文烈様、大司馬の威厳はどこへ行かれたのですか?
劉明珠でございます。
本日は、寧珠の婚礼です。
昨日まで文烈様は、
「分かっている」
と何度もおっしゃっておりました。
寧珠が嫁ぐことも。
司馬子初殿が夫になることも。
十五になった娘が、もう幼子ではないことも。
全部お分かりなのだそうです。
それなのに今朝から、同じ帯を何度も締め直しておられます。
玉珠へ申しましたら、
『緩いのでは?』
と答えました。
違います。
夫君につかまれながら鼻へ向かう右手くらい、分かりやすく違います。
まあ、文烈様も大司馬でございます。
婚礼が始まれば、いつもの冷静なお姿へ戻られるでしょう。
……戻られますよね?
文烈様――
どうしてもう、寧珠を見ただけで泣きそうなお顔をなさっているのですか?
寧珠の婚礼の日が参りました。
そして朝から、文烈様が壊れております。
「文烈様」
「何だ?」
「その帯、先ほども締め直しておられませんでしたか?」
「気のせいだ」
「四度目です」
「……少し緩かった」
一度目から同じ締まり具合に見えましたが、申さないことにいたしましょう。
昨夜までは大司馬でした。
今朝も肩書きだけなら大司馬です。
ところが十五になった娘を嫁へ出すというだけで、着替えひとつ満足に終えられなくなるとは思いませんでした。
十五の娘を妻に迎えたことのある方なのですけれどね。
その話を蒸し返しますと機嫌が悪くなりますので、今は黙っております。
「母上!」
環珠が駆けてきました。
十三になっても、慌てると足音が大きいところは変わりません。
「姉上、すごく綺麗!」
その後ろから七つの和珠も顔を出しました。
「姉上、きらきらしてる」
「和珠、触ったら駄目よ?」
「触ってない」
「手が伸びているわ」
二人の向こうから、寧珠が姿を現しました。
私は言葉を失いませんでした。
母親ですから。
生まれた時から娘の顔を見てきたのです。
婚礼の装いをしたくらいで、驚いて声も出なくなるほどではございません。
隣にいた方は違いました。
文烈様が、完全に止まりました。
「父上?」
寧珠が首を傾げます。
返事がありません。
「文烈様」
「……何だ?」
「寧珠が呼んでおりますよ」
「分かっている」
分かっている方は、もう少し早く返事をなさいます。
寧珠が近づくと、文烈様はようやく息を吐きました。
「……大きくなったな」
「昨日も同じ大きさですよ、父上」
寧珠……
そこはもう少し情緒を汲んで差し上げてもよいのですよ?
もっとも、私の娘ですから仕方ございません。
文烈様は何か言いたそうに寧珠を見ておりましたが、結局、髪に触れようとして途中で手を止めました。
せっかく整えた髪を崩してはいけないと思ったのでしょう。
その手を肩へ移そうとして、また止める。
最後には何もできず、
「……似合っている」
とだけおっしゃいました。
寧珠が笑いました。
「ありがとうございます、父上」
文烈様……
もう目が危ないですよ。
まだ婚礼は始まってもおりません。
そこへ肇と纂も参りました。
肇は寧珠を見て、素直に笑いました。
「綺麗だな、寧珠」
「ありがとうございます、兄上」
纂も頷きます。
「子初殿に見せたら、また父上の眉間に皺が増えそうだ」
「纂」
文烈様の声が低くなりました。
「はい……何でもありません」
新婚早々、危険察知が早くなりましたね。
やがて司馬子初殿が参りました。
先日の縁談の時と同じく落ち着いておりますが、寧珠の姿を見た瞬間だけ、わずかに目を見開きました。
文烈様が見逃すはずもありません。
「子初」
「はい、大司馬」
「今、何を見た?」
「寧珠殿を」
「そうか」
「文烈様」
何を確認しているのですか……
今日はその寧珠と婚礼を挙げるために来られたのですよ。
子初殿もさすがに慣れてきたらしく、文烈様の視線を真正面から受けながら、
「たいへんお美しいです」
と申しました。
文烈様の眉間に皺が入りました。
「ありがとうございます」
寧珠が答えました。
もう一本増えました。
「文烈様……そのままでは婚礼が終わる頃には、眉間へ川ができますよ」
「誰のせいだと思っている」
「子初殿のせいではございません」
あなたのせいです。
玉珠も夫君と娘を連れてやって参りました。
寧珠を見るなり、
「わあ、綺麗ですねえ。もうお嫁に行くのですか?」
と感心しております。
「そのための婚礼でございます」
「そうでした」
何をしに来たのでしょう?
