文烈様、陸遜が来ておりますよ?
劉明珠でございます。
文烈様が寿春を発ってから、和珠は毎朝、菓子を数えております。
父上の分を残すそうです。
もっとも、自分でも食べておりますので、少しずつ減っております。
何を守っているのでしょうね?
玉珠からも便りが届きました。
『姉上、寂しくありませんか?』
と書いた直後、右手を鼻へ向けて夫君に止められたそうです。
なぜ、その報告まで寿春へ届くのでしょう。
おかげで少し笑えました。
ですが、文烈様から届く便りは、だんだん笑えないものになっております。
周魴――
やはり、あの男は気になります。
そして――
その先で文烈様を待っていた男を、私は知っております。
父上を破った男です。
文烈様が寿春を発ってから、和珠は毎朝、菓子の数を数えております。
「六つある」
八つになった娘が、たいへん真剣な顔で申しました。
「昨日も六つではありませんでしたか?」
「うん」
「では、数えなくてもよいのでは?」
「父上のだから」
そうでした。
出立の日、文烈様は自分の分まで食べてよいと申しましたが、和珠は結局、残しております。
「全部、父上に取っておくのですか?」
「ううん」
和珠は一つ手に取りました。
「これは和珠の」
「減りましたね?」
「明日また数える」
何のために数えているのでしょう?
十四になった環珠は、そんな妹を見て笑っておりました。
「父上が帰るまで残ってるかな?」
「残すよ」
「和珠が?」
「うん」
「無理じゃない?」
「できるもん」
環珠……
私も同じことを思いましたが、口には出さないであげてくださいませ。
文烈様がいない家は、以前にも経験しております。
戦へ出れば帰りを待つ。
それは私にとって、今さら珍しいことではありません。
それでも今回は、少し違いました。
周魴――
あの名が、どうしても頭から離れないのです。
文烈様は疑っておりました。
書状を受け取った時から警戒し、周魴について調べたうえで朝廷へ上奏し、それでも捨て置くことはできないと判断なさいました。
少なくとも、文烈様がどれほど周魴を疑っていたかは知っております。
だから安心して待てばよいのです。
……そのはずなのですが。
数日後、文烈様から最初の便りが届きました。
詳しい軍務の話など、もちろん書かれておりません。
皖方面へ順調に進んでおり、軍にも大きな乱れはないそうです。
家のことは任せる、とも書いてありました。
最後には、
『環珠と和珠にも、心配するなと伝えてくれ』
とありました。
私については?
もう少し何かございませんか?
夫の手紙を最初から読み直してみましたが、増えるわけもございません。
仕方がありませんので、娘たちへ伝えました。
「父上はお元気だそうですよ」
環珠は目に見えて安心しました。
和珠は、
「お菓子のこと書いてあった?」
と尋ねました。
「ありません」
「忘れたのかな?」
「戦へ行っておりますからね」
そちらを覚えていてください。
もっとも、文烈様も娘から渡された菓子を普通に食べていた方です。
似た者親子なのでしょう。
寧珠からも便りが届きました。
子初殿と穏やかに暮らしているようですが、父親が出陣したことは当然気になっているのでしょう。
『父上からお便りはありましたか』
と書かれております。
私は、
『ありました。今のところ問題はないようです』
とだけ返しました。
周魴の名は書きません。
寧珠はもう嫁いでおりますが、だからといって軍務を知らせてよい理由にはなりません。
知らなくてよいことまで知らせるのは、親切ではございませんから。
玉珠からも便りが来ました。
こちらはたいへん平和です。
『文烈様は、もう帰ってこられますか?』
まだです。
『姉上は寂しくありませんか?』
寂しくないと言えば嘘になります。
その下には夫君の字で、
『ここで右手が鼻へ向かった』
とありました。
どうして毎回報告するのでしょう。
さらに玉珠の字で、
『止められました』
それは分かっております。
お二人とも、わざわざ寿春まで何を知らせてくださっているのですか?
思わず笑ってしまいました。
そうして笑えるうちは、まだよかったのです。
文烈様が出てからしばらくすると、寿春へ入ってくる報せの空気が変わり始めました。
私へ軍議の内容が知らされることはありません。
ただ、大司馬の家族として耳にしてよい範囲の話だけでも、十分でした。
皖の周辺では呉軍の動きが増え、周魴との話も予定どおりには進んでいないらしい。
その程度しか、私には分かりませんでした。
それでも、胸の奥へ小さな棘が刺さったようでした。
文烈様、あなたも気づいておられますよね?
