表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/23

丞相様、婚姻の御礼にお菓子は必要ですか?

劉明珠でございます。


前回、玉珠が本邸へ行きました。

理由は、曹肇様に呼ばれたからです。

そして、お菓子があるからです。

妹の行動理由は、たいへん分かりやすくできております。

曹肇様は、昨日まで逃げていた若君とは思えないほど、玉珠を本邸へ呼びたがるようになりました。

お菓子を持って来た若君が、今度は妹を持って行こうとしております。

たいへん成長が早いです。

喜ぶべきでしょうか?

警戒すべきでしょうか?

たぶん両方です。

そして、玉珠はたいへん無邪気に言いました。


玉珠、お引っ越しするの?


ええ――

その言葉で、私の心はだいぶ固まりました。

玉珠本人にとっては、お菓子が近くなり、曹肇様と遊びやすくなるだけの話です。

ですが私には、妹の居場所が文烈様の本邸の内へ移っていく話に聞こえました。

安全です。

たぶん、とても安全です。

だからこそ、文句の置き場所に困ります。

今回は、玉珠の部屋を見に、本邸へ参ります。

曹肇様だけでなく、まだ幼い曹纂様にもお会いすることになります。


それから、文烈様とともに、丞相様へ婚姻の御礼に伺います。

婚姻の御礼――

たいへん立派な響きでございます。


なお、玉珠はお菓子を持って行くべきか悩んでおります。

丞相様に、です。

妹の勇気は、時々、兵より恐ろしゅうございます。

玉珠のお引っ越しは、菓子の温度で決まりかけました。

「近い方がいいよ」

玉珠は、たいへん真面目な顔で言いました。

両手には菓子。

髪には本邸の侍女に結ばれた綺麗な紐。

後ろには木馬を抱えた曹肇様。

説得力があるのか、ないのか、判断に困る布陣です。

「何が近い方がよいのですか?」

「お菓子」

「そこですか……」

「曹肇も」

「順番が逆ではありませんか?」

玉珠は少し考えました。

「曹肇と、お菓子」

「若君と甘味を並べないでください!」

曹肇様は、木馬を抱えたまま言いました。

「近い方がいい」

「若君まで……」

「すぐ遊べる」

理由がたいへん正直です。

正直すぎて、政治の匂いがいたしません。

それがむしろ厄介です。

文烈様は、静かにこちらを見ておられました。

「明珠殿……玉珠殿を、本邸の内へ移すことを考えている」

本邸の内――

その言葉は、思っていたより重く響きました。

離れではありません。

本邸の近くでもありません。

本邸の内です。

つまり、文烈様の家の中心に、妹の居場所が作られるということです。

「玉珠殿はまだ幼い。離れに置くより、本邸の内で侍女の目が届く方がよい。肇も望んでいる」

正しい――

たいへん正しい。

玉珠は十歳前後の女の子です。

敵地におります。

姉妹とも守られておりますが、守るなら人の目がある場所の方がよい。

本邸の内、侍女の目、文烈様の管理。

どれも正論です。

正しいことばかり並べられると、人は文句の置き場所に困ります。

もちろん、私も守られております。

一人きりにされることはなく、侍女は控え、戸の外には人の気配があります。

夜になれば、廊下の灯も消えません。

安全です。

安全すぎて、逃げ道の数まで数えられている気がいたします。

「私も一緒に見に行ってよろしいでしょうか?」

文烈様はすぐに頷きました。

「もちろんだ。そなたに見せずに決めるつもりはない」

見せてくださる。

聞いてくださる。

待ってくださる。

たいへん丁寧です。

ただし、話はもう動いております。

丁寧な手は、乱暴な手より止めにくい時がございます。

「姉上も来るの?」

玉珠が嬉しそうに言いました。

「行きます。あなたがどこへ置かれるのか、姉が見ないわけにはまいりません」

「玉珠、置物じゃないよ?」

「知っております。動きすぎる置物など、あってたまるものですか」

玉珠は笑いました。

曹肇様は、玉珠の袖をつかんだまま廊下へ向かいます。

「行く」

「はい!」

「待ちなさい!」

私は立ち上がりました。

前には妹。

隣には曹家の若君。

後ろには文烈様。

護送ではないはずなのに、なぜこうも護送に似るのでしょう。

本邸の廊下は明るく、人の気配も多くありました。

侍女が控え、下男が頭を下げ、奥からは小さな声が聞こえます。