玉珠は寧珠の衣装を眺めながら、何か考え始めました。
同時に右手が上がります。
夫君が途中でつかみました。
「今日はやめろ」
「今日はまだ何もしていません」
「寧珠の婚礼で鼻をほじるな」
「婚礼の日は駄目なのですか?」
「普段も駄目だ」
夫君……
長い戦いになりましたね。
婚礼が始まってからも、文烈様は落ち着きませんでした。
子初殿が寧珠の近くへ寄れば見る。
話しかければ見る。
寧珠が笑えば、もっと見る。
以前なら呉軍の動きを追っていた目が、今日は娘と婿の距離だけを測っております。
「文烈様」
「何だ?」
「近いと思っておられますね?」
「……婚礼だからな」
「よくお分かりで」
「分かってはいる」
それでも嫌なのですね。
少しして、子初殿が寧珠へ手を差し出しました。
文烈様の肩が動きます。
私は先に袖をつかみました。
「どちらへ?」
「どこへも行かん」
「では、なぜ立とうとなさいました?」
「立っていない」
「腰が浮いております」
肇が横を向きました。
纂はもう笑いを隠しておりません。
「父上……子初殿が寧珠の手を取るくらいは許して差し上げてください」
「分かっている」
「昨日からそればかりですね」
「纂」
「はい」
寧珠本人は、そんな父親を見て少し困ったように笑っておりました。
それでも嫌そうではありません。
むしろ、昔から変わらない父親を見るような顔でした。
考えてみれば、この子は生まれた時から文烈様に大切にされてきたのです。
泣けば抱き上げてもらい、転べば心配され、熱を出せば仕事の合間にも様子を見に来てもらった。
妹が生まれれば姉になり、肇と纂にも可愛がられ、十五になるまで家の中で愛されることを疑わずに育ちました。
私は十五の頃、そんな娘ではありませんでした。
けれど今日、その違いを悲しいとは思いません。
むしろ、よかったと思います。
私が持てなかった十五歳を、娘は持っております。
婚礼も終わりに近づきました。
寧珠が私の前へ来ました。
「母上」
「はい」
「今までありがとうございました」
駄目です。
それは効きます。
私は笑ったまま、娘の頬へ触れました。
「嫁いだからといって、終わりではありませんよ。これからも母は母です」
「はい」
寧珠も笑いました。
少しだけ目が潤んでおります。
それから、父親の方を向きました。
文烈様は朝からずっと耐えていました。
帯を何度も締め直し、娘を見て固まり、子初殿を睨み、それでも最後まで大司馬らしい顔を残そうとしておりました。
寧珠が、その文烈様の前へ立ちます。
「父上」
返事がありません。
「父上?」
「……何だ?」
声がもう怪しいですね。
寧珠は少し笑って、頭を下げました。
「今日まで大事に育ててくださって、ありがとうございました」
文烈様の顔が崩れました。
本当に崩れました。
先ほどまで眉間にあれほど力を入れていた方が、突然、子供のような顔になりました。
「……寧珠」
そこまでは、まだ耐えておられました。
寧珠が顔を上げます。
「父上、大好きです」
終わりました。
文烈様は寧珠を抱きしめました。
「父上?」
「寧珠ぅ……」
泣いております。
それも、少し目を潤ませるなどという上品なものではございません。
大号泣です。
「寧珠……幸せになれ……絶対だぞ……」
「はい、父上」
「嫌なことがあったら帰ってこい……いや、何もなくても帰ってこい……」
「父上、嫁いだばかりでございます」
「いつでもいい……」
大司馬は消えました。
どこにもおりません。
ここにいるのは、生まれた時からかわいがった娘を嫁へ出したくなくて泣いている、ただの父親です。
肇が固まっております。
纂も同じ顔をしております。
「兄上」
「何だ?」
「父上が……」
「見れば分かる」
「こんなに泣く方でしたか?」
「俺に聞くな」
あなた方も初めてなのですね。
環珠まで目を丸くしております。
「父上、泣いてる……」
和珠も不思議そうに文烈様を見上げました。
「姉上、帰ってくるよ?」
七つの娘にまで慰められておりますよ、文烈様……
私はしばらく黙って見ておりました。
笑ってしまいそうなのに、胸の奥は妙に熱くなっています。
十三の私を置いて走った父上と、十五の娘を送り出すだけでここまで泣く文烈様。
比べるのは意地が悪いのでしょう。
それでも、少しだけ思いました。
ずいぶん違う父親でございますね、と。
「文烈様」
