文烈様、娘のところへ行くには早すぎませんか?
劉明珠でございます。
昨日、寧珠が嫁ぎました。
文烈様は大泣きなさいましたが、夜には少し落ち着かれましたので、これでようやく大司馬へお戻りになるものと思っておりました。
甘かったです。
今朝、目を覚ますと隣に文烈様がおりません。
玉珠へ話しましたら、
「寧珠に会いに行ったのでは?」
と申しました。
そんなはずは――
いえ……
あの方なら、やりかねません。
玉珠は考えながら右手を鼻へ向け、夫君につかまれておりました。
そちらは平常運転ですね。
問題は文烈様です。
娘を嫁に出して一晩。
まさか、もう会いに行くおつもりではございませんよね?
寧珠が嫁いだ翌朝、私は目を覚ましてすぐ、隣に文烈様がいないことに気づきました。
嫌な予感がいたします。
身支度を整えて外へ出ますと、案の定、文烈様が出かける支度をしておりました。
「文烈様」
「……何だ?」
「どちらへ?」
一瞬、目を逸らしましたね。
大司馬ともあろう方が、妻に行き先を尋ねられただけで目を逸らさないでくださいませ。
「少し出てくる」
「どちらへ?」
「用がある」
「寧珠のところですね?」
「……」
当たりです。
昨日、
『まさか明日、会いに行こうなどとは思っておられませんよね?』
と纂に言われて黙った時点で、怪しいとは思っておりました。
まさか本当に行くつもりだったとは。
「文烈様……寧珠は昨日嫁いだばかりでございます」
「分かっている」
「では、なぜ翌朝から父親が訪ねて行くのです?」
「様子を見るだけだ」
「何の様子を?」
「いろいろだ」
「子初殿が生きているかどうかですか?」
「そこまでは言っていない」
思ってはいるのですね。
そこへ肇が通りかかりました。
父親の格好を見て、私と同じことを察したのでしょう。
「あの、父上……まさか寧珠のところへ?」
「少し顔を見るだけだ」
「昨日まで一緒におりましたよね?」
「昨日と今日は違う」
何が違うのでしょう。
先日の縁談からずっと、文烈様の中では「それとこれとは違う」が万能の言葉になっております。
肇は少し考え、
「せめて三日ほどは我慢なさってはいかがでしょう」
と申しました。
「三日?」
「はい」
「長い」
「では十日で」
「三日でいい」
交渉成立です。
文烈様……
値切るところではございません。
結局、その日は出かけるのを諦めていただきました。
もっとも、諦めたのは訪問だけです。
寧珠のことは、まったく諦めておりません。
朝餉の席では、
「今頃、何をしているだろうな?」
と申します。
昼になれば、食事は取っているだろうかと心配し、夕方には子初殿が寧珠を困らせていないかと気にしております。
一日で何度、同じ娘を心配するのでしょう。
十三になった環珠が呆れたように父親を見ました。
「父上……姉上、昨日まで普通だったよ?」
「今日も普通とは限らん」
「そんな急に変わらないと思うけど」
正論です。
七つの和珠も加わりました。
「姉上、昨日いっぱい食べてたよ」
「そうか」
「お菓子も食べてた」
「それなら大丈夫か」
そこなのですか?
私が尋ねると、文烈様は少し考えました。
「食べられているなら、ひとまずはな」
昨日まで婚礼の装いや司馬子初殿の視線を警戒していた大司馬が、今日は娘が菓子を食べたかどうかで安堵しております。
文烈様がこれで、魏の対呉戦線は大丈夫なのでしょうか……
その日の午後、玉珠が夫君と娘を連れて顔を出しました。
入ってくるなり、
「姉上、文烈様はもう泣いていませんか?」
と申しました。
文烈様がおりますよ。
「玉珠」
「はい?」
「後ろをご覧なさい」
振り返った玉珠と文烈様の目が合いました。
「……泣いておりませんね」
「泣いていない」
昨日はあれほど泣いておりましたけれどね。
玉珠は安心したらしく、座るとすぐに右手を上げました。
夫君が途中でつかみます。
「まだ何もしていません」
「今からするだろ」
「今日は寧珠の婚礼ではありませんよ?」
「だから何だ」
「では、いつならよいのです?」
「いつも駄目だ」
この夫婦も平常運転です。
玉珠は右手を捕まれたまま、文烈様を見ました。
「寧珠がいなくて寂しいのですか?」
「……まあな」
「では、環珠と和珠を見ていればよいのでは?」
文烈様が二人を見ました。
環珠が嫌な予感を覚えたように一歩下がります。
和珠は気づかず菓子を食べております。
「玉珠」
「はい?」
「余計なことを言わないでくださいませ」
遅かったようです。
それから文烈様の心配は、寧珠だけではなく残った娘二人へまで広がりました。
環珠が外へ出ようとすれば、どこへ行く、誰と行くと尋ねます。
和珠が姉についていくと分かれば、
「ならいい」
と安心する。
どうやら姉妹同士なら安全だと思っているようです。
「文烈様」
「何だ?」
「環珠も十三です。あまり締めつけますと嫌われますよ」
「まだ十三だ」
「私があなたの許へ参りましたのは十五でしたね」
「その話はもういい」
二年後が怖くなってきましたか?
