文烈様、今は止まってくださいませ
劉明珠でございます。
文烈様が、寿春へ帰ってこられました。
和珠は父上のために残していた菓子を四つ抱え、門まで走っております。
途中でいくつ食べたのかは、聞かないことにいたしましょう。
玉珠へ知らせましたら、
『では、姉上も今夜は安心ですね』
と返ってきました。
その下には夫君の字で、
『ここで右手を止めた』
とございます。
何の安心を想像したのですか、玉珠……
もっとも――
十七年も夫婦をしておりますと、帰ってきた夫に遠慮する理由もございません。
文烈様、今夜くらいは何も考えずにお休みくださいませ。
……途中で止めることになるとは、私も思っておりませんでしたけれど。
文烈様が寿春へ戻ってきた日、和珠は残していた菓子を四つ全部、両手で抱えて門まで走りました。
「父上!」
馬を降りた文烈様は、少し驚いたように目を見開きました。
「和珠」
「四つあるよ」
「……何がだ?」
「お菓子」
そこからですか。
石亭から命がけで戻ってきた大司馬へ、最初に報告することが菓子の残数とは、さすが我が娘です。
文烈様は笑い、和珠の頭を撫でました。
「全部食べていいと言っただろう」
「父上のだから」
「そうか」
そうして差し出された一つを、その場で食べました。
和珠は満足そうです。
「おいしい?」
「ああ」
「あと三つあるよ」
「俺が帰る前に四つになったんじゃなかったのか?」
「うん」
「……よく残ったな」
「和珠、がんばったよ」
何を頑張ったのでしょう?
途中で二つほど召し上がっていたことは黙っておきます。
環珠はその隣に立ったまま、しばらく何も申しませんでした。
十四になった娘ですから、和珠のように飛びつくことはございません。
けれど、文烈様が環珠の前まで来ると、唇を少し噛みました。
「戻ったぞ」
「……お帰りなさい、父上」
それだけでした。
文烈様も何も言わず、環珠の頭へ手を置きます。
環珠は少し俯きました。
泣くほどではないけれど、泣かないようにはしている。
十四というのは、そういう年頃なのでしょう。
私は少し離れたところから見ておりました。
帰ってきた。
本当に。
石亭で敗れ、陸遜に追われ、夾石まで退いて、それでも文烈様は寿春へ帰ってきてくださいました。
私のところへ。
「明珠」
呼ばれて、ようやく足が動きました。
「お帰りなさいませ、文烈様」
「ああ」
それだけで済ませるおつもりですか?
私は文烈様の顔を見ました。
頬は少しこけ、鎧には帰路の汚れが残っております。
それでも、文烈様は私の前に立っています。
「お怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「彦雲に守られた」
「それを胸を張っておっしゃるのですか?」
「事実だ」
そこは素直なのですね。
もっとも、王彦雲殿がいなければ、こうして笑って話せる帰還ではなかったのでしょう。
「梁道殿にも助けていただいたのでしょう?」
「……そうだ」
「たいへん小さなお声ですね」
「聞こえただろう」
「もう一度お願いします」
「断る!」
やはり仲がよろしくありませんね。
命を助けていただいたのですから、今度お会いした時くらいは素直に礼を――
いえ、文烈様ですから無理でしょうか。
屋敷へ入っても、文烈様は休もうとはなさいませんでした。
「まず元仲様へ上表する」
「今ですか?」
「今だ」
「帰ってきたばかりでしょう?」
「だからだ」
こういうところは本当に融通が利きません。
私は湯と食事を先にと申し上げましたが、文烈様は首を振りました。
石亭で兵も軍資も失い、周魴の策に乗せられたことまで、すべて自分の名で元仲様へ報告し、謝罪するのだそうです。
「周魴が巧妙だったのでしょう? 陸遜も強かった。それに彦雲殿も梁道殿も働いた」
「分かっている」
ならば全部お一人で背負わなくてもよろしいではありませんか。
そう申しましたら、文烈様は筆を置かずに答えました。
「十万の軍勢を率いたのは俺だ」
そういう方でしたね。
私はそれ以上申しませんでした。
代わりに、文烈様の横へ食事を置きます。
「冷める前に召し上がってください」
「後で」
「今です」
「明珠」
「十万を率いた大司馬が、妻一人に負けるくらい問題ございません」
文烈様は私を見ました。
石亭で陸遜を前にした時より、嫌そうなお顔をなさらないでくださいませ。
それでも箸は持ちました。
どうやら石亭より私の方が強かったようです。
数日後、元仲様から使いが参りました。
文烈様を責めるためではありません。
慰めるためでした。
礼も賜り、これまで以上に厚く遇するとのこと。
その話を聞いた文烈様は、しばらく黙っておりました。
「元仲様は、あなたを見捨てておられませんね」
「……ああ」
「では、少しくらい肩の力を抜かれてはいかがです?」
「それとこれは別だ」
「またそれですか」
本当に便利な言葉ですね。
環珠も、その話を聞いて少し安心したようでした。
和珠は、
「父上、もう怒られないの?」
と尋ねました。
「怒られると思っていたのですか?」
「負けたから」
子供は容赦がありません。
文烈様は少し考えて、
「俺が一番怒っている」
と答えました。
「誰に?」
「俺にだ」
「自分に怒れるの?」
「怒れる」
「痛くない?」
