表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/18

文烈様、妹がいない時に来るのですか?

劉明珠でございます。


前回、文烈様のお屋敷で、幼い若君と出会いました。

曹肇様でございます。

最初は玉珠が手を振っただけで逃げました。

たいへん素直な逃走でした。

ところが翌朝、その若君が私たちの部屋の前に立っておりました。

手には菓子の皿。

顔には不満。

挨拶は、ほぼございません。

曹家の若君ともなると、お菓子で外交をなさるようです。

なお、玉珠はたいへん簡単に陥落しかけました。

敵地における妹の防衛線は、砂糖に弱すぎます。

そして今回は、その曹肇様が玉珠を本邸へ呼びに来ます。

玉珠は朝から張り切っております。

理由は、本邸、若君のお部屋、お菓子。

以上でございます。

たいへん分かりやすい妹です。

一方、玉珠が本邸へ行くということは、私の部屋から玉珠の声が消えるということでもあります。

そこへ、文烈様がいらっしゃいます。

妹がいない時に――

偶然でしょうか?

偶然というものは、時々、たいへん仕事熱心でございます。

今回は、玉珠が本邸へ行き、曹肇様が少しだけ逃げなくなり、文烈様が少しだけ近づいてくるお話です。


それから――

私が、捕らえられてから知らされなかった外の話を、初めて聞くお話でもございます。

翌朝、玉珠はたいへん早く起きました。

普段なら、布団の中で丸くなり、あと少し、もう少し、姉上だけ起きて、などとたいへん堂々とした怠惰を見せる妹です。

その玉珠が、今日は自分で髪を整えようとしております。

ただし、櫛は逆です。

「玉珠」

「はい!」

「それでは髪ではなく、櫛が苦しみます」

「櫛、痛い?」

「たぶん心が折れています」

玉珠は慌てて櫛を持ち替えました。

本邸、若君のお部屋、お菓子。

この三つが、妹の朝をここまで勤勉にするとは思いませんでした。

父上――

娘の教育に必要だったものは、仁義でも兵法でもなく、甘味だった可能性がございます……

戸の外で、小さな足音が止まりました。

続いて、ためらいがちな声がします。

「玉珠!」

名を呼ぶ順番が、私より先です。

たいへん結構なことでございます。

ええ、結構です。

妹が人に好かれるのは喜ばしいことです。

ただし、姉の存在が朝の挨拶から省かれるほど早い展開は、少々寂しゅうございます。

玉珠は顔を明るくしました。

「曹肇!」

「様をつけなさい」

「曹肇様!」

「……いらない」

「姉上がいるって!」

戸を開けると、曹肇様が立っています。

昨日より少しだけ胸を張っています。

逃げる気配は薄くなりました。

かわりに、何やら使命を帯びた顔です。

五つか六つの幼い若君が使命を帯びると、だいたい眉間に集まります。

「玉珠、来い!」

「はい!」

「待ちなさい」

玉珠が即答しました。

決断が速すぎます。

「まだ朝の支度が終わっておりません」

「終わったよ」

「髪が片方だけ跳ねております」

「元気だから?」

「髪の元気は、もう少し抑えてください」

曹肇様は玉珠の髪を見ます。

少し考えています。

そして、たいへん真面目な顔で言いました。

「本邸に侍女がいる」

「若君、妹の髪を本邸へ外注なさるおつもりですか」

「外注?」

「気にしなくて結構です」

玉珠は私を見上げます。

「姉上、行っていい?」

「昨日から行く気でしたね」

「うん!」

「なぜ尋ねたのですか」

「姉上に聞いた方がいいかなって」

「それは正しいです。ただし答えを聞く前から足が本邸を向いております」

玉珠は自分の足を見ました。

「ほんとだ」

「足に責任を押しつけないでください」

曹肇様が、玉珠の袖を小さくつかみます。

昨日と同じです。

けれど、今日は少しだけ自然に見えました。

「行く」

「行ってきます、姉上!」

玉珠は笑っています。

楽しそうです。

本当に、楽しそうです。

私はその顔を見て、送り出すしかありませんでした。

「転ばないように」

「うん!」

