丞相様、婚姻の御礼にお菓子は必要ですか?
劉明珠でございます。
前回、玉珠が本邸へ行きました。
理由は、曹肇様に呼ばれたからです。
そして、お菓子があるからです。
妹の行動理由は、たいへん分かりやすくできております。
曹肇様は、昨日まで逃げていた若君とは思えないほど、玉珠を本邸へ呼びたがるようになりました。
お菓子を持って来た若君が、今度は妹を持って行こうとしております。
たいへん成長が早いです。
喜ぶべきでしょうか?
警戒すべきでしょうか?
たぶん両方です。
そして、玉珠はたいへん無邪気に言いました。
玉珠、お引っ越しするの?
ええ――
その言葉で、私の心はだいぶ固まりました。
玉珠本人にとっては、お菓子が近くなり、曹肇様と遊びやすくなるだけの話です。
ですが私には、妹の居場所が文烈様の本邸の内へ移っていく話に聞こえました。
安全です。
たぶん、とても安全です。
だからこそ、文句の置き場所に困ります。
今回は、玉珠の部屋を見に、本邸へ参ります。
曹肇様だけでなく、まだ幼い曹纂様にもお会いすることになります。
それから、文烈様とともに、丞相様へ婚姻の御礼に伺います。
婚姻の御礼――
たいへん立派な響きでございます。
なお、玉珠はお菓子を持って行くべきか悩んでおります。
丞相様に、です。
妹の勇気は、時々、兵より恐ろしゅうございます。
玉珠のお引っ越しは、菓子の温度で決まりかけました。
「近い方がいいよ」
玉珠は、たいへん真面目な顔で言いました。
両手には菓子。
髪には本邸の侍女に結ばれた綺麗な紐。
後ろには木馬を抱えた曹肇様。
説得力があるのか、ないのか、判断に困る布陣です。
「何が近い方がよいのですか?」
「お菓子」
「そこですか……」
「曹肇も」
「順番が逆ではありませんか?」
玉珠は少し考えました。
「曹肇と、お菓子」
「若君と甘味を並べないでください!」
曹肇様は、木馬を抱えたまま言いました。
「近い方がいい」
「若君まで……」
「すぐ遊べる」
理由がたいへん正直です。
正直すぎて、政治の匂いがいたしません。
それがむしろ厄介です。
文烈様は、静かにこちらを見ておられました。
「明珠殿……玉珠殿を、本邸の内へ移すことを考えている」
本邸の内――
その言葉は、思っていたより重く響きました。
離れではありません。
本邸の近くでもありません。
本邸の内です。
つまり、文烈様の家の中心に、妹の居場所が作られるということです。
「玉珠殿はまだ幼い。離れに置くより、本邸の内で侍女の目が届く方がよい。肇も望んでいる」
正しい――
たいへん正しい。
玉珠は十歳前後の女の子です。
敵地におります。
姉妹とも守られておりますが、守るなら人の目がある場所の方がよい。
本邸の内、侍女の目、文烈様の管理。
どれも正論です。
正しいことばかり並べられると、人は文句の置き場所に困ります。
もちろん、私も守られております。
一人きりにされることはなく、侍女は控え、戸の外には人の気配があります。
夜になれば、廊下の灯も消えません。
安全です。
安全すぎて、逃げ道の数まで数えられている気がいたします。
「私も一緒に見に行ってよろしいでしょうか?」
文烈様はすぐに頷きました。
「もちろんだ。そなたに見せずに決めるつもりはない」
見せてくださる。
聞いてくださる。
待ってくださる。
たいへん丁寧です。
ただし、話はもう動いております。
丁寧な手は、乱暴な手より止めにくい時がございます。
「姉上も来るの?」
玉珠が嬉しそうに言いました。
「行きます。あなたがどこへ置かれるのか、姉が見ないわけにはまいりません」
「玉珠、置物じゃないよ?」
「知っております。動きすぎる置物など、あってたまるものですか」
玉珠は笑いました。
曹肇様は、玉珠の袖をつかんだまま廊下へ向かいます。
「行く」
「はい!」
「待ちなさい!」
私は立ち上がりました。
前には妹。
隣には曹家の若君。
後ろには文烈様。
護送ではないはずなのに、なぜこうも護送に似るのでしょう。
本邸の廊下は明るく、人の気配も多くありました。
侍女が控え、下男が頭を下げ、奥からは小さな声が聞こえます。
玉珠が足を止めました。
「姉上」
「何です?」
「小さい声がする」
「若君の弟君でしょう」
曹肇様が振り向きました。
「纂」
その名を聞いた直後、部屋の奥から乳母らしき女が姿を見せました。
抱えられるようにして、小さな若君が座っています。
三つほどでしょうか……
曹肇様よりさらに幼く、丸い頬をしております。
眠そうな目。
小さな手には木の駒。
そして口元には菓子の粉。
玉珠の目が輝きました。
「姉上」
「何です?」
「小さい若君にも、お菓子がついてる」
乳母が慌てて曹纂様の口元を拭いました。
曹纂様は、玉珠をじっと見ています。
玉珠も、曹纂様をじっと見ました。
しばらくして、曹纂様が木の駒を少し持ち上げます。
玉珠はなぜか、手に持っていた菓子を持ち上げました。
「姉上」
「何です?」
「これは、ご挨拶?」
「たぶん、曹家式の外交です」
文烈様が、後ろで小さく息を吐きました。
笑ったのだと思います。
曹肇様は不満そうに言いました。
「纂に全部やるな」
「まだあげてないよ?」
「お前は、すぐやる」
「曹肇は、玉珠のことよく分かってきたね」
「分かる」
得意そうです。
昨日まで逃げていた若君が、今日は妹の菓子配分を管理しております。
成長とは、時に菓子皿の上で起きるようです。
用意された部屋は、本邸の内にありました。
曹肇様の部屋から近く、曹纂様の乳母がいる場所からも遠くありません。
侍女の控える間も近い。
窓は明るく、戸は厚く、夜になっても廊下に人が通るでしょう。
安全です……
どこから見ても安全です……
だからこそ、不安で胸がざわつきました。
玉珠は部屋を見回し、目を輝かせています。
「姉上、ここ広い」
「そうですね」
「お菓子、冷めない?」
「お菓子は部屋の中心ではありません」
「でも近いよ?」
「あなたの世界地図には、菓子しか描かれていないのですか」
「姉上もいるよ」
不意にそう言われて、私は言葉に詰まりました。
玉珠は笑っています。
「姉上のお部屋にも、すぐ行けるよね?」
文烈様が答えました。
「行けるようにする。明珠殿の許しがあれば、玉珠殿はいつでも行ってよい」
「本当?」
「本当だ」
「じゃあ大丈夫!」
何が大丈夫なのでしょう。
妹の中では、菓子と姉が近ければ、世の中はだいたい安全らしいです。
たいへん困ります。
その単純さに、私は救われてしまうのです。
「明珠殿」
文烈様が静かに言いました。
「この形で、よいだろうか?」
よいのでしょう……
安全です。
玉珠は喜んでいます。
曹肇様は満足げです。
曹纂様は菓子の粉を拭かれております。
反対する理由は、私の胸の中にしかありません。
それは、理由として弱すぎます。
「玉珠が望むなら……」
「そなたは?」
またです……
この方は、妹を盾にした返答を許してくれません。
「……怖いです」
玉珠がこちらを見ました。
「姉上、こわいの?」
「あなたが楽しそうだからです」
「楽しいと、こわいの?」
「時々、とても」
玉珠は首をかしげました。
文烈様は、少しだけ考えてから言いました。
「ならば、少しずつにしよう。今夜から移すのではなく、昼の間に慣らす。夜はしばらく明珠殿の近くでよい」
逃げ道を残されました。
本当に、この方は困ります。
全部を奪わない。
けれど、少しずつ動かす。
正しい檻ほど、扉がよく磨かれております。
その日の午後、文烈様は別の話を持ってきました。
「明珠殿、曹公へ婚姻の御礼に参る」
「婚姻の御礼」
思わず、同じ言葉を返しました。
朝に妹の部屋を見に行き、午後に婚姻の礼。
私の人生は、近頃たいへん忙しく帳へ書き込まれております。
「形の上でも、曹公の手配で整えられたことだ。私とそなたで拝謁し、礼を述べる」
玉珠が自分を指さしました。
「玉珠も丞相様にありがとうする?」
文烈様は少し考えました。
「曹公は、玉珠殿のことも気にかけておられる。望むなら共に来るとよい」
「お菓子持っていく?」
「丞相様に菓子を献上するつもりですか?」
「ありがとうの時は、何か持っていくんじゃないの?」
考え自体は間違っておりません。
相手が丞相様でなければ……
玉珠は真剣に悩んでいました。
父上――
玉珠は今日も元気です。
少し元気が過ぎます。
丞相様への拝謁は、やはり緊張いたしました。
あの方は小さい……
以前にも思いましたが、やはり小さい……
ただし、ただ小さいだけなら、私はここまで息を詰めません。
小さな体に、やたら大きな影がついているような方なのです。
背丈だけなら、玉珠がそのうち追い越しそうです。
圧だけなら、山より大きい。
たいへん困ります。
小さい山とは何なのでしょう。
丞相様でございます。
文烈様と並んで頭を下げると、丞相様はしばらく私を見ました。
「明珠」
「はい」
「顔色は悪くないな」
「おかげさまで」
「文烈は粗略にはせぬだろう」
文烈様は静かに頭を下げました。
「曹公のご配慮に感謝いたします」
「うむ……劉備の娘を粗末にしては、玄徳への当てつけにもならぬ」
当てつけ――
言いました。
この小さい山、普通に言いました。
私は顔には出しません。
心の中では、丞相様の頭上に「正直」と書いた札を立てておきました。
たいへんよく似合います。
丞相様は口元を上げました。
「婚姻、めでたいことだ。形ばかりでなく、家として整えよ」
普通に祝われました。
あまりにも普通に祝われたので、私は一瞬、返す言葉を失いました。
捕らえられた娘です。
父の敵地におります。
本人不在で名分が整えられ、文烈様の正室として扱われております。
それなのに、目の前の小柄な覇者は、ごく当たり前のように、めでたいと言いました。
怖い、器は大きい、背は小さい。
頭の中がたいへん忙しくなります。
「ありがたく存じます」
どうにか、そう申し上げました。
丞相様は満足げに頷き、今度は玉珠を見ました。
「玉珠、お前も元気そうだな」
「はい! 丞相様、今日も小さいですね!」
場が止まりました。
私の呼吸も止まりました。
父上――
あなたの娘は、天下で最も言わなくてよい事実を、たいへん元気よく申しました。
文烈様の気配も固まっています。
丞相様は、じっと玉珠を見ました。
玉珠は不思議そうに首をかしげます。
「違う?」
長い沈黙のあと、丞相様が笑いました。
「違わぬ」
違わないのですね……
そこは否定なさらないのですね……
小さい山は、自分が山であることには自信があるようです。
「玉珠は正直だな」
「姉上にもよく言われます!」
「明珠はどう言う?」
逃げられません……
私は一度、目を伏せました。
「玉珠は、事実と礼儀の区別がまだ少し苦手でございます」
丞相様はさらに笑いました。
「よい……事実を言う者は貴重だ。礼儀ばかりの者は、時々つまらぬ」
「でも丞相様、小さいけど怖いです!」
「玉珠!」
今度は私の声が出ました。
丞相様はまだ笑っています。
怖いのに、機嫌は悪くなさそうです。
器が大きいのでしょう。
器が大きすぎて、背丈の方が置き去りになったのかもしれません。
もちろん、口には出しません。
命は大切です。
「怖いか?」
「はい!」
「では覚えておけ。怖い者が、必ず悪い者とは限らぬ」
玉珠は真剣に頷きました。
「丞相様は、怖いけど、お菓子をくれる方ですか?」
「菓子が欲しいのか?」
「ありがとうの時は玉珠がお菓子を持ってくるのかと思ったけど、持ってこなかったので、丞相様が持っているのかなって」
発想が迷子です……
丞相様はまた笑い、侍者に目を向けました。
「菓子をやれ」
玉珠の顔が輝きました。
「ありがとうございます!」
丞相様は私と文烈様を見ました。
「文烈」
「は!」
「この娘らを、よく守れ」
短い言葉でした。
けれど、その声から笑いが消えていました。
文烈様が深く頭を下げます。
「承知しております」
丞相様の目が、今度は私に向きました。
「明珠」
「はい」
「お前は、恨んでよい。だが、生きよ」
背筋が冷えました。
祝われたはずです。
菓子も出ました。
玉珠は笑っています。
それなのに、その一言で部屋の空気が変わりました。
この方は分かっているのです。
自分が私たちの行き先を決めたことを……
曹純様の屋敷へ置き、文烈様へつなぎ、私を正室という名で整えたことを……
それが救いであり、同時に檻でもあることを……
怖い――
本当に怖い方です。
そして、悪い方だけではありません。
私は頭を下げました。
「……生きます」
丞相様は頷きました。
「それでよい」
退出する時、玉珠は菓子の包みを大事そうに抱えていました。
「姉上!」
「何です?」
「丞相様、小さいけど、大きいね」
私は足を止めかけました。
文烈様が、隣で小さく息をつきます。
「玉珠……」
「はい!」
「それは、外では言わないでください……」
「小さい方? 大きい方?」
「両方です……」
玉珠は困った顔をしました。
「難しいね」
ええ――
難しいのです……
人は時々、小さいのに大きく、怖いのに救い、敵なのに恩人でございます。
屋敷へ戻る車の中で、文烈様は静かに言いました。
「明珠殿、玉珠殿は昼の間だけ本邸の部屋を使う。夜は、そなたの近くに戻す」
「……ありがとうございます」
「急がぬ」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜きました。
けれど、安心するには早すぎました。
文烈様は続けます。
「それと、曹公から別に話があった」
「別に?」
「玉珠殿のことだ」
菓子の包みを抱えた玉珠が、きょとんと顔を上げました。
「玉珠?」
文烈様の表情は穏やかです。
穏やかすぎて、嫌な予感がしました。
「曹公は、玉珠殿にもいずれ相応しい家を考えねばならぬ、と仰せだった」
車輪の音が、急に遠くなりました。
玉珠は首をかしげています。
「玉珠のおうち? 本邸のお部屋のこと?」
誰も、すぐには答えませんでした。
私は菓子の包みを抱える妹を見ました。
本邸の部屋、曹肇様、曹纂様、丞相様の祝い。
そして、玉珠にもいずれ相応しい家。
地図どころではありません。
妹の名札まで、誰かの手で書かれ始めておりました。
劉玉珠です。
今回は、本邸のお部屋を見に行きました。
曹肇が、近い方がいいと言ったからです。
玉珠も、近い方がいいと思います。
お菓子が冷めません。
曹肇ともすぐ遊べます。
姉上にもすぐ会いに行けます。
だから、とてもよいと思いました。
でも姉上は、少し怖い顔をしていました。
お部屋は明るくて、広くて、侍女さんも近くにいます。
夜も人が通るそうです。
だから安全です。
安全なのに、姉上は怖いそうです。
玉珠には少し難しいです。
それから、小さい若君にも会いました。
曹纂様です。
三つくらいの小さな若君です。
お口にお菓子の粉がついていました。
玉珠は、すぐに仲良くなれそうだと思いました。
曹纂様は木の駒を見せてくれました。
玉珠もお菓子を見せました。
たぶん、ご挨拶です。
曹家では、お菓子と木の馬と木の駒でお話しするのかもしれません。
少しずつ分かってきました。
午後には、丞相様に会いました。
婚姻の御礼だそうです。
玉珠は、お菓子を持って行った方がいいのかと思いました。
でも持って行きませんでした。
そうしたら、丞相様がお菓子をくださいました。
丞相様は、やっぱり小さいです。
でも、怖いです。
そして、大きいです。
小さいのに、大きいです。
玉珠には少し難しいです。
姉上は、外では言ってはいけないと言いました。
小さい方も、大きい方も、両方だそうです。
とても難しいです。
丞相様は、怖い人が必ず悪い人とは限らないと言いました。
玉珠は覚えました。
丞相様は怖いです。
でも、お菓子をくれました。
だから、悪い人だけではないのだと思います。
帰りの車で、文烈様が言いました。
玉珠は昼の間だけ本邸のお部屋を使って、夜はしばらく姉上の近くに戻ってよいそうです。
よかったです。
姉上と離れるのは、少しさみしいです。
でも本邸のお部屋も楽しみです。
玉珠は、どちらも好きです。
それから、丞相様が玉珠にも相応しい家を考えると言っていたそうです。
玉珠のおうちは、今のお部屋ではないのでしょうか?
本邸のお部屋でしょうか?
それとも、もっと別のおうちでしょうか?
姉上は、すぐには答えてくれませんでした。
文烈様も静かでした。
玉珠は、少しだけ分かった気がしました。
たぶん、大人の言う「おうち」は、お菓子の場所だけでは決まらないのです。
次回は、玉珠のおうちのお話でしょうか?
それとも、姉上がまた難しい顔をするお話でしょうか?
どちらにしても、玉珠はお菓子をちゃんと持っていようと思います。
お菓子があれば、たぶん少し安心です。