「……何の話だ?」
和珠……
父上はご自分を殴る話をしているわけではございませんよ。
その日の夕方には、寧珠からも便りが届きました。
嫁いだ十六の娘は、文烈様がお戻りになったと聞いて安心したこと、子初殿も帰還を喜んでいることを書いております。
文烈様は一度読み終え、もう一度最初から読みました。
「一度で足りないのですか?」
「確認だ」
「何を?」
「元気そうだ」
「最初からそう書いてあります」
大司馬の確認作業は、娘の便りになるとたいへん念入りです。
玉珠からも便りが来ました。
『文烈様が帰ってこられてよかったですね。これで姉上も安心ですね』
ここまでは普通です。
その下に夫君の字で、
『ここで右手が鼻へ向かったので止めた』
とありました。
なぜ毎回報告するのでしょう。
さらに、
『姉上に安心したと伝えてください』
と玉珠が書き足しております。
右手を止められながら何を安心しているのですか。
ですが、私も同じでした。
安心していたのです。
夜になり、ようやく二人きりになりました。
文烈様は久しぶりに鎧も公服も脱ぎ、ただの夫に戻っております。
「今日はもう何もなさらないでくださいませ」
「何もしないのか?」
「そういう意味ではございません」
少し笑いました。
三千回を越えておりますので、今さら夫婦の間で妙な遠慮をするほど若くはございません。
石亭から帰ってきた文烈様が、目の前にいる。
それを確かめたかったのは、私も同じだったのだと思います。
それから先は、いつものことです。
いちいち言葉にする必要もございません。
文烈様の腕が私を引き寄せ、私はその肩へ手を置きました。
そして背中へ腕を回した時です。
指先に、覚えのない膨らみが触れました。
「……文烈様」
「何だ?」
「少し止まってくださいませ」
「今か?」
「今です」
たいへん不満そうなお顔をなさいました。
その顔を見て、少しだけ安心してしまった自分が腹立たしいです。
私はもう一度、背中へ手を回しました。
やはりあります。
肩の少し下、背の上の方でしょうか。
丸く盛り上がり、触れると周囲より熱を持っております。
「ここ、痛みませんか?」
「どこだ?」
「ご自分では見えませんものね」
指で軽く押すと、文烈様の眉が動きました。
「……少し痛いな」
「少し?」
「鎧で擦れたんだろう」
「鎧には、背中へ立派なおできまで作る機能がございましたか?」
「知らん」
「私も初耳です」
文烈様は気にする様子もありません。
ですが私は気になりました。
長い夫婦です。
あの方の背中へ手を回したことなど、数え切れません。
昨日今日できた擦り傷との違いくらい、分かります。
「明日、医者を呼びます」
「そこまでしなくていい」
「呼びます」
「明珠」
「呼びます」
三度目は申しませんでした。
必要もありません。
翌朝、医者に診てもらいました。
背中にできた癰だろうとのことでした。
まだそれほど大きなものではなく、熱を持っているため、まず腫れを抑え、膿がたまれば出すことになるそうです。
文烈様は、
「ほら、大したことはないぞ」
と申しました。
医者はそんなことを一言も申しておりません。
「しばらく無理をなさらぬように」
と言われたのに、
「分かった」
と答えた直後、
「軍の報告を――」
と言い始めましたので、寝台へ戻しました。
「分かったとは何をお分かりになったのです?」
「……」
「昨夜も似たようなやり取りをした気がいたしますね」
「覚えている」
「では学んでくださいませ」
環珠も和珠も、父上が医者に診てもらったと聞いて心配しました。
「父上、病気なの?」
和珠に尋ねられましたので、
「背中に少し腫れ物ができただけですよ」
と答えました。
環珠は何も言いません。
ですが、父上の部屋を出るまで何度も振り返っておりました。
私は二人へ笑ってみせました。
治療を始めれば治るのです。
戦場から生きて帰ってきた文烈様が、こんなおでき一つにどうにかされるはずがない。
私自身、本当にそう思っておりました。
翌朝、薬を替えるために背中を見ました。
昨日、私の指先に触れた膨らみが、同じ場所にあります。
ただし――
昨日より、少し大きくなっておりました。
劉玉珠でございます。
文烈様が無事にお帰りになったそうです。
よかったですね。
ところが姉上から、
『昨夜は途中で止めました』
と書いてありました。
何をでしょう?
夫に尋ねましたら、
「聞くな」
と言われました。
「夫婦のことだ」
「私たちも夫婦ですよ?」
「だから分かれ」
「分かりません」
考えながら右手を鼻へ向けましたら、つかまれました。
「そっちは迷わないのにな」
「慣れておりますので」
夫が頭を抱えております。
ですが、そのあとに書かれていたことは、私にも分かりました。
文烈様の背中に、おできができたそうです。
昨日より少し大きくなっている、と。
「おできなら治りますよね?」
そう尋ねましたが、夫はすぐには答えませんでした。
代わりに私の右手をつかんだまま立ち上がります。
「来い」
「どちらへ?」
「寝所だ」
「まだ眠くありませんよ?」
夫は私を見て、ため息をつきました。
「さっきのは、こういうことだ」
「何がです?」
そのまま寝所へ連れていかれました。
……なるほど。
夫婦のことでした。