「食べすぎないように」

「……うん……」

「なぜ今、少し間がありましたか?」

「本邸のお菓子、まだ数が分からないから……」

「数が分かれば食べすぎてよいわけではありません」

曹肇様は、玉珠を連れて廊下を歩いていきます。

途中で一度だけ振り返りました。

私を見たのか、玉珠がついてきているか確認したのか、判別がつきません。

玉珠は手を振りました。

「姉上、あとでね!」

あとで――

その言葉が、思ったより遠く聞こえました。

部屋に戻ると、急に静かです。

玉珠がいない部屋は、広くなったわけではありません。

荷が減ったわけでもありません。

寝台も、机も、水差しも、昨日と同じ場所にあります。

ただ、妹の声がない。

声とは、荷物より場所を取るものらしいです。

たいへん迷惑です。

なくなると、部屋の隅まで見えてしまいます。

私は机の前に座り、筆を取ります。

でも、何を書けばよいのか分からず、やめました。

玉珠、本邸へ行く。

若君、逃げず。

菓子、強し。

脳裏には浮かびましたが、これでは日記ではなく、敗戦報告です。

戸の外で足音が止まりました。

今度は小さな足音ではありません。

「明珠殿、入ってよいか?」

来ました――

たいへん都合よく来ました。

妹がいない時に。

偶然でしょうか?

偶然というものは、時々、たいへん仕事熱心です。

「どうぞ」

文烈様が入ってこられます。

今日も戸を勝手には開けません。

そこは相変わらず律儀です。

律儀な方が近づいてくる時ほど、逃げにくいものはございません。

「玉珠殿は肇と本邸へ行った」

「存じております。私の目の前で連行されました」

「連行か?」

「本人は喜んでおりましたので、たいへん平和な連行です」

「ならばよかった」

「よいのでしょうね。妹が笑っているのですから」

文烈様は私を見ました。

「喜びきれぬか?」

「文烈様は、人の痛いところへ、たいへん正確に手を置かれますね」

「すまぬ」

「謝られると、こちらが悪いことを言ったようになります」

「では、謝らぬ方がよいか?」

「それはそれで腹が立ちます」

「難しいな」

「ええ。私も自分でそう思います」

文烈様は少し笑いました。

声を立てるほどではありません。

けれど、目元が柔らかくなります。

たいへんよろしくありません。

優しい顔は、敵意より処理に困ります。

「玉珠殿は、肇にとってよい相手のようだ」

「妹は、菓子にも木馬にも動じませんので……」

「肇は、母を早くに亡くした」

「……女中の方から伺いました」

曹肇様と曹纂様の母君は、すでに亡くなっているそうです。

この屋敷にも、空いた場所があったのです。

父上の家から落ちた娘が、母君を失った若君たちの屋敷へ入る。

たいへんよくできた配置でございます。

もちろん、私が望んだわけではありません。

「肇は、人に近づくのが下手だ」

「昨日までの逃走速度で、十分に理解いたしました」

「玉珠殿には、近づこうとしている」

「お菓子を持って」

「最初の一歩としては悪くない」

「曹家では、外交の第一歩に甘味を用いるのですね」

「効果はあった」

「ありすぎて困っております」

廊下の向こうから玉珠の声が聞こえました。

「曹肇、こっちのお菓子丸い!」

元気な声が、遠くから聞こえます。

続いて、曹肇様らしき声。

「全部食べるな!」

たいへん平和です。

国境というものが、全部菓子皿でできていればよろしいのに……

文烈様が穏やかに言います。

「玉珠殿は、本邸へ通うことが増えるかもしれぬ」

「でしょうね。菓子がございますから」

「肇も望むだろう」

「若君の命令は、声が震えていても命令でございます」

「明珠殿」

「はい」

「そなたは、嫌か?」

すぐには答えられませんでした。

嫌か――

ずいぶん簡単な言葉です。

けれど、私の中では少しも簡単ではありません。

玉珠が笑うのは嬉しい。

曹肇様が逃げなくなるのも悪くない。

本邸に行けば侍女も多く、菓子もあり、木馬もあり、たぶん私の部屋より明るい。

では、嫌ではないのか?