「……何だ?」
まだ寧珠を抱いております。
「そろそろ離して差し上げませんと、婚礼が終わりませんよ」
「もう少しだ」
「先ほどから、ずっとそうおっしゃっております」
「もう少しだけだ」
寧珠が困ってこちらを見ました。
「母上」
「諦めなさい。今日は父上の日でもあるようです」
子初殿は黙って待っております。
偉いですね。
私なら逃げております。
ようやく寧珠を離した文烈様は、今度は子初殿を呼びました。
「子初」
「はい」
「寧珠を泣かせるな」
「はい」
「絶対にだ」
「はい」
「もし泣かせたら――」
「文烈様」
私は袖を引きました。
「婚礼の席で軍令を発するのはおやめくださいませ」
「軍令ではない」
「では何でございます?」
「父親として言っている」
「なお悪いです」
子初殿が深く頭を下げました。
「寧珠殿を大切にいたします」
文烈様はしばらく黙って彼を見ました。
やがて、ようやく小さく頷きます。
「……頼む」
その一言だけは、大司馬でも、先ほどまでの荒ぶる父親でもありませんでした。
ただの父親でした。
寧珠が子初殿と並んで去っていきます。
途中で環珠の右手が鼻へ向かいました。
寧珠は振り返りもせず、その手首をつかみます。
「姉上!」
「見なくても分かります」
「まだ、はいってない!」
「嫁ぐ日くらい、入れないでください」
最後まで姉ですね。
皆が笑いました。
文烈様だけは、まだ目元を拭っておりました。
その夜――
寧珠がいなくなった家は、少しだけ広く感じました。
けれど静かだったのは、ほんのわずかな間だけです。
気づけば肇も纂も部屋に残り、環珠と和珠まで私たちのところへ集まっておりました。
文烈様は、寧珠がよく座っていた場所を見ています。
環珠が父親の顔を覗き込みました。
「父上、まだ泣いてるの?」
「泣いていない」
目が赤いですよ。
和珠は持っていた菓子をひとつ、文烈様へ差し出しました。
「父上、これ食べる?」
「……くれるのか?」
「ひとつだけ」
そこは寧珠と同じなのですね。
纂が笑いました。
「父上、寧珠はどこかへ消えたわけではありませんよ」
「分かっている」
「まさか明日、会いに行こうなどとは思っておられませんよね?」
文烈様が黙りました。
肇が額へ手を当てます。
「父上……」
行くおつもりでしたね。
私は夫の隣へ座り、その手を握りました。
「文烈様……寧珠は嫁ぎましたが、娘でなくなったわけではございませんよ」
「……分かっている」
今日はずっと、そればかりですね。
すると環珠が文烈様の反対側へ寄り、腕にくっつきました。
「父上には、まだ私もいるよ」
和珠も負けじと膝へ乗ろうとします。
「和珠もいる」
文烈様は左右の娘を見ました。
しばらくして、真顔で申しました。
「お前たちは嫁に行かないよな?」
文烈様……
立ち直る方向を間違えております。
「父上、それは無理だと思います」
肇が冷静に答えました。
「黙れ」
纂がとうとう吹き出しました。
私も耐えられませんでした。
寧珠が嫁いで、一人減ったように思えた家の中は、結局いつものように騒がしいままです。
私は文烈様の肩へ少しだけ寄りかかりました。
「明日になれば、またいつもの家族でございますよ」
文烈様は環珠と和珠に左右からくっつかれたまま、私の手を強く握り返しました。
「……そうだな」
その直後、環珠の右手が鼻へ向かいました。
「環珠」
私と文烈様の声が重なります。
「まだ、はいってない!」
寧珠……
嫁いだ初日から申し訳ございませんが――
あなたの仕事が、ひとつこちらへ戻ってまいりました。
劉玉珠でございます。
先ほど私は、
「大司馬の威厳は残っているのでしょうか?」
と心配いたしましたが、全く残っておりませんでした。
寧珠に、
「父上、大好きです」
と言われた途端、文烈様は大泣きです。
夫に、
「大司馬でも、娘には勝てないのですね」
と申しましたら、
「相手が悪い」
と言われました。
寧珠は敵ではありませんよ?
考えておりますと、右手が鼻へ向かいました。
当然のように、夫につかまれました。
「婚礼は終わったのですよ?」
「だから何だ」
「もうよいのでは?」
「何がだ」
まだ駄目なのですね。
ところで文烈様には、環珠と和珠もおります。
夫が、
「あと二回あるな」
と申しました。
あなた……
それだけは、文烈様の前で言わない方がよいと思います。