環珠がこっそり私の袖を引きました。
「母上……父上、姉上がお嫁に行ってから変じゃない?」
「以前から変でしたよ」
「そうなの?」
「娘のことになると、特に」
文烈様に聞こえないよう、小さな声で答えておきました。
和珠は菓子を頬張りながら、
「和珠はお嫁に行かないよ」
と申しました。
文烈様が振り返ります。
「本当か?」
「うん。明日は」
「明日だけか?」
七つの子に何を確認しているのですか。
数日後、寧珠から最初の便りが届きました。
文烈様は、使者がまだ部屋を出てもいないうちに封を開けます。
「文烈様」
「何だ?」
「使者へ労いの言葉くらいかけて差し上げてくださいませ」
「肇、頼む」
「私ですか?」
肇、本当に申し訳ございません。
あなたの父上は現在、大司馬より父親を優先しております。
寧珠の便りには、無事に過ごしていること、子初殿の家でも困ることはないこと、環珠と和珠にも元気でいるよう伝えてほしいことなどが書かれておりました。
そして最後に、
『父上にも、どうかご心配なさらぬようお伝えください。子初殿も、とてもよくしてくださっています』
とあります。
文烈様の目が止まりました。
「文烈様?」
「……何だ」
「そこ、先ほども読んでおられませんでしたか?」
「読んでいない」
「三度目です」
帯の次は手紙ですか。
文烈様は、もう一度その行を見ました。
「子初殿も、とてもよくしてくださっています」
声に出して確認しないでください。
「よかったではございませんか」
「……そうだな」
「寧珠も幸せそうです」
「そうだな」
「では、どうしてそんなお顔を?」
「嬉しいのと気に入らないのは両立する」
そんな両立は初めて聞きました。
「子初殿は何も悪いことをしておりませんよ」
「分かっている」
「寧珠を大切にしてくださっているのでしょう?」
「だから気に入らん」
「どうすればよいのですか?」
文烈様にも分からないようでした。
難しいですね、父親というものは。
もっとも、いつまでも洛陽で父親をしているわけにはまいりません。
文烈様には寿春でのお務めがございます。
寧珠も無事に暮らしていると分かりましたので、そろそろ戻ることになりました。
出立の話をすると、文烈様は少しだけ考え込みます。
「……帰る前に、一度だけ寧珠の顔を」
「駄目です」
「まだ最後まで言っていない」
「聞かなくても分かります」
数日前、使者へ同じことをした方がいらっしゃいましたね。
今回は私が先に使わせていただきます。
文烈様はたいへん不満そうでしたが、結局、寧珠の新しい暮らしを邪魔することなく、私たちは洛陽を発ちました。
寿春へ戻ると、ようやく日常が帰ってきます。
文烈様は机へ向かい、久しぶりに書付を上下正しく持っております。
私は少し安心しました。
「文烈様」
「何だ?」
「ようやく大司馬へ戻られましたね」
「最初から大司馬だ」
「寧珠の婚礼の日にも?」
「……あの日は言うな」
覚えてはいるのですね。
肇と纂もそれぞれの務めへ戻り、環珠は和珠の面倒を見ながら、時々寧珠へ手紙を書いております。
寧珠がいない家には、まだ慣れません。
食事の時も、何か話したい時も、つい一人分多く目を向けそうになります。
けれど家族が一人減ったわけではないのです。
いる場所が少し変わっただけ。
それくらいが、ちょうどよいのでしょう。
寿春へ戻ってしばらくした頃、また寧珠から便りが届きました。
文烈様は仕事の手を止めます。
「文烈様」
「何だ?」
「今、大司馬へ戻られたところでは?」
「寧珠からだ」
「そうでございますね」
戻っておりませんでした。
便りを読み終えた文烈様は、今度は穏やかに笑いました。
「元気だそうだ」
「それは何よりです」
「子初とも、うまくやっているらしい」
「それも何よりでございます」
「……気に入らんが」
「まだ申しますか……」
私は笑ってしまいました。
こうして寧珠は新しい家で暮らし始め、環珠と和珠は相変わらず騒がしく、肇と纂もそれぞれの日々へ戻り、文烈様も――娘から便りが来ない間だけは――大司馬へ戻りました。
このまま、しばらくは穏やかに暮らせそうです。
少なくとも、その時の私はそう思っておりました。
やがて年が改まり、春も過ぎました。
初夏を迎えた頃、文烈様の机へ一通の書状が置かれます。
それを手に取った夫の顔から、先ほどまでの父親の表情が消えました。
久しぶりに見る、大司馬の顔です。
「文烈様?」
「……呉からだ」
私は、その書状を見ました。
寧珠の婚礼で消えたはずの大司馬は、どうやら完全に戻ってきたようです。
今度は――
あまり戻ってきてほしくない形で。
劉玉珠でございます。
文烈様は、寧珠が嫁いだ翌朝から会いに行こうとなさったそうです。
夫に、
「父親というものは、娘が嫁ぐと翌朝には会いたくなるのですか?」
と尋ねましたら、
「文烈様だけだと思う」
と言われました。
そうなのですね。
では安心して右手を鼻へ――
つかまれました。
「何に安心した?」
「あなたは普通なのだと」
「お前の右手とは関係ない」
「そうなのですか?」
難しいですね。
その後、姉上たちは寿春へ戻りました。
文烈様も、ようやく大司馬の威厳を取り戻したそうです。
ところが今度は、呉から書状が届いたとか。
夫に申しました。
「また寧珠のお話ですか?」
違うそうです。
では――
今度は何が始まるのでしょう?