違います……

妹が私の隣から離れていくことを、よいことだけとして受け取れるほど、私はできた姉ではございません。

「玉珠が望むなら、止める理由はございません」

「そなたの答えを聞いている」

「私は、妹の望みを優先いたします」

「それは、そなたの答えではない」

私は文烈様を見ました。

この方は、本当に困ります。

逃げ道を用意してくれるくせに、そこへ隠れると見つけてくるのです。

「嫌です」

「そうか」

「けれど、玉珠が笑っております」

「ああ」

「ですから、嫌では済みません」

「それも分かる」

文烈様は静かに頷きました。

勝手に慰めない。

勝手に決めない。

勝手に笑わせようともしない。

それなのに、近い……

たいへんよろしくありません。

距離の詰め方が、馬より静かです。

文烈様は少し間を置きました。

「明珠殿、外の話を聞きたいか?」

「外、でございますか」

「子和殿の屋敷では、あまり聞かされなかったのだろう?」

私は黙りました。

子和様のお屋敷では、外の話はほとんど聞かされませんでした。

安全でした。

姉妹は離されませんでした。

戸も勝手には開きませんでした。

ただし、外の風も入ってきませんでした。

誰が勝ったのか。

父上がどこへ行ったのか。

母上がどうなったのか。

阿斗が生きているのか。

長坂のあと、世がどちらへ転がっているのか。

何も知りませんでした。

知っているのは、私と玉珠が子和様に捕らえられ、ここまで来たということだけです。

「聞きたいかどうか、分かりません」

「では、聞かぬか?」

「それも困ります。知らなければ、期待などという面倒なものを飼うことになります」

「期待は面倒か?」

「飼い主を噛みます」

文烈様は、目を伏せました。

「玄徳殿は、荊州を治め始めている」

「……荊州」

声が、自分のものではないように聞こえました。

「劉琦殿の後、荊州で地を得た。兵も民も集まりつつある」

父上は、また居場所を得られた。

私が知らぬ間に、父上は逃げ、戦い、地を得て、また人の上に立つ場所を得られた……

世の中は動いていたそうです。

その間、私は子和様の屋敷で、外の風の向きすら知りませんでした。

たいへん結構なことでございます。

仁君には土地が必要です。

兵も、民も、名分も、幕僚も、さぞや大切なことでございましょう。

ただ、娘を迎える使いだけは、まだご用意がないようです。

「迎えは……」

自分で言って、嫌になりました。

文烈様は、正直でした。

「来ていない」

……でしょうね。

分かっておりました……

それでも、言葉として聞くと、なかなかよく刺さります。

「そうでございますか」

「明珠殿」

「父上はお忙しいのでしょう。荊州を治めるとは大仕事です。娘二人の所在など、土煙に紛れた小石のようなものでございます」

「小石ではない」

「文烈様が否定なさることではございません」

「それでも、違う」

またです――

この方は、私が自分を軽く扱うと、すぐに拾い上げようとします。

たいへん迷惑です。

落ちている方にも事情があるのです。

私は笑いました。

「それでは、文烈様……私は今、何なのでしょう」

「何、とは?」

「劉備玄徳の娘。漢室の血を引く者。子和様の室。丞相様から預けられた者。文烈様のお屋敷に置かれた者。そろそろ名札が足りません」

文烈様は、しばらく黙りました。

そして、静かに言います。

「そなたは、ただこの屋敷へ移されたわけではない」

「はい?」

「曹公の手配で、朝廷預かりの形が整えられている。陛下の養女に近い扱いだ」

「養女……」

口の中で、その言葉が転がりました。

陛下、丞相様、子和様、文烈様。

たいへん立派なお名前が、私一人の上に積まれていきます。

そろそろ首が折れそうです。

「漢室の血を引く者として、名分を立てた。子和殿の室であった者を、そのまま私の屋敷へ置くわけにはいかぬ」

「つまり……」

「形の上では、そなたは私へ再嫁したことになる」

「再嫁……」

その二文字は、思ったより冷たい音がしました。

私は一度目の嫁入りを選んでおりません。

二度目も、もちろん選んでおりません。

それでも帳の上では、たいへん綺麗に整っているのでしょう。

帳は、いつも私より先に大人になります。

「正室として遇する」

文烈様の声は落ち着いていました。

私は笑いました。

笑わなければ、何か別のものが出そうでした。

「たいへん光栄でございます」

「明珠殿」

「捕らえられた娘も、陛下の養女格となり、丞相様に整えられ、子和様の室を経て、文烈様の正室になる。人生とは、本人不在でもたいへん働き者なのですね」

「すまぬ」

「謝らないでください。文烈様が謝るたび、私の怒りの置き場所が減ります」

文烈様は、こちらへ一歩近づきました。

私は動きません。

動けなかったのではありません。