あれほど疑っていたのですから。
夜になっても眠れず、私は一人で庭へ出ました。
いつもなら隣に文烈様がおります。
いつの間にやら長い夫婦になっておりました。
話したいことがなくても隣におりますし、話したくない時にも勝手に隣へ来ます。
三千回を越えてなお飽きない方なのですから、その程度の遠慮があるはずもございません。
「母上?」
振り返ると、環珠が立っておりました。
「まだ起きていたのですか?」
「母上こそ」
言うようになりましたね。
「父上のこと?」
「少しだけ」
「大丈夫だよね?」
十四歳です。
和珠ほど幼くはありません。
私の顔を見れば、何かがいつもと違うくらい分かってしまうのでしょう。
私は環珠の髪を撫でました。
「あなたの父上ですよ?」
「うん」
それだけで通じました。
文烈様は強く、経験もあります。
何より、疑うべきものを見過ごして進む人ではありません。
それは私自身が一番よく知っています。
翌朝――
和珠が起きてくるなり、菓子を数えました。
「五つ」
「減っていますね」
「昨日、ひとつ食べた」
「知っております」
「父上、まだ帰らない?」
「もう少しでしょう」
そう答えた時です。
家の外が騒がしくなりました。
馬の音に続いて、慌ただしい足音。
環珠がこちらを見ました。
私も立ち上がります。
寿春へ急使が入ったと聞いたのは、それから間もなくでした。
すぐにすべてを知ることはできません。
待たされました。
この待つ時間が嫌いです。
何が起きたのか分からないまま、人の顔だけが険しくなっていく。
私は環珠と和珠の前ではいつもどおりにしておりました。
和珠が、
「父上から?」
と尋ねます。
「まだ分かりません」
それ以上は言えませんでした。
やがて、私にも伝えられる範囲の報せが届きました。
周魴の帰順に、不審な点がある。
それを聞いても、驚きませんでした。
最初から文烈様も疑っていたのです。
むしろ、やはり――という思いの方が強かったのかもしれません。
けれど、次の報せは違いました。
「……周魴は?」
尋ねた私へ、使者は少しだけ間を置きました。
「帰順は偽りでした」
あれほどの書状も、呉で責められているという話も、髪まで切ったあの姿さえも、すべて偽りだったのですね。
文烈様が疑い、調べ、それでも完全には否定できなかったものすべてが、夫を皖へ誘い込むためだったのです。
「文烈様は?」
自分でも驚くほど、声は普通に出ました。
「大司馬は状況を確認し、軍をまとめておられます」
私はようやく息を吐きました。
文烈様の軍勢は崩れておりません。
罠だと分かったなら、その先を考える方です。
「敵は?」
「呉軍が動いております」
そこまでは予想できます。
問題は、誰が来るのか。
私は聞きました。
「指揮を執っているのは?」
返ってきた名を聞いた瞬間、息が止まりました。
「陸遜です」
その名を、私は知っております。
忘れるはずがありません。
父上が呉へ攻め込み、大軍を失った夷陵。
あの戦で、父上の軍を破った男です。
私は父上を恨んでおります。
長坂で私たちを置いて逃げたことを、今でも許したわけではありません。
それでも父上は父上です。
「母上?」
環珠が私を見ていました。
私は笑いました。
笑えたと思います。
「大丈夫ですよ」
誰に言ったのでしょう?
環珠にでしょうか。
和珠にでしょうか。
それとも、自分にでしょうか。
さらに報せが続きます。
呉軍はすでに大きく動き、文烈様の軍は石亭にいるとのことでした。
私は拳を握りました。
文烈様はあれほど疑い、調べ、それでも周魴にここまで引き込まれました。
ならば今度は、文烈様の番です。
罠だと分かった後に、どうするのか。
私は夫を信じています。
ですが――
父上を破った陸遜が、今度は文烈様の前に立っておりました。
劉玉珠でございます。
姉上から、文烈様はまだお戻りにならないと聞きました。
ですので夫に、
「戦は長引いているのでしょうか?」
と尋ねました。
「……そうかもしれないな」
歯切れが悪いですね。
「では、文烈様が帰ってきた時のために、お菓子を用意しましょう」
「お前が食べるだろ」
「少しは残します」
「和珠と同じことを言うな」
姪と気が合うようです。
安心したので右手を鼻へ――
つかまれました。
「今はやめろ」
「今は?」
「ああ」
「では、いつならよいのです?」
「そういう意味じゃない」
難しいですね。
ですが、そのあと夫は笑いませんでした。
姉上も、きっと同じ顔をしているのでしょう。
文烈様。
早く帰ってきてくださいませ。




