珠」
「はい」
目が開きました。
私を見ています。
よかった。
ちゃんと私を見ています。
「……今は朝か?」
私は答えられませんでした。
窓の外は、もう真っ暗でした。
劉玉珠でございます。
姉上から、
『文烈様が、今は朝かと尋ねました』
と便りが来ました。
夫に見せましたら、しばらく黙っております。
「夜なのに、朝だと思ったのでしょうか?」
「……そうかもしれないな」
「では、朝まで待てば正解になりますね」
右手を鼻へ向けましたら、つかまれました。
「そういう問題じゃない」
「違うのですか?」
「違う」
難しいですね。
ですが今回は、夫も私の手を離しませんでした。
「姉上のところへ行くか?」
「はい」
すぐに答えました。
文烈様、今が朝でも夜でも構いません。
私たちが着くまで、姉上のことだけは忘れないでくださいね。