玉珠が足を止めました。

「姉上」

「何です?」

「小さい声がする」

「若君の弟君でしょう」

曹肇様が振り向きました。

「纂」

その名を聞いた直後、部屋の奥から乳母らしき女が姿を見せました。

抱えられるようにして、小さな若君が座っています。

三つほどでしょうか……

曹肇様よりさらに幼く、丸い頬をしております。

眠そうな目。

小さな手には木の駒。

そして口元には菓子の粉。

玉珠の目が輝きました。

「姉上」

「何です?」

「小さい若君にも、お菓子がついてる」

乳母が慌てて曹纂様の口元を拭いました。

曹纂様は、玉珠をじっと見ています。

玉珠も、曹纂様をじっと見ました。

しばらくして、曹纂様が木の駒を少し持ち上げます。

玉珠はなぜか、手に持っていた菓子を持ち上げました。

「姉上」

「何です?」

「これは、ご挨拶?」

「たぶん、曹家式の外交です」

文烈様が、後ろで小さく息を吐きました。

笑ったのだと思います。

曹肇様は不満そうに言いました。

「纂に全部やるな」

「まだあげてないよ?」

「お前は、すぐやる」

「曹肇は、玉珠のことよく分かってきたね」

「分かる」

得意そうです。

昨日まで逃げていた若君が、今日は妹の菓子配分を管理しております。

成長とは、時に菓子皿の上で起きるようです。

用意された部屋は、本邸の内にありました。

曹肇様の部屋から近く、曹纂様の乳母がいる場所からも遠くありません。

侍女の控える間も近い。

窓は明るく、戸は厚く、夜になっても廊下に人が通るでしょう。

安全です……

どこから見ても安全です……

だからこそ、不安で胸がざわつきました。

玉珠は部屋を見回し、目を輝かせています。

「姉上、ここ広い」

「そうですね」

「お菓子、冷めない?」

「お菓子は部屋の中心ではありません」

「でも近いよ?」

「あなたの世界地図には、菓子しか描かれていないのですか」

「姉上もいるよ」

不意にそう言われて、私は言葉に詰まりました。

玉珠は笑っています。

「姉上のお部屋にも、すぐ行けるよね?」

文烈様が答えました。

「行けるようにする。明珠殿の許しがあれば、玉珠殿はいつでも行ってよい」

「本当?」

「本当だ」

「じゃあ大丈夫!」

何が大丈夫なのでしょう。

妹の中では、菓子と姉が近ければ、世の中はだいたい安全らしいです。

たいへん困ります。

その単純さに、私は救われてしまうのです。

「明珠殿」

文烈様が静かに言いました。

「この形で、よいだろうか?」

よいのでしょう……

安全です。

玉珠は喜んでいます。

曹肇様は満足げです。

曹纂様は菓子の粉を拭かれております。

反対する理由は、私の胸の中にしかありません。

それは、理由として弱すぎます。

「玉珠が望むなら……」

「そなたは?」

またです……

この方は、妹を盾にした返答を許してくれません。

「……怖いです」

玉珠がこちらを見ました。

「姉上、こわいの?」

「あなたが楽しそうだからです」

「楽しいと、こわいの?」

「時々、とても」

玉珠は首をかしげました。

文烈様は、少しだけ考えてから言いました。

「ならば、少しずつにしよう。今夜から移すのではなく、昼の間に慣らす。夜はしばらく明珠殿の近くでよい」

逃げ道を残されました。

本当に、この方は困ります。

全部を奪わない。

けれど、少しずつ動かす。

正しい檻ほど、扉がよく磨かれております。

その日の午後、文烈様は別の話を持ってきました。

「明珠殿、曹公へ婚姻の御礼に参る」

「婚姻の御礼」

思わず、同じ言葉を返しました。

朝に妹の部屋を見に行き、午後に婚姻の礼。

私の人生は、近頃たいへん忙しく帳へ書き込まれております。

「形の上でも、曹公の手配で整えられたことだ。私とそなたで拝謁し、礼を述べる」

玉珠が自分を指さしました。

「玉珠も丞相様にありがとうする?」

文烈様は少し考えました。

「曹公は、玉珠殿のことも気にかけておられる。望むなら共に来るとよい」

「お菓子持っていく?」

「丞相様に菓子を献上するつもりですか?」

「ありがとうの時は、何か持っていくんじゃないの?」

考え自体は間違っておりません。

相手が丞相様でなければ……

玉珠は真剣に悩んでいました。

父上――

玉珠は今日も元気です。

少し元気が過ぎます。

