文烈様、妹がいない時に来るのですか?
劉明珠でございます。
前回、文烈様のお屋敷で、幼い若君と出会いました。
曹肇様でございます。
最初は玉珠が手を振っただけで逃げました。
たいへん素直な逃走でした。
ところが翌朝、その若君が私たちの部屋の前に立っておりました。
手には菓子の皿。
顔には不満。
挨拶は、ほぼございません。
曹家の若君ともなると、お菓子で外交をなさるようです。
なお、玉珠はたいへん簡単に陥落しかけました。
敵地における妹の防衛線は、砂糖に弱すぎます。
そして今回は、その曹肇様が玉珠を本邸へ呼びに来ます。
玉珠は朝から張り切っております。
理由は、本邸、若君のお部屋、お菓子。
以上でございます。
たいへん分かりやすい妹です。
一方、玉珠が本邸へ行くということは、私の部屋から玉珠の声が消えるということでもあります。
そこへ、文烈様がいらっしゃいます。
妹がいない時に――
偶然でしょうか?
偶然というものは、時々、たいへん仕事熱心でございます。
今回は、玉珠が本邸へ行き、曹肇様が少しだけ逃げなくなり、文烈様が少しだけ近づいてくるお話です。
それから――
私が、捕らえられてから知らされなかった外の話を、初めて聞くお話でもございます。
翌朝、玉珠はたいへん早く起きました。
普段なら、布団の中で丸くなり、あと少し、もう少し、姉上だけ起きて、などとたいへん堂々とした怠惰を見せる妹です。
その玉珠が、今日は自分で髪を整えようとしております。
ただし、櫛は逆です。
「玉珠」
「はい!」
「それでは髪ではなく、櫛が苦しみます」
「櫛、痛い?」
「たぶん心が折れています」
玉珠は慌てて櫛を持ち替えました。
本邸、若君のお部屋、お菓子。
この三つが、妹の朝をここまで勤勉にするとは思いませんでした。
父上――
娘の教育に必要だったものは、仁義でも兵法でもなく、甘味だった可能性がございます……
戸の外で、小さな足音が止まりました。
続いて、ためらいがちな声がします。
「玉珠!」
名を呼ぶ順番が、私より先です。
たいへん結構なことでございます。
ええ、結構です。
妹が人に好かれるのは喜ばしいことです。
ただし、姉の存在が朝の挨拶から省かれるほど早い展開は、少々寂しゅうございます。
玉珠は顔を明るくしました。
「曹肇!」
「様をつけなさい」
「曹肇様!」
「……いらない」
「姉上がいるって!」
戸を開けると、曹肇様が立っています。
昨日より少しだけ胸を張っています。
逃げる気配は薄くなりました。
かわりに、何やら使命を帯びた顔です。
五つか六つの幼い若君が使命を帯びると、だいたい眉間に集まります。
「玉珠、来い!」
「はい!」
「待ちなさい」
玉珠が即答しました。
決断が速すぎます。
「まだ朝の支度が終わっておりません」
「終わったよ」
「髪が片方だけ跳ねております」
「元気だから?」
「髪の元気は、もう少し抑えてください」
曹肇様は玉珠の髪を見ます。
少し考えています。
そして、たいへん真面目な顔で言いました。
「本邸に侍女がいる」
「若君、妹の髪を本邸へ外注なさるおつもりですか」
「外注?」
「気にしなくて結構です」
玉珠は私を見上げます。
「姉上、行っていい?」
「昨日から行く気でしたね」
「うん!」
「なぜ尋ねたのですか」
「姉上に聞いた方がいいかなって」
「それは正しいです。ただし答えを聞く前から足が本邸を向いております」
玉珠は自分の足を見ました。
「ほんとだ」
「足に責任を押しつけないでください」
曹肇様が、玉珠の袖を小さくつかみます。
昨日と同じです。
けれど、今日は少しだけ自然に見えました。
「行く」
「行ってきます、姉上!」
玉珠は笑っています。
楽しそうです。
本当に、楽しそうです。
私はその顔を見て、送り出すしかありませんでした。
「転ばないように」
「うん!」
「食べすぎないように」
「……うん……」
「なぜ今、少し間がありましたか?」
「本邸のお菓子、まだ数が分からないから……」
「数が分かれば食べすぎてよいわけではありません」
曹肇様は、玉珠を連れて廊下を歩いていきます。
途中で一度だけ振り返りました。
私を見たのか、玉珠がついてきているか確認したのか、判別がつきません。
玉珠は手を振りました。
「姉上、あとでね!」
あとで――
その言葉が、思ったより遠く聞こえました。
部屋に戻ると、急に静かです。
玉珠がいない部屋は、広くなったわけではありません。
荷が減ったわけでもありません。
寝台も、机も、水差しも、昨日と同じ場所にあります。
ただ、妹の声がない。
声とは、荷物より場所を取るものらしいです。
たいへん迷惑です。
なくなると、部屋の隅まで見えてしまいます。
私は机の前に座り、筆を取ります。
でも、何を書けばよいのか分からず、やめました。
玉珠、本邸へ行く。
若君、逃げず。
菓子、強し。
脳裏には浮かびましたが、これでは日記ではなく、敗戦報告です。
戸の外で足音が止まりました。
今度は小さな足音ではありません。
「明珠殿、入ってよいか?」
来ました――
たいへん都合よく来ました。
妹がいない時に。
偶然でしょうか?