逃げるほどではなかっただけです。

たぶん――

「名目がそうであることと、今日からそなたに何かを求めることは別だ」

「別、でございますか?」

「別だ。そなたが納得せぬうちに、妻として振る舞えとは言わぬ」

「名目上は正室なのに?」

「ああ」

「文烈様は、帳に反抗なさるのですか?」

「帳より、人を見る」

「……たいへん危険な主義でございますね」

「そうかもしれぬ」

その人の良さが、いつか戦場で災いになるのではないでしょうか。

そう思いました。

けれど今、その人の良さは私に向いています。

それがまた、いっそう扱いに困るのです。

廊下の向こうから、玉珠の声が飛んできました。

「姉上ー! 本邸のお菓子、四角いのもあるー!」

私は目を閉じました。

文烈様が笑いをこらえている気配がします。

「玉珠殿は楽しそうだ」

「ええ。妹は今、曹家の本邸において砂糖外交を満喫しております」

「明日も行くだろうな」

「でしょうね」

文烈様は、静かに私を見ました。

「その間、私はここへ来てもよいか?」

「……玉珠がいない間に?」

「ああ」

「たいへん正直に仰いますね」

「隠せば、そなたは気づく」

「気づきます」

「ならば、聞く」

私は返事に詰まりました。

外では、玉珠が笑っています。

本邸には菓子があります。

曹肇様は逃げなくなりました。

文烈様は、私の部屋で、私に許しを求めています。

包囲とは、時に甘く、丁寧で、礼儀正しいものなのですね。

丞相様の軍勢より、よほどたちが悪い。

私は、ゆっくり息を吐きました。

「戸の外で声をかけてくださるなら……」

「必ず」

「勝手に入らないなら」

「入らぬ」

「私が嫌だと言ったら?」

「退く」

即答でした。

本当に困ります。

こちらが用意した槍先に、花を結ばれた気分です。

「では……構いません」

「感謝する」

文烈様は、穏やかに頭を下げました。

屋敷の主が、正室という名目を与えられた女に、部屋を訪ねる許しを請う。

たいへん奇妙です。

奇妙すぎて、少し笑いそうになりました。

その時、廊下を走る足音が近づいてきます。

玉珠です。

戸が開く前から声が飛び込みました。

「姉上! 曹肇が、明日も来いって! 明後日も来いって! それから、玉珠のお部屋も本邸に近い方がいいって!」

私は固まりました。

文烈様は、たいへん静かな顔をしています。

静かすぎます。

玉珠が戸口から顔を出しました。

両手には菓子。

髪には見覚えのない綺麗な紐。

後ろには、木馬を抱えた曹肇様。

そして玉珠は、無邪気に笑いました。

「姉上、玉珠、お引っ越しするの?」

文烈様の目が、私を見ています。

今度は、配置どころではありません。

地図が動き始めておりました――

劉玉珠です。


今回は、曹肇のお部屋へ行きました。

姉上は、曹肇様と呼びなさいと言います。

でも曹肇は、様はいらないと言います。

だから玉珠は、姉上がいる時は曹肇様、いない時は曹肇と呼ぶことにしました。

これなら、たぶん大丈夫です。

朝、玉珠は早く起きました。

本邸へ行くからです。

曹肇のお部屋へ行くからです。

お菓子があるからです。

姉上には、玉珠の足がもう本邸を向いていると言われました。

本当でした。

足は正直です。

曹肇は、玉珠を迎えに来てくれました。

昨日より逃げませんでした。

少しだけえらくなったのだと思います。

本邸には、お菓子がありました。

丸いお菓子もありました。

四角いお菓子もありました。

玉珠は、世の中にはいろいろな形のお菓子があるのだと知りました。

とても勉強になります。

曹肇は、全部食べるなと言いました。

でも、全部食べるなと言うなら、最初からたくさん出さなければよいのではないでしょうか?

少し難しいです……

本邸の侍女さんは、玉珠の髪をきれいに結んでくれました。

姉上より少しだけ優しい手でした。

でも、姉上の方が慣れています。

だから玉珠は、どちらも好きです。

それから、曹肇が言いました。

明日も来い。

明後日も来い。

玉珠のお部屋も、本邸に近い方がいい。

玉珠は、それを姉上に言いました。

姉上は固まりました。

文烈様も静かでした。

玉珠は、少し不思議です。

お部屋が近くなるのは、よいことではないのでしょうか?

近ければ、お菓子も冷めません。

曹肇も逃げなくてすみます。

姉上にも、すぐ会いに行けます。

だから玉珠は聞きました。

玉珠、お引っ越しするの?

姉上は、すぐには答えてくれませんでした。


次回は、玉珠のお部屋がどこになるのかのお話だと思います。

たぶん――

でも姉上の顔を見ると、それだけではないのかもしれません。

大人のお話は、時々、お菓子より形が難しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