丞相様への拝謁は、やはり緊張いたしました。

あの方は小さい……

以前にも思いましたが、やはり小さい……

ただし、ただ小さいだけなら、私はここまで息を詰めません。

小さな体に、やたら大きな影がついているような方なのです。

背丈だけなら、玉珠がそのうち追い越しそうです。

圧だけなら、山より大きい。

たいへん困ります。

小さい山とは何なのでしょう。

丞相様でございます。

文烈様と並んで頭を下げると、丞相様はしばらく私を見ました。

「明珠」

「はい」

「顔色は悪くないな」

「おかげさまで」

「文烈は粗略にはせぬだろう」

文烈様は静かに頭を下げました。

「曹公のご配慮に感謝いたします」

「うむ……劉備の娘を粗末にしては、玄徳への当てつけにもならぬ」

当てつけ――

言いました。

この小さい山、普通に言いました。

私は顔には出しません。

心の中では、丞相様の頭上に「正直」と書いた札を立てておきました。

たいへんよく似合います。

丞相様は口元を上げました。

「婚姻、めでたいことだ。形ばかりでなく、家として整えよ」

普通に祝われました。

あまりにも普通に祝われたので、私は一瞬、返す言葉を失いました。

捕らえられた娘です。

父の敵地におります。

本人不在で名分が整えられ、文烈様の正室として扱われております。

それなのに、目の前の小柄な覇者は、ごく当たり前のように、めでたいと言いました。

怖い、器は大きい、背は小さい。

頭の中がたいへん忙しくなります。

「ありがたく存じます」

どうにか、そう申し上げました。

丞相様は満足げに頷き、今度は玉珠を見ました。

「玉珠、お前も元気そうだな」

「はい! 丞相様、今日も小さいですね!」

場が止まりました。

私の呼吸も止まりました。

父上――

あなたの娘は、天下で最も言わなくてよい事実を、たいへん元気よく申しました。

文烈様の気配も固まっています。

丞相様は、じっと玉珠を見ました。

玉珠は不思議そうに首をかしげます。

「違う?」

長い沈黙のあと、丞相様が笑いました。

「違わぬ」

違わないのですね……

そこは否定なさらないのですね……

小さい山は、自分が山であることには自信があるようです。

「玉珠は正直だな」

「姉上にもよく言われます!」

「明珠はどう言う?」

逃げられません……

私は一度、目を伏せました。

「玉珠は、事実と礼儀の区別がまだ少し苦手でございます」

丞相様はさらに笑いました。

「よい……事実を言う者は貴重だ。礼儀ばかりの者は、時々つまらぬ」

「でも丞相様、小さいけど怖いです!」

「玉珠!」

今度は私の声が出ました。

丞相様はまだ笑っています。

怖いのに、機嫌は悪くなさそうです。

器が大きいのでしょう。

器が大きすぎて、背丈の方が置き去りになったのかもしれません。

もちろん、口には出しません。

命は大切です。

「怖いか?」

「はい!」

「では覚えておけ。怖い者が、必ず悪い者とは限らぬ」

玉珠は真剣に頷きました。

「丞相様は、怖いけど、お菓子をくれる方ですか?」

「菓子が欲しいのか?」

「ありがとうの時は玉珠がお菓子を持ってくるのかと思ったけど、持ってこなかったので、丞相様が持っているのかなって」

発想が迷子です……

丞相様はまた笑い、侍者に目を向けました。

「菓子をやれ」

玉珠の顔が輝きました。

「ありがとうございます!」

丞相様は私と文烈様を見ました。

「文烈」

「は!」

「この娘らを、よく守れ」

短い言葉でした。

けれど、その声から笑いが消えていました。

文烈様が深く頭を下げます。

「承知しております」

丞相様の目が、今度は私に向きました。

「明珠」

「はい」

「お前は、恨んでよい。だが、生きよ」

背筋が冷えました。

祝われたはずです。

菓子も出ました。

玉珠は笑っています。

それなのに、その一言で部屋の空気が変わりました。

この方は分かっているのです。

自分が私たちの行き先を決めたことを……

曹純様の屋敷へ置き、文烈様へつなぎ、私を正室という名で整えたことを……

それが救いであり、同時に檻でもあることを……

怖い――

本当に怖い方です。

そして、悪い方だけではありません。

私は頭を下げました。

「……生きます」

丞相様は頷きました。

「それでよい」

退出する時、玉珠は菓子の包みを大事そうに抱えていました。

