文烈様、寒いのですか?
劉明珠でございます。
文烈様のおできは、昨日より少し大きくなりました。
ですので寝台から起きようとなさった大司馬を、押し戻しておきました。
石亭で敗れた文烈様は、寿春でも妻に連敗中でございます。
玉珠へ知らせましたら、
『姉上は強いのですね』
と返ってきました。
その下には夫君の字で、
『ここで右手が鼻へ向かったので止めた』
とございます。
何と戦っているのですか、あなた方は?
文烈様はまだ「大したことはない」と申しております。
環珠も和珠も、今のところ笑っております。
ですから私も、大丈夫だと思っておりました。
ところが――
夜になって、文烈様が妙なことをおっしゃいました。
「寒い」
……この暑い夜に、ですか?
翌朝、文烈様の背中のおできは、昨日より少し大きくなっておりました。
ですので私は、寝台から起きようとした文烈様を、そのまま押し戻しました。
「何をする」
「お休みくださいませ」
「もう休んだ」
「一晩眠れば治るものなら、医者は必要ございません」
「昨日より痛くない」
「昨日より大きくなっております」
「気のせいだ」
「では、ご自分でご覧になりますか?」
「……見えん」
「でしょうね」
背中について、背中の持ち主と議論するとは思いませんでした。
しかも私の方にしか見えません。
たいへん有利です。
「今日は軍の報告がある」
「報告は逃げません」
「人は来る」
「帰して差し上げます」
「明珠」
「おできと軍議をなさるおつもりですか?」
文烈様が黙りました。
勝ちました。
石亭で負けた大司馬が、寿春でも妻に二連敗しております。
もっとも、こちらはまったく喜ばしい勝利ではございませんけれど。
朝から呼んでいた医者がやって来ると、文烈様はたいへん不満そうに背を向けました。
昨日より赤みが広がり、腫れも強くなっているそうです。
医者が指で周囲を確かめるたび、文烈様の肩がわずかに動きます。
「痛いのでしょう?」
「別に」
「今、動きましたよ」
「押されたからだ」
「押されれば痛いということでは?」
「明珠」
「はい」
睨まれました。
元気ですね。
ならば大丈夫でしょう。
その時の私は、まだその程度に考えておりました。
医者は薬を替え、もう少し様子を見ると言いました。
膿がたまれば外へ出した方がよいとも申します。
聞いているだけで痛そうですね。
「切るのか?」
文烈様が尋ねました。
「必要になれば」
「なら、今やれ」
「文烈様」
なぜ戦場の傷と同じ扱いなのですか。
医者まで困っております。
「まだ時期を見た方がよろしいでしょう」
「そうか」
「残念そうになさらないでくださいませ」
何を急いでおられるのでしょう。
おできまで速やかに処理しなければ気が済まないとは、大司馬という役職は背中にまで及ぶようです。
昼になる頃には、環珠が様子を見に来ました。
十四になった娘は、父上が寝台にいるだけで妙な顔をします。
文烈様が横になっているところなど、ほとんど見たことがないからでしょう。
「父上、本当に寝てる」
「環珠」
「だって珍しいもの」
それはそうですね。
私も珍しいと思っております。
「母上に負けたの?」
「違う」
「負けましたよ」
「明珠」
「二連敗です」
「増やすな」
環珠が吹き出したので、私も少し安心しました。
こうして笑えているうちは、まだ大丈夫だと思えたのです。
そこへ和珠までやって来ます。
八つの娘は、昨日から残り三つになった菓子を一つ持っておりました。
「父上、これ食べる?」
「お前のだろう」
「父上のだよ」
「まだ残していたのか」
「うん」
和珠は胸を張りました。
どうしてでしょう。
父上へ菓子を残すことが、いつの間にか重大な任務になっております。
文烈様は手を伸ばしましたが、途中で止めました。
「今はいらない」
「おなかいっぱい?」
「少しな」
「じゃあ、あとで食べる?」
「ああ」
和珠は納得して、寝台の脇へ菓子を置きました。
「ここに置いとくね」
「分かった」
「食べちゃだめだよ、母上」
「なぜ私なのです?」
疑われました。
私は娘の菓子を盗み食いするほど困っておりません。
たぶん。
和珠が出ていったあと、私は寝台の脇に残された菓子を見ました。
いつもなら文烈様は、あの程度なら一口です。
「食欲がないのですか?」
「朝は食べた」
「いつもの半分でしょう」
「見ていたのか?」
「妻ですので」
十七年も一緒なら食べる量くらい分かります。
文烈様は答えず、目を閉じました。
石亭から帰ったばかりなのですから、少し疲れていても何もおかしくはありません。
午後には寧珠から便りが届きました。
十六になり、子初殿の妻となった娘です。
父上の背中に腫れ物ができたと環珠から聞いたらしく、すぐにでも寿春へ行こうかと書いてありました。
「呼びますか?」
私が尋ねると、文烈様は目を開けました。
「まだいい」
「会いたくないのですか?」
「そういう意味ではない」
「では?」
「嫁いだばかりだ。いちいち呼び戻すな」
「寧珠が自分で来たがっておりますよ」
「大したことではない」
またそれですか。
