文烈様、その七条を信じるのですか?
劉明珠でございます。
呉の鄱陽太守・周魴から、文烈様へ書状が届きました。
孫権の側から責められ、命が危うい。
できることなら、鄱陽ごと魏へ帰順したい。
……ずいぶん、こちらに都合のよいお話ですね。
しかも書状は一つではございません。
七条です。
たくさん書けば真実になるのでしたら、世の中はずいぶん簡単でございます。
ちなみに玉珠からは、まったく関係のない便りが届きました。
夫君の書き添えによれば、途中で右手が鼻へ向かったそうです。
そちらはいつも通りですね。
文烈様も、周魴をまだ信じてはいないとおっしゃいます。
ですが――
信じていないのに、捨てることもできない。
それが一番、嫌な書状ではございませんか?
「……呉からだ」
文烈様がそうおっしゃった瞬間、私は机の上へ目を向けました。
つい先日まで、寧珠から便りが届けば仕事の手を止め、同じところを何度も読み返していた方と同じ人とは思えません。
娘の婚礼で消えた大司馬は、本当に戻ってきたようです。
「孫権からでございますか?」
「違う。鄱陽太守、周魴だ」
「呉の太守が、なぜあなたへ?」
文烈様はすぐには答えませんでした。
軍務の書状を妻へ好き勝手に見せる方ではございません。
私も、本来なら尋ねるべきではないのでしょう。
ですが今回は、私があまりにも気にしていたせいでしょうか。
文烈様は書状そのものではなく、必要なところだけを話してくださいました。
「七条ある」
「七条も?」
「ああ」
「ずいぶん熱心に裏切りますね」
「そういう数え方をするな」
では、どのように数えればよいのでしょう。
周魴は以前から魏へ心を寄せていたものの、呉に仕えているため動けずにいたそうです。
近頃では孫権の側から責めを受け、身の危険まで感じており、機会さえあれば鄱陽を挙げて魏へ帰順したいと願っている――。
そのために、文烈様へ軍を皖方面まで進めてほしい――。
聞けば聞くほど、私でも警戒いたします。
「ずいぶん都合がよろしいですね?」
「ああ」
「信じるのですか?」
「まだ信じない」
即答でした。
その言葉に、私は少しだけ安心しました。
「周魴は昨年、彭綺を討った男だ」
「功を立てたばかりなのですね」
「そんな男が急に呉で追い詰められ、俺に助けを求めてくる。妙だろう」
「では、捨て置かれますか?」
「それもできん」
「なぜです?」
「本物だったらどうする?」
文烈様は私を見ました。
「敵国の太守が郡ごと来ると言っている。疑わしいからと無視すれば、次に魏へ降ろうとする者まで口を閉ざす」
「罠なら?」
「兵を失う」
「どちらも嫌ですね」
「だから調べる」
そこでようやく私は、この方が周魴の言葉へ飛びついたのではないと分かりました。
寧珠の婚礼では、司馬子初殿が娘を見ただけで眉間に皺を増やしていた方です。
今は敵国の太守から届いた話を前にしても、顔色一つ変えません。
同じ夫なのですが、人とはここまで切り替わるものなのでしょうか?
その日から、文烈様は忙しくなりました。
私は軍務の細かなところまでは聞きません。
ただ、周魴が本当に呉で責められているのか、鄱陽で何が起きているのか、書状を運んだ者に不自然なところはないかを確かめさせていることだけは教えてもらいました。
文烈様は、疑えるところを残さぬつもりで調べておられるようでした。
ところが困ったことに、調べれば調べるほど周魴の話に合う情報が出てきたそうです。
数日後、文烈様がぽつりと申しました。
「周魴は、実際に呉の役人から詰問を受けているらしい」
「本当に?」
「ああ」
それだけではありませんでした。
周魴は郡の役所の門前で髪まで切り、自分の不始末を詫びたという話まで入ってきたのです。
「そこまでなさったのですか?」
「俺に信じさせるためなら、大した役者だ」
「まだ疑っておられるのですね?」
「当然だ」
文烈様はそう答えました。
そこまで疑って、それでも完全には切り捨てられない。
本物なら、助けを求めている者を見殺しにすることになります。
偽物なら、こちらが大軍を動かすことになる。
笑い事ではございません。
ですから、この件については環珠にも和珠にも話しておりません。
十四になった環珠なら、父親が何か大きな仕事を抱えていることくらいは気づいているのでしょう。
ある日、私へ小さな声で尋ねました。
「母上、父上、最近ずっと難しい顔してるね」
「お仕事ですから」
「姉上の手紙を読んでる時とは違うね」
「そこは分かるのですね」
環珠は少し笑いました。
八つの和珠は、そこまで深く考えておりません。
「父上、難しいお仕事してるの?」
「そうですよ」
「お菓子いるかな?」
「たぶん、いりません」
そう答えたのですが、和珠は二つ持って行きました。
しばらくして戻ってきます。
「父上、一つ食べた」
「食べたのですか?」
大司馬は何をしているのでしょう……
もう一つは和珠が自分で食べました。
こちらは想定内です。
玉珠からも、ちょうどその頃に便りが届きました。
もちろん、周魴のことなど何も知らせておりません。
書かれていたのは寧珠の新婚生活を心配する話と、環珠と和珠は元気かという話、それから最後に、
『姉上もお忙しいと思いますが、ちゃんとお休みください』
とありました。
珍しくまともですね。
そう思いましたら、その下に夫君らしい字で、
『ここまで書いて右手が鼻へ向かったので止めた』
と添えてありました。
安心いたしました。
玉珠は元気です。
その夜、娘たちが寝たあと、文烈様はまだ机へ向かっておりました。
私は少し離れたところから、その背中を見ております。
「文烈様」
「何だ?」
「まだ気になりますか?」
「気になるから行く」
「信じたからではなく?」
「ああ」
私は隣へ座りました。
「罠だと思っておられるのですか?」
「可能性はある」
「それでも?」
「本物である可能性も消えていない」
文烈様の声は落ち着いておりました。
「お一人で全部背負わないでくださいませ」
「まだ何も起きていない」
「起きる前だから申しております」
私は戦場へついて行けません。
兵の動かし方も、敵の見方も、文烈様の方がはるかによく分かっております。
だからこそ、妻として言えることだけは言っておきたいのです。
「疑うべきところは疑ってください。退くべき時には退いてください。あなたは大司馬ですが、私の夫でもございます」
「分かっている」
「本当に?」
「寧珠の時とは違うぞ」
「またそれですか?」
思わず笑いました。
そこだけは変わりませんね。
私は立ち上がり、文烈様の手を取りました。
「今夜くらいは、お仕事を終わりになさってください」
「まだ――」
「周魴殿は逃げません」
「……そうだな」
それから先に、いちいち言葉は要りません。
三人の娘を育て、そのうち寧珠は嫁ぎました。
夫婦になってから何度こうしたかなど、とうの昔に数えるのをやめております。
三千を越えたあたりで、もうどうでもよくなりました。
今さら夫に抱き寄せられて驚くような間柄でもございません。
ただし、
「文烈様」
「何だ?」
「明日はお早いのでしょう?」
「ああ」
「では、ほどほどに」
「分かった」
この方の「分かった」は、こういう時ほど信用できません。
翌朝――
「文烈様……」
「何だ?」
「昨夜、分かったとおっしゃいましたよね?」
「……言ったな」
「何をお分かりになったのでしょう?」
「……」
目を逸らしました。
寧珠のところへ行こうとしていた朝以来ですね。
大司馬の威厳は、夜になると時々お休みになるようです。
もっとも、朝餉を終える頃には完全に戻っておりました。
文烈様は周魴の件を朝廷へ上奏し、やがて洛陽から返答が届きました。
元仲様も、この帰順の話を軽くは見ておられません。
真実なら、呉へ大きな楔を打ち込む機会になります。
文烈様が皖方面へ動くのに合わせ、他の方面からも軍を動かすことになりました。
文烈様だけが動く話では、もうなくなっていたのです。
それでも文烈様は慎重でした。
進む道を確かめ、敵の動きを探らせ、兵糧を整えます。
罠ではないと決めつけるのではなく、何かあった時に軍を動かせるよう備えているのでしょう。
その姿を見ておりますと、寧珠の婚礼で泣き崩れていた方と同じ人とは、やはり思えません。
寧珠から便りが届いたのは、ちょうどその頃でした。
子初殿とも穏やかに暮らしているそうです。
文烈様は読みました。
一度だけ。
そして畳みます。
「一度でよろしいのですか?」
「今は仕事中だ」
「成長なさいましたね」
「何の話だ?」
あなたのお話です。
ところが夕方になると、もう一度開いておりました。
見なかったことにして差し上げます。
出立の日が近づくにつれ、家の空気も変わりました。
環珠は何も尋ねず、私と一緒に父親の衣や必要なものを整えます。
和珠はまだ素直です。
「父上、また戦に行くの?」
「ああ」
「いつ帰る?」
「できるだけ早く帰る」
「お菓子がなくなる前?」
「それは早すぎるな」
和珠はしばらく考えました。
「じゃあ、父上の分、残しておく」
「食べていい」
「本当に?」
「ああ」
「全部?」
「全部だ」
「分かった」
そこは迷わないのですね。
出立の朝、私は久しぶりに甲冑を身につけた文烈様を見ました。
娘の婚礼で帯を何度も締め直していた父親ではありません。
「明珠」
「はい」
「留守を頼む」
「承知いたしました」
私は胸元を整えながら、最後に一度だけ尋ねました。
「周魴を信じすぎてはいませんね?」
「信じてはいない」
「では?」
「確かめに行く」
そうおっしゃる顔に、迷いはありませんでした。
周魴が本当に帰順を望むのなら、迎える。
罠ならば、見抜く。
そのために文烈様は軍を率います。
私は、その判断を信じました。
信じたからこそ――夫が皖へ向かう背中を、止めませんでした。
この時の私はまだ知りません。
周魴が髪まで切って裏付けた、あの七条の書状。
その一字一字が――
文烈様を皖へ向かわせるために書かれていたことを。
劉玉珠でございます。
姉上から、文烈様がお忙しいとは聞いておりました。
ですが、何のお仕事なのかは教えていただけませんでした。
夫に、
「私には秘密なのですね?」
と申しましたら、
「お前に話したら心配するだろ」
と言われました。
なるほど。
では心配しないよう、右手を鼻へ――
つかまれました。
「それとこれは別だ」
「文烈様もよくおっしゃるそうですよ?」
「真似するな」
便利な言葉なのに……
その文烈様は、とうとう戦へ向かわれたそうです。
姉上は何もおっしゃいませんでしたが、少し心配なのでしょう。
ですから私は、帰ってきたら文烈様にお菓子を差し上げようと思います。
夫は何も言いませんでした。
……ならばなぜ、そのようなお顔をなさるのです?