「姉上!」

「何です?」

「丞相様、小さいけど、大きいね」

私は足を止めかけました。

文烈様が、隣で小さく息をつきます。

「玉珠……」

「はい!」

「それは、外では言わないでください……」

「小さい方? 大きい方?」

「両方です……」

玉珠は困った顔をしました。

「難しいね」

ええ――

難しいのです……

人は時々、小さいのに大きく、怖いのに救い、敵なのに恩人でございます。

屋敷へ戻る車の中で、文烈様は静かに言いました。

「明珠殿、玉珠殿は昼の間だけ本邸の部屋を使う。夜は、そなたの近くに戻す」

「……ありがとうございます」

「急がぬ」

その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜きました。

けれど、安心するには早すぎました。

文烈様は続けます。

「それと、曹公から別に話があった」

「別に?」

「玉珠殿のことだ」

菓子の包みを抱えた玉珠が、きょとんと顔を上げました。

「玉珠?」

文烈様の表情は穏やかです。

穏やかすぎて、嫌な予感がしました。

「曹公は、玉珠殿にもいずれ相応しい家を考えねばならぬ、と仰せだった」

車輪の音が、急に遠くなりました。

玉珠は首をかしげています。

「玉珠のおうち? 本邸のお部屋のこと?」

誰も、すぐには答えませんでした。

私は菓子の包みを抱える妹を見ました。

本邸の部屋、曹肇様、曹纂様、丞相様の祝い。

そして、玉珠にもいずれ相応しい家。

地図どころではありません。

妹の名札まで、誰かの手で書かれ始めておりました。

劉玉珠です。


今回は、本邸のお部屋を見に行きました。

曹肇が、近い方がいいと言ったからです。

玉珠も、近い方がいいと思います。

お菓子が冷めません。

曹肇ともすぐ遊べます。

姉上にもすぐ会いに行けます。

だから、とてもよいと思いました。

でも姉上は、少し怖い顔をしていました。

お部屋は明るくて、広くて、侍女さんも近くにいます。

夜も人が通るそうです。

だから安全です。

安全なのに、姉上は怖いそうです。

玉珠には少し難しいです。


それから、小さい若君にも会いました。

曹纂様です。

三つくらいの小さな若君です。

お口にお菓子の粉がついていました。

玉珠は、すぐに仲良くなれそうだと思いました。

曹纂様は木の駒を見せてくれました。

玉珠もお菓子を見せました。

たぶん、ご挨拶です。

曹家では、お菓子と木の馬と木の駒でお話しするのかもしれません。

少しずつ分かってきました。


午後には、丞相様に会いました。

婚姻の御礼だそうです。

玉珠は、お菓子を持って行った方がいいのかと思いました。

でも持って行きませんでした。

そうしたら、丞相様がお菓子をくださいました。

丞相様は、やっぱり小さいです。

でも、怖いです。

そして、大きいです。

小さいのに、大きいです。

玉珠には少し難しいです。

姉上は、外では言ってはいけないと言いました。

小さい方も、大きい方も、両方だそうです。

とても難しいです。

丞相様は、怖い人が必ず悪い人とは限らないと言いました。

玉珠は覚えました。

丞相様は怖いです。

でも、お菓子をくれました。

だから、悪い人だけではないのだと思います。


帰りの車で、文烈様が言いました。

玉珠は昼の間だけ本邸のお部屋を使って、夜はしばらく姉上の近くに戻ってよいそうです。

よかったです。

姉上と離れるのは、少しさみしいです。

でも本邸のお部屋も楽しみです。

玉珠は、どちらも好きです。


それから、丞相様が玉珠にも相応しい家を考えると言っていたそうです。

玉珠のおうちは、今のお部屋ではないのでしょうか?

本邸のお部屋でしょうか?

それとも、もっと別のおうちでしょうか?

姉上は、すぐには答えてくれませんでした。

文烈様も静かでした。

玉珠は、少しだけ分かった気がしました。

たぶん、大人の言う「おうち」は、お菓子の場所だけでは決まらないのです。


次回は、玉珠のおうちのお話でしょうか?

それとも、姉上がまた難しい顔をするお話でしょうか?

どちらにしても、玉珠はお菓子をちゃんと持っていようと思います。

お菓子があれば、たぶん少し安心です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