昨日より大きくなり、食事まで減っているお方が申しても説得力がございません。
「心配されるのがお嫌なのですね?」
「違う」
「娘に弱っているところを見られたくない?」
「明珠」
「当たりですか?」
「違う」
声が少し大きくなりました。
元気ですね。
やはり大丈夫でしょう。
私は寧珠へ、医者が診ていることと、今すぐ来なくてもよいことだけを書きました。
父上本人が来るなと言っているとは書きません。
そんなことを書けば、あの娘は余計に来るでしょう。
文烈様は、寧珠が父上のことになると案外頑固になるのを、少し甘く見ておられるようです。
そして、洛陽にいる肇と纂にも便りを出しました。
二人とも文烈様の息子です。
知らせないという選択肢はございません。
ただし、
『父上の背に癰ができました。医者が診ておりますので、今のところ急いで寿春へ来る必要はありません』
とだけ書きました。
余計なことを書けば、肇はすぐ馬を用意し、纂はその横で旅支度を始めそうです。
「何と書いた?」
文烈様が尋ねました。
「大したことはない、と」
「ならいい」
「あなたがおっしゃると腹が立ちますが、私が書く分には便利ですね」
「明珠」
「はい?」
返事はありませんでした。
どうやらお気に召さなかったようです。
肇と纂から返事が届く頃には、もう少し腫れも引いているでしょう。
その時の私は、そう思っておりました。
夕方には玉珠からも便りが届きました。
『姉上、文烈様のおできはどうですか? 夫に話しましたら、あまり触るなと言われました』
その下には、例によって夫君の字がございました。
『ここで右手が鼻へ向かったので止めた』
もう報告しなくても分かります。
さらに玉珠が、
『おできは鼻と違って触らない方がよいのですね』
と書いております。
比べないでくれませんか?
私は思わず便りを伏せました。
「玉珠か?」
寝台から文烈様が尋ねます。
「はい」
「何と?」
「知らない方がよろしいかと」
「余計に気になる」
「おできと鼻を比較しております」
「……聞かなければよかった」
でしょう?
夫婦というものは、時に知らない方が幸せなこともございます。
夜になって、医者がもう一度様子を見に来ました。
腫れは朝よりさらに熱を持ち、中央が硬くなっているそうです。
薬を替えながら、明日には膿を出す処置を考えると言いました。
文烈様は相変わらず平然としておりますが、私はその横顔から目を離せませんでした。
「熱は?」
医者が尋ねます。
「ない」
文烈様が答えます。
「あります」
私は答えました。
「明珠」
「額が熱いです」
「少しだ」
「では私の額と交換なさいますか?」
できませんけれど。
医者は文烈様の手首へ指を置き、脈を確かめてから、少し考えるように黙りました。
「何か?」
「お疲れもあるのでしょう。今夜はよくお休みください」
そう言われれば、それ以上は聞けません。
医者が帰ったあと、文烈様は本当に眠りました。
昼間より口数が減っております。
いつもの文烈様なら、寝ろと言われても書状の一つくらい読もうとするところです。
それすらしません。
私は灯りを落とし、寝台のそばへ座りました。
背中の腫れ物は薬で覆われています。
見えない方が、かえって気になりますね。
しばらくすると、文烈様が身じろぎしました。
「明珠」
「起きておられたのですか?」
「ああ」
「何か召し上がります?」
「いらん」
和珠の菓子も、まだ置いたままです。
私は水を渡しました。
少しだけ口をつけ、文烈様はまた横になります。
その時、肩が震えました。
最初は寝返りを打ったのだと思いました。
ですが、もう一度。
今度ははっきりと分かりました。
「文烈様?」
返事が遅れます。
私は掛け物を直しました。
「寒い」
耳を疑いました。
外はまだ暑さの残る季節です。
部屋の中も冷えてなどおりません。
「寒いのですか?」
「ああ……少し」
私は額へ手を置きました。
熱い。
昼より、ずっと。
それなのに文烈様は寒いと申します。
「医者を呼びます」
「夜だぞ」
「だから何です?」
「明珠」
「呼びます」
また同じやり取りですね。
いつもなら、そこで文烈様が諦めます。
ですが、その夜は反論が返ってきませんでした。
私は文烈様の手を取りました。
額はあれほど熱いのに――
指先が、妙に冷たかったのです。
劉玉珠でございます。
姉上から、
『文烈様が寒いと申しております』
と便りが来ました。
寒いのでしたら、掛け物を増やせばよいのでは?
夫にそう申しましたら、
「今、暑いだろ」
と言われました。
確かに暑いですね。
「なのに寒いって言ってるんだ」
「では、もっと掛ければ」
「そういう話じゃない」
難しいですね。
考えながら右手を鼻へ向けましたら、いつものようにつかまれました。
「お前は元気だな」
「はい」
褒められました。
「褒めてない」
違うそうです。
ですが、そのあと夫は姉上の便りをもう一度読みました。
「……医者は呼んだんだろうな」
「姉上ですから、呼んでいると思いますよ」
夫は返事をしませんでした。
文烈様……
本当に、寒いだけなのですよね?