偶然というものは、時々、たいへん仕事熱心です。
「どうぞ」
文烈様が入ってこられます。
今日も戸を勝手には開けません。
そこは相変わらず律儀です。
律儀な方が近づいてくる時ほど、逃げにくいものはございません。
「玉珠殿は肇と本邸へ行った」
「存じております。私の目の前で連行されました」
「連行か?」
「本人は喜んでおりましたので、たいへん平和な連行です」
「ならばよかった」
「よいのでしょうね。妹が笑っているのですから」
文烈様は私を見ました。
「喜びきれぬか?」
「文烈様は、人の痛いところへ、たいへん正確に手を置かれますね」
「すまぬ」
「謝られると、こちらが悪いことを言ったようになります」
「では、謝らぬ方がよいか?」
「それはそれで腹が立ちます」
「難しいな」
「ええ。私も自分でそう思います」
文烈様は少し笑いました。
声を立てるほどではありません。
けれど、目元が柔らかくなります。
たいへんよろしくありません。
優しい顔は、敵意より処理に困ります。
「玉珠殿は、肇にとってよい相手のようだ」
「妹は、菓子にも木馬にも動じませんので……」
「肇は、母を早くに亡くした」
「……女中の方から伺いました」
曹肇様と曹纂様の母君は、すでに亡くなっているそうです。
この屋敷にも、空いた場所があったのです。
父上の家から落ちた娘が、母君を失った若君たちの屋敷へ入る。
たいへんよくできた配置でございます。
もちろん、私が望んだわけではありません。
「肇は、人に近づくのが下手だ」
「昨日までの逃走速度で、十分に理解いたしました」
「玉珠殿には、近づこうとしている」
「お菓子を持って」
「最初の一歩としては悪くない」
「曹家では、外交の第一歩に甘味を用いるのですね」
「効果はあった」
「ありすぎて困っております」
廊下の向こうから玉珠の声が聞こえました。
「曹肇、こっちのお菓子丸い!」
元気な声が、遠くから聞こえます。
続いて、曹肇様らしき声。
「全部食べるな!」
たいへん平和です。
国境というものが、全部菓子皿でできていればよろしいのに……
文烈様が穏やかに言います。
「玉珠殿は、本邸へ通うことが増えるかもしれぬ」
「でしょうね。菓子がございますから」
「肇も望むだろう」
「若君の命令は、声が震えていても命令でございます」
「明珠殿」
「はい」
「そなたは、嫌か?」
すぐには答えられませんでした。
嫌か――
ずいぶん簡単な言葉です。
けれど、私の中では少しも簡単ではありません。
玉珠が笑うのは嬉しい。
曹肇様が逃げなくなるのも悪くない。
本邸に行けば侍女も多く、菓子もあり、木馬もあり、たぶん私の部屋より明るい。
では、嫌ではないのか?
違います……
妹が私の隣から離れていくことを、よいことだけとして受け取れるほど、私はできた姉ではございません。
「玉珠が望むなら、止める理由はございません」
「そなたの答えを聞いている」
「私は、妹の望みを優先いたします」
「それは、そなたの答えではない」
私は文烈様を見ました。
この方は、本当に困ります。
逃げ道を用意してくれるくせに、そこへ隠れると見つけてくるのです。
「嫌です」
「そうか」
「けれど、玉珠が笑っております」
「ああ」
「ですから、嫌では済みません」
「それも分かる」
文烈様は静かに頷きました。
勝手に慰めない。
勝手に決めない。
勝手に笑わせようともしない。
それなのに、近い……
たいへんよろしくありません。
距離の詰め方が、馬より静かです。
文烈様は少し間を置きました。
「明珠殿、外の話を聞きたいか?」
「外、でございますか」
「子和殿の屋敷では、あまり聞かされなかったのだろう?」
私は黙りました。
子和様のお屋敷では、外の話はほとんど聞かされませんでした。
安全でした。
姉妹は離されませんでした。
戸も勝手には開きませんでした。
ただし、外の風も入ってきませんでした。
誰が勝ったのか。
父上がどこへ行ったのか。
母上がどうなったのか。
阿斗が生きているのか。
長坂のあと、世がどちらへ転がっているのか。
何も知りませんでした。
知っているのは、私と玉珠が子和様に捕らえられ、ここまで来たということだけです。
「聞きたいかどうか、分かりません」
「では、聞かぬか?」
「それも困ります。知らなければ、期待などという面倒なものを飼うことになります」
「期待は面倒か?」
「飼い主を噛みます」
文烈様は、目を伏せました。
「玄徳殿は、荊州を治め始めている」
「……荊州」
声が、自分のものではないように聞こえました。
「劉琦殿の後、荊州で地を得た。兵も民も集まりつつある」
父上は、また居場所を得られた。
私が知らぬ間に、父上は逃げ、戦い、地を得て、また人の上に立つ場所を得られた……
世の中は動いていたそうです。
その間、私は子和様の屋敷で、外の風の向きすら知りませんでした。
たいへん結構なことでございます。
仁君には土地が必要です。
兵も、民も、名分も、幕僚も、さぞや大切なことでございましょう。
ただ、娘を迎える使いだけは、まだご用意がないようです。
「迎えは……」
自分で言って、嫌になりました。
文烈様は、正直でした。
「来ていない」
……でしょうね。
分かっておりました……
それでも、言葉として聞くと、なかなかよく刺さります。
「そうでございますか」
「明珠殿」
「父上はお忙しいのでしょう。荊州を治めるとは大仕事です。娘二人の所在など、土煙に紛れた小石のようなものでございます」
「小石ではない」
「文烈様が否定なさることではございません」
「それでも、違う」
またです――
この方は、私が自分を軽く扱うと、すぐに拾い上げようとします。
たいへん迷惑です。
落ちている方にも事情があるのです。
私は笑いました。
「それでは、文烈様……私は今、何なのでしょう」
「何、とは?」
「劉備玄徳の娘。漢室の血を引く者。子和様の室。丞相様から預けられた者。文烈様のお屋敷に置かれた者。そろそろ名札が足りません」
文烈様は、しばらく黙りました。
そして、静かに言います。
「そなたは、ただこの屋敷へ移されたわけではない」
「はい?」
「曹公の手配で、朝廷預かりの形が整えられている。陛下の養女に近い扱いだ」
「養女……」
口の中で、その言葉が転がりました。
陛下、丞相様、子和様、文烈様。
たいへん立派なお名前が、私一人の上に積まれていきます。
そろそろ首が折れそうです。
「漢室の血を引く者として、名分を立てた。子和殿の室であった者を、そのまま私の屋敷へ置くわけにはいかぬ」
「つまり……」
「形の上では、そなたは私へ再嫁したことになる」
「再嫁……」
その二文字は、思ったより冷たい音がしました。
私は一度目の嫁入りを選んでおりません。
二度目も、もちろん選んでおりません。
それでも帳の上では、たいへん綺麗に整っているのでしょう。
帳は、いつも私より先に大人になります。
「正室として遇する」
文烈様の声は落ち着いていました。
私は笑いました。
笑わなければ、何か別のものが出そうでした。
「たいへん光栄でございます」
「明珠殿」
「捕らえられた娘も、陛下の養女格となり、丞相様に整えられ、子和様の室を経て、文烈様の正室になる。人生とは、本人不在でもたいへん働き者なのですね」
「すまぬ」
「謝らないでください。文烈様が謝るたび、私の怒りの置き場所が減ります」
文烈様は、こちらへ一歩近づきました。
私は動きません。
動けなかったのではありません。
逃げるほどではなかっただけです。
たぶん――
「名目がそうであることと、今日からそなたに何かを求めることは別だ」
「別、でございますか?」
「別だ。そなたが納得せぬうちに、妻として振る舞えとは言わぬ」
「名目上は正室なのに?」
「ああ」
「文烈様は、帳に反抗なさるのですか?」
「帳より、人を見る」
「……たいへん危険な主義でございますね」
「そうかもしれぬ」
その人の良さが、いつか戦場で災いになるのではないでしょうか。
そう思いました。
けれど今、その人の良さは私に向いています。
それがまた、いっそう扱いに困るのです。
廊下の向こうから、玉珠の声が飛んできました。
「姉上ー! 本邸のお菓子、四角いのもあるー!」
私は目を閉じました。
文烈様が笑いをこらえている気配がします。
「玉珠殿は楽しそうだ」
「ええ。妹は今、曹家の本邸において砂糖外交を満喫しております」
「明日も行くだろうな」
「でしょうね」
文烈様は、静かに私を見ました。
「その間、私はここへ来てもよいか?」
「……玉珠がいない間に?」
「ああ」
「たいへん正直に仰いますね」
「隠せば、そなたは気づく」
「気づきます」
「ならば、聞く」
私は返事に詰まりました。
外では、玉珠が笑っています。
本邸には菓子があります。
曹肇様は逃げなくなりました。
文烈様は、私の部屋で、私に許しを求めています。
包囲とは、時に甘く、丁寧で、礼儀正しいものなのですね。
丞相様の軍勢より、よほどたちが悪い。
私は、ゆっくり息を吐きました。
「戸の外で声をかけてくださるなら……」
「必ず」
「勝手に入らないなら」
「入らぬ」
「私が嫌だと言ったら?」
「退く」
即答でした。
本当に困ります。
こちらが用意した槍先に、花を結ばれた気分です。
「では……構いません」
「感謝する」
文烈様は、穏やかに頭を下げました。
屋敷の主が、正室という名目を与えられた女に、部屋を訪ねる許しを請う。
たいへん奇妙です。
奇妙すぎて、少し笑いそうになりました。
その時、廊下を走る足音が近づいてきます。
玉珠です。
戸が開く前から声が飛び込みました。
「姉上! 曹肇が、明日も来いって! 明後日も来いって! それから、玉珠のお部屋も本邸に近い方がいいって!」
私は固まりました。
文烈様は、たいへん静かな顔をしています。
静かすぎます。
玉珠が戸口から顔を出しました。
両手には菓子。
髪には見覚えのない綺麗な紐。
後ろには、木馬を抱えた曹肇様。
そして玉珠は、無邪気に笑いました。
「姉上、玉珠、お引っ越しするの?」
文烈様の目が、私を見ています。
今度は、配置どころではありません。
地図が動き始めておりました――
劉玉珠です。
今回は、曹肇のお部屋へ行きました。
姉上は、曹肇様と呼びなさいと言います。
でも曹肇は、様はいらないと言います。
だから玉珠は、姉上がいる時は曹肇様、いない時は曹肇と呼ぶことにしました。
これなら、たぶん大丈夫です。
朝、玉珠は早く起きました。
本邸へ行くからです。
曹肇のお部屋へ行くからです。
お菓子があるからです。
姉上には、玉珠の足がもう本邸を向いていると言われました。
本当でした。
足は正直です。
曹肇は、玉珠を迎えに来てくれました。
昨日より逃げませんでした。
少しだけえらくなったのだと思います。
本邸には、お菓子がありました。
丸いお菓子もありました。
四角いお菓子もありました。
玉珠は、世の中にはいろいろな形のお菓子があるのだと知りました。
とても勉強になります。
曹肇は、全部食べるなと言いました。
でも、全部食べるなと言うなら、最初からたくさん出さなければよいのではないでしょうか?
少し難しいです……
本邸の侍女さんは、玉珠の髪をきれいに結んでくれました。
姉上より少しだけ優しい手でした。
でも、姉上の方が慣れています。
だから玉珠は、どちらも好きです。
それから、曹肇が言いました。
明日も来い。
明後日も来い。
玉珠のお部屋も、本邸に近い方がいい。
玉珠は、それを姉上に言いました。
姉上は固まりました。
文烈様も静かでした。
玉珠は、少し不思議です。
お部屋が近くなるのは、よいことではないのでしょうか?
近ければ、お菓子も冷めません。
曹肇も逃げなくてすみます。
姉上にも、すぐ会いに行けます。
だから玉珠は聞きました。
玉珠、お引っ越しするの?
姉上は、すぐには答えてくれませんでした。
次回は、玉珠のお部屋がどこになるのかのお話だと思います。
たぶん――
でも姉上の顔を見ると、それだけではないのかもしれません。
大人のお話は、時々、お菓子より形が難しいです。




